cafe mare nostrumは地中海世界を中心に、街の文化の魅力や歴史を伝えることをコンセプトに、言ってみれば良いところばかりを紹介してきました。
でも、旅行経験者であれば、旅とは決して、そんな良いことばかりではないし、綺麗なことばかりでもない現実をよく知っていると思います。
そこで、ここには旅先で出会った、あまりよくないことを面白おかしく集めてみます。こういう良くないことも合わせて旅行の思い出ですからね。。。。
cafe mare nostrumは地中海世界を中心に、街の文化の魅力や歴史を伝えることをコンセプトに、言ってみれば良いところばかりを紹介してきました。
でも、旅行経験者であれば、旅とは決して、そんな良いことばかりではないし、綺麗なことばかりでもない現実をよく知っていると思います。
そこで、ここには旅先で出会った、あまりよくないことを面白おかしく集めてみます。こういう良くないことも合わせて旅行の思い出ですからね。。。。
イタリアに限らないかもしれないし、いまはどうかもわからない。チケット窓口で何度か遭遇した、日本ではありえない出来事です。
駅、施設の入場券等々のチケット窓口でのお話。いくつもある窓口に大勢の人が列をつくり、並んでチケットを買おうとしている。僕もその一つの列に並び、順番を待っていた。しばらくすると、僕が並んだ隣の列の窓口が突然ガラガラとシャッターを閉めクローズになってしまった。そのとき先頭に並んでいた人は怒り狂い、後ろに並んでいた人はさまざま。同じく怒り全開の人、茫然自失の人、何事もなかったように別の列に並ぶ人、「またか」と呆れる人。。。。
僕も最初この場面を見たときは目を疑った。これだけチケットを買い求める人が後ろにいるのが見えているのに、突然閉めてしまうって。。。。日本だったら、こういうことはまずない。途中で閉めるにしても、並んでいる人が困らないようにするだろうし、閉めるときもおもてなし精神をもっての閉め方をするだろう。
でもヨーロッパを旅行していると、割とこういう場面に出くわすことがあるので、最初こそびっくりしたけど、それからは「またか」とやり過ごすことができるようになっている。それに、割と普通に起こる出来事なので、被害にあった人も、その周りの人も事情は一緒だから、助け合いも生まれたりする。隣に親切な人がいれば「災難だね、入れてあげるよ」というケースもあるし、たぶん70%くらいの人は、一見この理不尽な事象にも寛容に対処しているように思うわけです。
でも、7割の寛容な被害者側とは対照的に、ほぼ例外なく言えるのは、閉める側の窓口の人の冷酷さ。
男性も、女性もほぼ例外なく、窓口を閉じるときの表情は冷たく無表情で、まるで映画「スターウォーズ」のデス・スターでの一幕、レイア姫を見下すモフ・ターキンが如く、なのです(わかる人にはわかると思う)。あの冷酷さったらない。
窓口の人の勤務時間の事情などいろいろあるのはわかるが、もうちょっと表情とか、行動とかあるだろうに。。。見下すように一瞥して、がしゃん!という感じで、そりゃ先頭でやっと順番が来たと思った人は、怒り狂っても仕方ない、と思う。
僕はヴェネツィアから次の街へ行くために夜、サンタ・ルチア駅へ行きました。夜行列車のクシェットのベッドを確保するためにチケット売り場へ向かいました。ひと気が少なく、靴音が響く駅の構内はひんやりとして気持ちが良い。駅の窓口に着いたのは夜9時過ぎだったけど、開いている窓口は一つだけ。そんなに長くはないけど、開いてるひとつだけの窓口の前に一本列ができてる。僕はその最後尾に。日本の感覚だったらまあ、5分も待てば順番が来る。が、まあここはイタリア、20分コースかな?
思った通りなかなか進まない。そうこうしているうちに僕の後ろには列が伸び、到着したときの2倍くらいになっていた。
予想を超えて30分くらい経った頃にようやく僕の番が回ってきた。今までも冷酷なガラガラガシャンを何度も見てきたからとりあえずほっとしました。行き先を伝えてベッドを確保。途中このときのパスの経路に含まれないオーストリアを少しだけ通るけど、大丈夫か?事前に支払いしなくていいのか?聞くと「問題ない」と返事が来た。
準備完了、あとは列車を待つだけだ。と思ったその瞬間、ガラガラガシャンが発動された。
冷酷な下目遣いで、残った行列を一瞥して、僕を相手にした仕事が終わった瞬間、この日最後まで稼働していた窓口が閉じられた。久しぶりに目の前で見たガラガラガシャン。
その瞬間、残された行列からは「Oh!」というため息混じりのうめき声が駅の構内に充満したのでした。でもね、みなさん。チケットは列車の中でも買えるから大丈夫ですよ。
ちなみにその夜、夜行列車が動き出して、海の上に灯りがともるヴェネツィアの街が遠ざかるのを見届けて、そのまま寝て起きたらドイツのミュンヘン。のはずだったのに、夜中に検札で起こされる。オーストリアに入ったときだ。車掌がパスとクシェットのチケットを見てこう言った「オーストリアの分はお金払って!」
眠い目を擦りながら僕は瞬間的に悟った。あのチケット売り場の職員、テキトーに答えたな!
まあ、早く帰りたかったんだろうな。
まあいいか。そのおかげで、初のオーストリア上陸に気づくことができたのだから。
ヨーロッパに最初にコーヒーを持ち込んだのは17世紀ヴェネツィア商人と言われています。僕も日々愛飲してるコーヒーはヴェネツィアにもたらされ、やがて日本へと伝わりました。
そもそも、コーヒーの起源はエチオピアともアラビアとも言われていますがはっきりした記録は残っていないといいます。西暦900年ころにアラビアの医学書に記述されていたのがコーヒーの記録としては最古とか。コーヒーは眠気を追払い、活力を与える「魔法の薬」のような扱いだったようです。
■二つの伝説
いつのことか定かでないのだけれど、コーヒーには2つの伝説があります。
カルディ少年と不思議な赤い豆
エチオピアには「カルディ少年の伝説」としてコーヒーの起源が伝えられています。時期は不詳、羊飼いの少年カルディが、なぜか疲れを知らない興奮する羊がいる事を見つけた。その羊がなぞの赤い豆を食べているのを突き止め、自分でも試してみた。するとその効能に驚いたカルディ少年は修道士たちに教えると、その修道院は「眠らない修道院」として有名になるほど。気分爽快になり眠気を覚醒する魔法の実として、不思議な赤い豆が広まっていった。
聖職者オマールの赤い豆スープの軌跡
もう一つ、イエメンのモカという街での事。聖職者オマールは王の娘に恋した結果、山に追放されてしまいます。洞窟に暮らし飢えに苦しむオマールでしたが、ある日山の中で美しい小鳥が食べる赤い実を見つけます。その赤い実を食べるととても気分が優れ飢えからも解放されました。オマールはその実を煮出してスープのようにして飲み、これをモカの街の人たちに広めると、たちまち評判になり、オマールは許され街に戻ることができたのでした。この時の「煮出してスープのように飲む」というのが現在に至る「コーヒー」のルーツと言われています。
■コーヒーの発展
そして1450年ごろペルシャ(現イエメンあたり)でコーヒー豆を焙煎して細かく砕き煮出すことで香りと風味が良くなることが発見され、一般市民にもコーヒーが広まります。
1510年にはエジプトのカイロでコーヒーを飲むための店が生まれ、1517年にはトルコに伝わり、1554年コンスタンティノープルに世界最古のカフェが登場します。
トルコではコーヒー豆を細かく擦り潰し、砂糖と一緒に煮出して飲むいわゆるトルココーヒーが誕生します。
■ヨーロッパへ
ヨーロッパにコーヒーを伝えたのはヴェネツィア商人で、1615年コンスタンティノープルからコーヒーを持ち帰ったところ大評判となりました。1645年ヴェネツィアに初めてのコーヒーハウスが誕生。現存する最も古いカフェ、1720年にサンマルコ広場の一角にカフェ・フローリアン(Florian)が誕生し、1775年にはカフェ・クアドリ(Quadri)が誕生するのでした。
コーヒーはオランダ、フランス、イギリスにも順次伝わりヨーロッパ全体へと広がっていきます。
■日本へ
日本にコーヒーが伝わったのは江戸時代初期、鎖国真っ只中の長崎出島。オランダ人が出島にコーヒーを持ち込んだと言われています。当時の日本人はあの真っ黒な飲み物を何だと思っただろう?
焙煎されたコーヒー豆、ミルで挽いたときのあの感触とあの香り、ドリップしてるときの風合いは本当に癒されます。やはりコーヒーは不思議な魔性の魅力がありますね。僕は普段、1日5杯くらい飲んでいるので、眠気覚ましとか脳みそ活性に効いているのかどうかどうか正直わかりませんが、その魅力はつきませんね。
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日が暮れてから、リアルト橋のすぐ横のレストランで、ヴェネツィア最後の食事をとることにしました。大運河沿いのテラス席に座り、高級なお店ではないけど、ロケーションはすこぶる贅沢。今何を食べたのか思い出せないけど、日本でいうお手軽な定食メニューがあって、イタリア料理のそれを食べたような気がする。
テーブルについて食事を待っている間も、食べている間もずっと変わらずリアルト橋は渡る人波が絶えません。きっとヴェネツィアは一年中こんな感じなんだろう。
食事が運ばれてくるまで時間があったので最後のリアルト橋をスケッチしてみた。
この時は旅行全体のちょうど中間地点。
だけど壮大なクライマックスを終えてしまったようなそんな気分でした。それほどにヴェネツィアという街は僕の想像を超えた、次元の違うレベルで存在してました。
ヴェネツィア最後の食事で思い出すのは、食べた料理よりも、この景色を見ながら想いを馳せたヴェネツィアの街のこと。いや、ヴェネツィア素晴らしいところでした。
この食事の後、ヴァポレットに乗り、サンタ・ルチア駅へ向かいます。夜行列車で次の街に向かうために。
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「Venezia」、何と呼び、どう書くか大抵の人にとっては些細な、でも僕にとっては結構大事なお話です。
Veneziaは「ヴェネツィア」か「ベネチア」か、はたまた「ベニス」か?
ベニス(英Venice)はないな。Veniceは多分大英帝国人が大分あとからつけた呼び名だろう。日本で一般的な表記はベネチアになるんだろうか?でも僕は「ヴェネツィア」と書きたい。「ピザ」を「ピッツァ」という人がいる。気持ちわかる。
ベネチアをヴェネツィアと言ったり、ピザをピッツァと言ったりすると、「なんかスカしてる」と思われがちなので気をつけたいけれど、やはりVeneziaは「ヴェネツィア」と呼び、書きたいんです。
歴史を知って、街を知ると自然とその街に対して敬意が湧いてくる。すると表記も実際の呼び方も(正確にはならないけれど)、できるだけ現地の呼び方に近い表記、発音になるようにしたいと思うようになるのです。
僕はヴェネツィアという街にただならぬ敬意を持っています。フン族に追われて海に逃げ、その海の上にこの世に二つと存在しない美しい街を作り、資源のないことをバネに海洋貿易に乗り出し、独特な共和制を強いて1000年も生きながらえた偉大な街。だからベネチアでもベニスでもない、Venezia(ヴェネツィア イタリア語)と呼びたい。
ピザという料理にただならぬ敬意をもっている人は、日本人の99.8%があの料理を「ピザ」と呼んでも、ピッツァ(Pizza)と言い続けるのでしょう。
cafe mare nostrumのオリジナルサイトの頃から、そしてこのブログでも街や人や、とにかく名称表記はいろいろ悩み続けてきました。大抵の場合、その国の言語での呼び方に近いカタカナ表記と母国語に近い表記を入れてきました(ややこしい表現ですみません)。
でも例外があります。
例えばその1: ギリシア、トルコ、エジプト。
現地語のフォントがなかったり、そもそも書けなかったり読めなかったりする場合。潔く出来ること、日本語の通り名と英語表記を選択します。
例えばその2: スイス、ベルギー。
公用語がたくさんある国。
多くの日本人はスイスの正式名称は「Switzerland」だと思うでしょう?だって僕は学校の英語でも地理でもそう習いましたから。
実際にはスイスは5つの公用語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語、ラテン語での、それぞれ5つの「公式国名」があり、さらに国際的な公式名称として英語で「Swiss Confederation(スイス連邦)」がある。日本での「スイス」はここからきているようです。ちなみに「Switzerland」は英語での公式な「通称」だそうです。6つの正式名と1つの通称、7つの公式国名がある。どれを表記したものか。僕が選択したのはたしかなじみ深い「スイス」、表記はずーっと教わってきた英語通称「Switzerland 」。
また公用語がいくつもある国では、地域によって使う言語が変わるので街の呼び方も変わってくる。例えばベルギーはオランダ語、フランス語、ドイツ語、英語の4ヶ国語の公用語を持ちます。現地では主に、首都「ブリュッセル」はフランス語圏にあるのでフランス語読み、第2の都市「アントワープ」は現地のフラマン語で「アントウェルペン」と呼ばれます。
でもアントワープは子供の頃のTVアニメ「フランダースの犬」の舞台でずーっと耳に親しんでいる呼び方「アントワープ」と呼びますし表記しました。
さて「イギリス」
こんな呼び方するのは日本だけ。あそこもまた特殊なところで、正式国名は「United Kingdom of Great Britain and NorthernIreland」。4つの王国の寄せ集めなので現地ではEngland、Scotland、Wales。。と皆さん自国を表現するらしい。イギリス以外日本以外の人は通称「UK」と呼ぶらしい。では、じゃイギリスってなんなのか?
昔々日本に来たイギリス人、自分たちは「English」だと日本人に伝えたところ、イングリッシュ→インギリッス→イギリス 「おおーあなたたちはイギリス人ね」となったとか。
これはもう、なんて書けば良いかわけわかりません。よって「イギリス」のままです。
そもそも外国語をカタカナで表そうなんて言う事に無理がある。国の名前、街の名前を書くときはいつもこんなことを思いながら、悩みながら書いてます。
大分ヴェネツィアから離れてしまいました。
イタリア語は比較的複雑な発音がなく、カタカナ表記しやすいと思われます。
「ヴェネツィア」はイタリア語でVenezia、英語でVenice、フランス語でVenise、ドイツ語でVenedig。やはりイタリア語でVenezia、カタカナはヴェネツィアだ。
と思っていたらよくよく調べると、もともとヴェネツィアが誕生した当時はラテン語で「Venetia」と書いて「ヴェネチア」と発音していたそうで、そうなると「ベネチア」もいいんだなと思い始めたり、でも「べ」じゃないよなあ。。。側から見たら些細な話だと思うのですが、毎回悩むのです。
6世紀頃 蛮族の侵入
フン族の侵入によって、海へ逃れラグーナの島々に潜んだヴェネト人によってヴェネツィアの歴史が始まる。
697年 共和制が始まる
パオルッチョ・アナフェスタが初代総督(ドージェ Doge)に
828年 聖マルコの遺骸買取
ヴェネツィアの商人が、アレクサンドリアの教会から聖マルコの遺骸を買い取る。同時に聖マルコの遺骸を安置するサンマルコ寺院の建設がはじまる。こうしてヴェネツィアは守護聖人サンマルコの街となった。
1104年 国営造船所完成
1204年 コンスタンティノープル征服
第4次十字軍、総督エンリコ・ダンドロにより遠征先のコンスタンティノープルを制圧。これをきっかけにオリエント貿易利益を独占。このときコンスタンティノープルからたくさんの戦利品を持ち帰る。「4頭馬車像」もそのひとつ。
1271年 マルコポーロ出航
16歳のマルコと父、叔父の三人で25年の旅に出る。そのうち17年を中国で過ごした。
1284年 ドゥカート金貨鋳造
ヴェネツィアのドゥカート金貨は純度が高く安定していた為、国際基軸通貨として流通。
1309年 ドゥカーレ宮殿の改築
改築の結果、現在の姿に
1310年 十人委員会の発足
共和国をあらゆる危機から守る為の諜報機関。もともと反乱の共謀者を裁く臨時委員会だったが、1335年には共和国警察としての役割を担うようになる。
1355年 ドージェの国家叛逆
第55代総督マリーノ・ファリエルが共和制を君主制を敷く為クーデターを企てるが失敗。ドゥカーレ宮殿の総督で唯一肖像を塗りつぶされ、記録を抹消された人物。この事件によって十人委員会が常設組織となる。
1381年 キオッジアの戦い
1489年 キプロス島獲得
1571年 レパント沖の海戦
ヴェネツィアと連合軍 対 オスマン帝国との戦いでオスマン帝国海軍に勝利。
このときギリシアのアテネはオスマン帝国に支配されていた。当時あろうことか弾薬庫として使用されていたパルテノン神殿に、これまたあろうことかヴェネツィア軍の砲弾が着弾。その結果、パルテノン神殿は今にみられる廃墟と化した。それまでの2000年もの間、かなり保存状態よく残っていたというので残念でならない。
1576年 ペスト流行
1591年 リアルト橋完成
1514年火災で木造の橋が消失。石の橋として現在の姿に再建。
1630年 再びペスト流行
人口激減
1703年 ヴィヴァルディがピエタ慈善院の音楽教師に就任
1720年 カフェ・フローリアン開店
1752年 ラグーナを守る防波堤完成
1775年 カフェ・クアドリ開店
1792年 フェニーチェ劇場完成
1797年 ヴェネツィア共和国の崩壊
ナポレオンの侵攻により領地を失い、1000年以上続いたヴェネツィア共和国が終わる
1864年 鉄道の開通
1866年 イタリア王国への統合
1895年 第一回ビエンナーレ開催
1912年 サンマルコ広場の鐘楼再建
1902年に地盤が崩れて倒壊した鐘楼が再建された
1932年 第一回ヴェネツィア映画祭開催
1979年 カーニバル復活
1162年に始まったとされるヴェネツィアのカーニバル。宗教抗争に勝利したことを祝ってサンマルコ広場で踊り踊ったことが始まりだったとか。やがて身分を問わない自由を、仮面をつけることでヴェネツィア市民は謳歌するようになった。ナポレオンの侵攻後、仮面が禁止となりやがてカーニバルそのものが禁止されることになりました。200年の時を経て1979年、カーニバルが復活。いまや300万人が訪れ参加する盛大な祭りとなりました。
ヴェネツィア共和国は消えたけど、アドリア海の女王として築かれたヴェネツィアの街は時が止まったかのように佇むのです。世界にふたつとない街、ヴェネツィアがヴェネツィアであることはこれからも変わることがないことを祈るばかり。
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リアルト橋 (Ponte di Rialto)
このあたりはヴェネツィアの中でも比較的海抜が高いため早くから人が集まった、いわばヴェネツィア発祥の地。洪水の少ない安定した土地には、早くから銀行や商品取引所が集まる場所となり、1264年にできた最初の橋は「富の橋」と呼ばれていました。
もともとのリアルト橋は木造の跳ね橋でしたが、崩落や火災による破損が絶えず、1592年に現在のような石造の橋として生まれ変わったのでした。
1557年に共和国政府が新し橋の設計を公募、ルネサンスの名だたる建築家が応募しましたが当時無名の建築家アントニオ・ダ・ポンテのデザインが採用されました。この公募にはミケランジェロも参加していたそうで、そんな中で無名の建築家案が採用されたというのは、当時のイタリアの建築芸術界の層の厚さが思い知らされるのと、ミケランジェロほどの人でも落選はするんだなあ、となんかちょっと安心します。
ダ・ポンテの設計は中央と外側3つの通路があり、その間に商店が並ぶ構造。中央通りはお店を見ながら、その外側は大運河を見ながら橋を渡れるようになっています。
この界隈もリアルト橋も物凄い人です。
リアルト橋の外側の通路からの大運河の眺めです。大運河の両側にある建物は最初はビザンチン様式だったというから、ずいぶん風景が違ってエキゾチックな雰囲気が漂っていたのでしょう。15世紀以降、ヴェネツィアが地中海貿易の勢力を増していったころ、ルネサンスの花開く時期と相まってここの家主はこぞってルネサンスやバロック様式に改築していきました。それから500年、ここの景色は変わらないと言います。
ヴェネツィア最後の夕暮れはリアルト橋で過ごしました。
ヴェネツィアの発祥の場所、カナルグランデがもっともにぎわう場所。傾く日と、色づく空をながめつつ、背中には人の流れを感じつつしばらくの時間を過ごしたのでした。
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