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旅行の記憶と何気ない日常を

パンテオン3 その構造

ローマ帝政初期に誕生し、やがてキリスト教と共にあったことで2千年の時を生き抜いたパンテオンは、古代ローマの技術の高さを今でも世界に伝え続けています。今回はパンテオンの構造について綴ります。

 

パンテオンの内部空間は 直径43.3m、高さ43.3mの広さがあります。ドーム天井は正確な半球形状をしているので、つまりパンテオンの内部は直径43.3mの球がすっぽりはいる空間になっています。

ドーム天井は主にローマンコンクリートで構成されていて、それを支える円筒形の壁はレンガとローマンコンクリートのミックス構造になっています。半球状の天井を円筒で支えるシンプルで合理的な構造は同時に驚異的な耐久性も実現しました。

 

◾️壁

直径43.3mものドーム天井を支えるために、横壁の厚みは最大6mにも及びます。外側と内側にレンガの壁を作り、その間をローマンコンクリートで埋める構造です。また外側から壁面を観察すると規則的に横積みされたレンガの壁の所々に、アーチ上にレンガが積み上げられている箇所があるのがわかります。これは内部の祭壇などの壁内空間を作るために撮られた構造で、ドーム天井を支える強度を持ちながら内部の祭壇空間を確保するために編み出された技術です。

◾️ドーム

この直径43.3mものドームはローマンコンクリート製。内部には鉄筋や鉄骨はもちろんレンガなどの構造材が何もない。当時いかにローマンコンクリートが丈夫であることが知られていたとはいえ、この完全な半球ドームを作ることはとても難しく、この見事な半球のドームを実現するために様々な工夫が凝らされることになります。

柱のない直径43.3mもの巨大なドーム空間をどうやって成り立たせるか。最大の課題はドームに使用されるローマンコンクリートの重量でした。ローマの技術者たちは半球球形状の天井を成立させるために、三つの方法でこの難問を解決しました。

ひとつ目は、天井の厚みを天頂に行くにつれて徐々に薄くすること。円筒部の横壁厚みは最大6m、そこから天頂にいくにつれ少しずつ1.6mまで薄くなっていきます。天頂部の体積を減らすことで、支える重量を大きく軽減しました。

ふたつ目は、ローマンコンクリート軽石を混ぜ込むこと。比重の軽い軽石を、上部に行くほど多く混ぜることにより天頂部の重量軽減を実現します。

みっつ目は、内面に広がる無数の格間構造です。格間構造は秀逸な装飾であると同時に、半球天井の凹みをつくることで、使用するローマンコンクリートの量を減らし、ドーム全体の重量軽減に大きく貢献しています。

 

コロッセオで石材(トラバーチン)による駆体の隙間をローマンコンクリートが埋めたように、パンテオンではレンガ構造の間をローマンコンクリートが埋めることで二千年保つ強度を実現しています。ローマンコンクリートの使用方法としては、ここに極まれりです。パンテオンでは実現された直径43.3mものドームは、ブルネレスキによるフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレが完成するまで、約1300年もの間、「世界最大」を顕示していました。

僕はパンテオンを見るたびに、その斬新な造形と二千年前から形が変わっていないことに毎度新鮮な驚きを感じます。でも、「二千年前と変わらない」ことに驚く僕たちに対して、パンテオンを建てたローマの建築家や技術者たちは「あたりまえだろ?そういう風に作ったんだ」と呟いていそうです。

 

パンテオンの技術と美しさはその後もいろいろに受け継がれ発展していきます。コンスタンティノープルアヤソフィアのドームとなって、さらに無数のモスク建築へと受け継がれたり、やがてフィレンツェのサンタマリアデルフィオーレの美しいクーポラとなり、ローマのサンピエトロ寺院のクーポラへ、ロンドンのセントポール大聖堂へと広がって行く。またパンテオン(全ての神々に捧げる神殿)という存在は、パリのパンテオンとなっていくのです。

 

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小話 桜

今年も桜の花が咲きました。

満開です。

桜の名所はそれぞれ素晴らしいですが、こんな近所の桜の木もそれはそれは素晴らしい。桜の木、桜の花にはそういう力がありますね。

桜の花が咲くととっても華やいだ気持ちになります。

白い花びらに朱の絵の具を一滴だけたらしたように、全体は薄く淡い桃色に見える。

 

この時期は日本全国桜に酔いしれる。この熱狂は桜ならでは。チューリップでもバラでもなく、桜なんです。一つの花にここまで盛り上がる、そんな花をもつ国がほかにあるでしょうか?桜は日本の誇りです。

一年のほんの1週間ほどの間だけ、一気に花を咲かせて散っていく。

美しい姿が徐々に衰えていくの見せる前に、ひらひらとこれまた美しく散る姿は、潔い。僕たちは桜に、ただただ見事な華やかさだけでなく、儚く潔く散る姿も合わせて魅了される。

そして、ただひたすら美しい姿の裏側にある、咲くのも全力、散るのも全力、そんな一生懸命さや力強さがこの花からは感じられる。そんなところも日本人が桜に惹かれる理由なんじゃないかと。

僕もこんな風に、華やかに潔く生きたいものです。

 

最後に紹介する桜は。。

これは昨年、入院中だった娘に贈った桜の花です。この春から高校生、元気いっぱいに毎日を過ごしてほしい。

 

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パンテオン2 宮大工の心意気

パンテオンの正面にはラテン語の碑文があります。

M·AGRIPPA·L·F·COS·TERTIVM·FECIT

意味は「ルキウスの息子マルクス・アグリッパが3度目の執政官のときに建てた」であり、パンテオンにはアグリッパがパンテオンを建てたことが大きく刻まれているのです。しかし、ややこしい話ですが、今そこにあるパンテオンはアグリッパが建てたものではありません。

簡単にパンテオン建設の歴史をたどります。

◾️アグリッパについて

碑文に登場する「アグリッパ(Marcus Vipsanius Agrippa 紀元前63-紀元前12)」という人物ですが、初代皇帝アウグストゥスの右腕として生涯かけて活躍した人物です。アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が18歳の時にカエサルに見出され、カエサルの後継者に指名されたその時に、同じくカエサルによってアウグストゥスの右腕となるように指名されました。カエサル暗殺後の内乱期には軍事面でアウグストゥスを助け、平和な時期には公共建築などでアウグストゥスを支え、生涯アウグストゥスの右腕として大活躍しました。パンテオンに刻まれるアグリッパという人物はそういう人です。18歳の二人の若者をその資質を見抜いて指名する、カエサルの人を見る目、その先見性には凄みすら感じます。

◾️パンテオンの建設と消失(焼失)

そのアグリッパが、紀元前29年〜19年にかけて浴場、バシリカを備える複合施設を整備します。そこに建てたのがこの全ての神に捧げる神殿「パンテオン」でした。

しかしアグリッパの建てたパンテオンは建設後約100年たった紀元80年に火災で焼失してしまいます。その後、コロッセオを建てた皇帝ヴェスパシアヌスの次男ドミティアヌス帝がパンテオンを再建したのですがこちらも紀元110年に焼失。

現代に残るパンテオンは、紀元125年ころ、五賢帝三番目の皇帝ハドリアヌスによって、当時のローマ建築技術の全てを注ぎ込み建設されました。

そんなわけで現在に残るパンテオンは「アグリッパが建てた」と刻まれながらアグリッパが建てたものではなく、さらに3代目の建物になるのです。

◾️ハドリアヌスによる。。

実際には建てていないアグリッパの名前がパンテオンファサードに刻まれているのは、これを建てた皇帝ハドリアヌスの先人への尊敬の念によります。皇帝ハドリアヌスは20年にわたる在位期間の約半分の時間を使って、帝国内を隅々まで自分の足で巡り過ごしました。帝国の辺境と呼ばれる場所まで赴き、そのあちこちでインフラの再整備や公共建築のメンテナンスを行っています。そしてそれらの修復したインフラや、建替えた建物のほとんどに自分の名前を刻むことはありませんでした。先人を尊重し、その建物や公共施設は完成当時の名前を残し元々これらを建てた人物を讃え刻むのでした。自分は目立つことなく自分かかわった事実が残ればよい。日本の宮大工さんのような心意気です。なので、すっかり姿形を変えた3代目パンテオンも、そのファサードには「アグリッパが建てた」と記されおりハドリアヌスの名前はありません。このことは長いこと歴史家を騙すことにもなったようです。。。

◾️二千年の神殿へ

西ローマ帝国が滅びた後の609年にパンテオンは大きな転機を迎えます。キリスト教会として使用されることが決まるのです。現在につづくカトリック総本山ローマにあって、キリスト教会となったことにより、パンテオンは放棄されることも大規模な破壊をされることも免れることになったのでした(同じことがイスタンブルにのアヤソフィア寺院でも起こります。このお話はまた別の機会に)。

 

時折、コリント式の円柱が持ち去られたり、ファサードにあったブロンズの彫像や、ブロンズの天井が取り外されたりすることはあったものの、パンテオンハドリアヌスが建設した当時のまま、キリスト教と共に二千年もの時を超えることができたのでした。

 

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パンテオン1 全ての神々に捧げる神殿の中へ

パンテオンはローマ帝政初期に誕生し、その形をほぼそのまま維持している貴重な建物です。古代ローマの遺跡はほぼどれも半壊または全壊のような状態であることを考えると奇跡ともいえなくもない。コロッセオでも触れたように、本来ローマンコンクリートを使ったローマ建築は非常に耐久性が高く、二千年くらいの時間はものともしないのかもしれません。でも実際のコロッセオや他のローマ建築がぼろぼろなのは、後世の人間が破壊したから。それら遺跡は建築資材の調達場所として利用され人間によって少しずつ崩されていった。

一方で、パンテオンローマ帝国崩壊後もキリスト教の教会として使用されたため、人による破壊を免れました。そしてその形をほぼ変えることのなかったパンテオン

二千年もの時を経て、古代ローマの技術の高さを今でも世界に伝え続けるのです。

*イタリアで買った絵葉書

 

ここから見える姿はまるでギリシアのコリント式神殿です。正面にある円柱は高さ12.5mの高さがあり、エジプトから運ばれた花崗岩の一本岩で作られています。入り口の空間には合計16本の円柱が並び、その中で4本だけ赤い花崗岩が使われています。コリント式の柱頭は大理石で作られていて、ファサードの下、円柱の間を通っていくと時は、ギリシアのコリント式神殿に入るが如く、です。

その先に現存する最も古い大きな青銅の扉が現れ、いよいよパンテオン内部に入ります。

 

内部に足を踏み入れると、そこにはロトンダと呼ばれる円形の空間が広がります。見事な床、見事な内壁の装飾が色大理石によって構成され、円周を八当分した方角にはそれぞれ祭壇のような空間が設けられています。そして上を見上げると。。。

 

 

そして上を見上げると見事なドーム天井がこの空間を包み込んでいることがわかります。そして天井には直径9mの明り取りの窓(オキュラス / Occulus)が開いており、そこから太陽の光が聖堂内に差し込む様はとても幻想的。

床や下層の壁の色大理石の見事な装飾とは対照的に、ドーム内側は無機質な、今でいうコンクリート打ちっぱなしの天井なのですが、そこに施された格間と呼ばれる無数の四角い段々がOcculusからの光によって影を作り、不思議なほど豊かな表情を見せてくれます。その様子は鮮やかな色大理石の床や下層の装飾を地味に感じさせるほど。パンテオンのドーム天井は芸術的であり感動的でした。

二千年もの間、姿かたちを変えずに存在できたということに加えて、僕は二千年も前のローマ人の感性に脱帽するばかり。この空間に入るとなぜここがパンテオンと呼ばれ、なぜキリスト教徒が教会として利用しようと思ったかがすんなり腹落ちします。当時のキリスト教徒はこの素晴らしい空間を使わずにはいられなかったのでしょう。

 

パンテオンには画家のラファエロやアンニバレ・カラッチ、作曲家のアルカンジェロ・コレッリ、建築家のバルダッサーレ・ペルッツィといったルネサンス期の芸術家や、近代イタリアを統一したV.エマニュエレ2世など、多くの著名人たちが葬られています。パンテオンを訪れたら、この人たちの墓石を一つ一つ探していくのも楽しいでしょう。

 

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パンテオン0 二千年の時を超える

ローマの石畳の道を行くと、その先に神殿のファサードが現れました。太陽の光を反射する石畳のその向こう、何やらギリシアの神殿のような建物が目に飛び込んできます。二千年形を変えることなくこの場所にあり続ける建物「パンテオン (Pantheon)」です。いま二千年前の空間に向かって、少しずつ近づいていく。そこかしこに古代の遺跡が顔をだすローマの街にあって、このパンテオンが現れる瞬間は格別です。

 

端正な三角形のファサード、優雅な柱頭のコリント式円柱をもった建物は、いわゆるギリシアスタイルの神殿のように見えます。

 

道がきれ、広場に入ります。

通りから顔を出していたファサードは一見、コリント式の神殿を思わせるのですが、ロトンダ広場に入ると、その強烈な個性があらわになりました。広場の反対側に立つと、その不思議な全貌を知るとことができます。

コリント式の神殿のファサード、その後ろには丸いドーム。こんな不思議な形はほかに見たことがありません。パンテオンは、すべての神々にささげる神殿として建てられました。そして、帝国ローマの時代からほとんど姿かたちが変わっていない。

これからこの、とても貴重な建物について綴っていきます。

 

 

 

P.S. 上の写真は1991年に僕が初めてローマを訪ねたときに撮った写真です。真夏に汗だくになってローマを歩いた時に撮った写真。これを書いている今は2024年なので、あれから33年もの時間があっという間に過ぎているということに、ちょっとした驚きを感じます。人の人生にとっての33年はとても長い時間ですが、この間、パンテオンは何も変わることなく存在している。パンテオンはもう二千年変わらずここにある。パンテオンにとっては33年なんていう時間は変わりようのないほど短い時間なんだということを僕は改めて思い知るのです。

 

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空と雲と 霞の空

冬のスカッと透明感のある空と違い、3月の今頃の空は何かスクリーンを張ったような霞がかった空になります。

花粉症をもっている方々は、こういう空を見てゾッとするんだと思いますが、幸い花粉症がほとんどない僕は、こう言う時にしか見ることのできない空の姿にうっとりしてしまうのです。

日の出直前、陽が登るあたりを中心に放射状にオレンジの光が伝搬します。ちょうどその扇の要のあたりに十字架のように電柱が立ち、電柱なんですが何か神聖な景色に見えてきます。

薄靄のかかったその向こうから、その輪郭がはっきりとしたまま太陽が登ります。

冬の透き通るような空と違う、この時期ならではの夜明けです。

 

それにしても僕は以前はこう言う景色に電信柱とか電線が入るのを極端に嫌ったのですが、こうしてみると意外と悪くないものです。

 

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古代ローマ小話 ヴィトルヴィウスの建築書

ヴィトルヴィウスがローマンコンクリートの秘密を記したことを、僕はコロッセオ4で書きました。このヴィトルヴィウス(Marcus Vitrvius Pollio B.C.80頃-B.C.15頃)に関する記録はほとんどなく、何年に生まれ何年に亡くなったのか、どのような人生を過ごしたのか正確な情報はありません。しかしヴィトルヴィウスが残した人類最古の建築理論書「De architectura(直訳すると"建築について”)」は彼の名前を今に伝えます。この「De architectura」はB.C.30年ごろにまとめられ、皇帝アウグストゥスに献上されたと言われます。そしてこの建築理論書は、全10巻に分けて記されていることから「建築十書」とも呼ばれ、欧米では普通に現代の本屋に並ぶ名品です。色々な呼ばれ方をするみたいなのですが、ここでは「建築書」と呼ぶことにします。

建築書の内容は、建築に関する知識や歴史といった建築基礎に始まり、ギリシア神殿建築に関する詳細と、ローマ建築(公共建築や住居、水道など)やそれを実現するためのさまざまな技術とそのための科学、ローマ人が発明した構造、工法、材料、そして機械装置などの記述が網羅され、芸術と科学とエンジニアリング、都市計画が記されています。「建築家」という存在を単なる設計者ではなく、総合的な知識を備えたエンジニアであり芸術家であることを定義付け、建築がガウディの言う総合芸術であることを方向づけたのはヴィトルヴィウスだったのかもしれません。

建築書の十書のそれぞれタイトルは、

  • 第一書:都市計画、建築とその資格について
  • 第二書:建築材料(レンガ、石材、木材、ローマンコンクリートについて)
  • 第三書:ギリシア神殿建築(人体図、対称性など)
  • 第四書:ギリシア神殿建築(伝統的建築様式)
  • 第五書:ローマ公共建築(フォロ、バシリカ、半円劇場など)
  • 第六書:住居
  • 第七書:床や壁の装飾(漆喰、フレスコ、色)
  • 第八書:水の供給と水道橋
  • 第九書:建築に影響与える科学
  • 第十書:建設機械

 

ヴィトルヴィウスは前半、建築書の中で、主にギリシア建築のその意匠や構造の秘密を読み解き賞賛しながら、母国ローマで発明された構造や建設機械についても詳細に記しています。ギリシア神殿のドーリアイオニア、コリントといった建築オーダーの構造ルールを記して賞賛し、半円形劇場は音の伝わり方までデザインしていることを解説します。「ギリシア人すごい!」と記しながら、「ローマ人だってまけてないぜ」とローマ人の数々の発明は誇りを持って書き記されている。そして皇帝アウグストゥスに献上するために書いた部分は、なんだかぎこちない。ヴィトルヴィウスが執筆中の姿が目に浮かぶ。。。

皇帝への慣れない文章を眉間に皺を寄せながら書く、書いているんだけど自分じゃないようで気だるくて、なかなか筆が進まない。あくびをしながら書いていたかもしれない。一転して建築に関するあらゆる説明に関しては、ものすごい集中力とスピードで一気に書き進む。文章が頭に溢れるのに、手で文字を書くスピードが追いつかない。書き漏らした言葉を何度も相応しいと思う表現を当てはめては、入れ替えて、技術者として納得いく的確な説明ができるまで何度何度も書き直す。技術者が嬉々として技術を解説する、夢中で時間が経つのも忘れることもしばしばだっただろうな。建築書を眺めていると、見たこともない、記録もあまりないはずのヴィトルヴィウスのそんな姿が頭に浮かびます。

 

「建築書」はローマ崩壊後も継承されてきました。そして現代に「ヴィトルヴィウス」の名前が広く知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチによるところが大きい。

建築家でもあった万能の人レオナルドはルネサンス期に復刻された「建築書」に触れました。そしてその第三書の冒頭、ギリシア神殿建築の対称性とともに記された「人体の比率」に関する記述に感動して、自分の体を使って実際にその比率を確かめるように手稿に残しています。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に所蔵されるこの手稿は「ヴィトルヴィウス的人体図」として有名で、僕もヴィトルヴィウスの名前を知ったのはレオナルドのこの手稿がきっかけです。

 

建築とは総合芸術であり、神殿建築であってもそのバランスの中心は人体であって、人体のバランスが建築構造の基準となる。人が過ごす時の心地よさと機能を両立するのが建築家であり、さらにその場所、街や自然に溶け込みながら、美しく長く存在するのが理想の建物であると僕は思う。「僕は思う」と書いたけど、ヴィトルヴィウスはそんな理想の建築を実現するために十書を書き残し、それを実践してきた歴代の有名な建築家、また名もない建築家たちが残した作品を見て、僕がそれを感じ取っただけなのだろう。

ヴィトルヴィウスもまた、古代ギリシアの建築家、芸術家からそれらを感じ取ったひとりなのかも。。。

 

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