cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェ2 ドゥオモ広場

f:id:fukarinka:20211031125122j:plain昔も今も、フィレンツェへ旅する人々はドゥオモのクーポラを見ることでフィレンツェに到着したことを知り、安堵したといいます。そして僕自身もこの遠くからもはっきり見える、圧倒的な存在感がありながらとてつもない優しさを放つ、ブルネレスキのクーポラが見えたときにフィレンツェに着いたことを実感してほっとしました。そうホっとするんです。他の街だと「列車降りたらガンガンいくぞ」というモードになるところ、ホっとするんですね。ドゥオモのクーポラにはそういう不思議な力があるんです。

旅人もフィレンツェの人も、昔も今もフィレンツェの街に入ったら、ほとんどの人がまずここドゥオモ広場を目指します。

フィレンツェの街はとにかくコンパクト。旧市街は丸ごと美術館です。フィレンツェS.M.N.駅を出てまっすぐ道なりに進んでいくと5分もすれば、こんな感じの景色が見えてきます。 フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa Maria del Fiore)、花の聖母堂の姿がはっきりと。巨大なクーポラがシンボル的ですが、その色大理石のファサードなど全体的にもとても綺麗な「花の」という名前をよく表す聖堂です。

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間もなくドゥオモ広場に入ります。

路地を進んで広場に入った瞬間、シエナのカンポ広場やヴェネツィアサンマルコ広場の場合はとてつもなく感動するのだけど、フィレンツェのドゥオモ広場はとてつもなく拍子抜けします。そのくらい広くない広場。

でもこのサイズが実はコンパクトなフィレンツェの精神的中心には最適のようにも思えます。 八角形のサン・ジョバンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼、そしてそしてサンタ・マリア・デル・フィオーレがまるでひとつの建物のように並ぶ奇跡のでも何かアットホームな空間です。

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カンビオ、ギベルティ、ブルネレスキ、ジョットらルネサンスを代表する芸術家(建築家)たちが作ったこの空間。ひとつひとつ眺めていきます。

 

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フィレンツェ小話 レオナルドとS.M.N.

f:id:fukarinka:20220103162536j:plainレオナルドは「モナリザ」をここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間で描き始めます。後に人類の至宝と呼ばれる「モナリザ」が、なぜここサンタ・マリア・ノヴェッラで描かれることになったのか、モナリザ誕生の舞台を辿ってみます。

 

法皇の間

1431年にローマ法皇に即位したエウゲニウス4世を巡って起きたローマでの反乱によって、一時法皇はローマを離れることになりました。法皇フィレンツェでの住居がこのサンタ・マリア・ノヴェッラの「法皇の間」。この部屋は法皇の他には最高位の者だけが使うことを許されてきました。

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1503年にフィレンツェ共和国チェーザレ・ボルジアとの戦争が終わり、フィレンツェの重要なスパイとしても活動していたレオナルドは共和国政府から手厚く迎えられ、この最高位の人物しか使うことのなかった「法皇の間」を住居として提供されました。

エリザベッタの肖像画

そしてこの時、フィレンツェ貴族のフランチェスコ・ディ・ザノビ・ジョコンドが新居の記念に妻エリザベッタ(愛称リザ)の肖像画の製作をレオナルドに依頼した。これが今に至る500年を越える人類の至宝「モナリザ」の歴史の始まりで、ここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間がその舞台となったのです。レオナルド51歳、脂の乗り切った円熟期のことでした。

この法皇の間には中庭に沿ってアーチと円柱が連なる回廊があります。レオナルドの「モナリザ」には、今は失われていますが、この回廊の円柱が描かれてたことがラファエロの模写などからわかっています。

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レオナルドは依頼に対して気が乗らないとやたらほったらかして、完成までに何年もかかかることで有名でした。そして未完成が多いことも。

しかしこの「モナ・リザ」は異例のスピードで描かれていき、フィレンツェ滞在の3年間でほぼ完成の状態にまでなっていた。

実はこの「モナリザ」のリザは、ジュアーノ・デ・メディチ公の愛人だったと言われ、実際にはレオナルドはジュリアーノ公から「モナリザ」制作の依頼を受けた可能性が高いとも言われます。この絵を描くにあたって、レオナルドはリザを楽しませるために音楽家と道化師まで雇ったと言われており、それは一貴族の夫人に対する扱いとは違うし、「モナリザ」の微妙な表情は、このエリザベッタの微妙な立場からのものなのかも知れません。

 

3年間のフィレンツェ滞在、法皇の間でほぼ完成状態にまでなった「モナリザ」でしたが、結局、依頼主の手に渡ることなくレオナルドは終生自分の手元に置き、筆を入れ続けました。レオナルドの生涯築いてきた技法の集大成でもあった「モナリザ」は、レオナルドの中では完成に至らず、依頼主に渡すことができなかったと想像します。晩年にフランスのアンボワーズに自ら持ち込み、レオナルドが亡くなる間際まで加筆は続いたと言います。

 

モナリザ」はその後500年フランスにあり続け、今はルーブルでたくさんの人を魅了し続ける。ここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間から始まった奇跡です。

 

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フィレンツェ 1 S.M.N.

f:id:fukarinka:20220103162536j:plain大きなドゥオモのクーポラを横目に列車が止まるとそこはFirenze S.M.N.駅。

花の都の駅にしては近代的で味気ない、というのが正直な感想でした。大体ヨーロッパの他の国の場合、駅の名前というのは〇〇中央駅とか、南駅、北駅といった方角を駅名にくっつけている場合が多いのだけど、フィレンツェは「S.M.N」というのが駅の名前です。S.M.N.とは何なのか。

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サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Basilica di Santa Maria Novella)

フィレンツェの玄関、Firenze S.M.N駅はこのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のすぐ裏手に位置しています。「S.M.N.」とはこのサンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella) のことでした。

上から見ると近代的な駅舎のすぐ隣に教会の建物があるのがわかります。これがサンタ・マリア・ノヴェッラ教会です。

ヨーロッパの駅は古い街であればあるほどほとんどの場合、鉄道の駅は街外れに造られます。フィレンツェの場合かなり街の中心近くに鉄道が食い込んできている。駅舎は味気ないけど、駅を出るとすぐそこにとても由緒ある教会があり、そこから歩いてすぐの場所に、ドゥオモ始め多くのルネサンスの街並みがある。旅行者にとってフィレンツェの魅力のひとつかもしれません。

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サンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella)は、1246年にドメニコ修道会の教会として建てられました。建設工事は100年余り続けられ、最後の仕上げに大理石のファサードは1470年にジェノヴァ出身の建築家レオン・バティッスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti)により完成されした。このサンタ・マリア・ノヴェッラフィレンツェのなかでもルネサンス建築として重要な建物に数えられ、聖堂内にはマザッチオ、ウッチェロ、ブルネレスキなどの作品が見られます。

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そしてこのサンタ・マリア・ノヴェッラに、1503年から3年間レオナルドが滞在しました。当時「法王の間」とその回廊で「モナ・リザ」が誕生したのです。

 

次は、レオナルドとモナリザ誕生の話を。

 

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欧州列車の小話 フィレンツェへ

f:id:fukarinka:20220103023503j:plain初めてのフィレンツェへはローマから電車利用しました。

ローマのテルミに駅からフィレンツェS.M.N.駅まで約1時間40分の距離です。

このフィレンツェの「S.M.N.」ってなんだよと思いながら列車に乗り込みガラガラのコンパートメントに入る。朝早かったのもあって六人使用のコンパートメントを独り占め、とおもった瞬間イタリア人の若者が入ってきた。

例によって何のアナウンスもベルもなく列車は静かに走り始め、ローマを後にします。しばらくローマの郊外を走りやがて自然豊かなイタリアの風景が続きます。天気も良く車窓を流れる景色もとても気持ち良い。これはフィレンツェまで、景色見てたらあっという間についてしまうと思っていました。

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後から入ってきた若者が、昨日は徹夜で眠りたいからコンパートメントの電気を消して良いかと聞いてきた。こんなに明るい状態で灯もなにもないだろ?と思いながら「いいよ」と答える。若者は「Grazie」と電気を消して、腕を組んで眠りについた。

僕はといえば、一応フィレンツェの予習をしようとガイドをもちながら、実際はほぼ窓の外を眺めています。なだらかだったイタリアの風景が徐々に起伏が出始めた。するとその景色はまた豊かでこれはいつまででも眺めていられる、と思ったその瞬間、ブラックアウト。列車はトンネルに入ったのでした。そして、このコンパートメントは電気を消しているので、ほぼ真っ暗。何もできなくなった。。。

後で知ったことなのですが、ローマを出てしばらくするとトスカーナの起伏に富んだ地形が始まり、鉄道はトンネルの連続になるのです。なのでフィレンツェに着くまでのかなりの間、車窓の景色は拝めません。

この時、若者の求めに応じて電気を消してしまったので、何もできず。仕方ないので僕も寝ることにした。でもこれまたトンネル出ると明るい光がバシッと入ってくるのでそう簡単に眠れない。というか、連続するトンネルを出るたびに起こされる。なんてことを繰り返しているうちに列車はフィレンツェに近づいて、速度もゆっくりスローダウン。緑豊かな丘陵田園風景から徐々に街の建物が増えてきた。

そのとき左手に巨大なオレンジ色のクーポラが現れた。フィレンツェのドゥオモ「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)」が迎えてくれました。

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ちょっと靄がかかった空に太陽を背にしたその雄大な姿を見て思った。フィレンツェルネサンスのころから、旅人をこうやってお出迎えしてきたのだろう。この姿を見ることでフィレンツェに住む人はほっと安堵しただろうし、外から来る人はこれから体験するフィレンツェという街に期待が最大になっただろう。そして敵国の人間であればフィレンツェが手強い国であることを悟っただろうな。

 

花の都フィレンツェの誕生は古代ローマ共和政期、紀元前59年に遡ります。

春の盛り、ローマの「花の祝典(ludi florales)」 の祭日に、街を築くために神々に祈りがささげられたました。花の祝典の日に誕生した新しい街は「フロレンティア(花の女神・フローラの街)」と名づけられました。

ユリウス・カエサルにより街が興り、ハドリアヌス帝の時代にはより一層美しい街となったフィレンツェでしたが、その後に待っていた長く暗い中世の間に無秩序に作られたハリボテの街が、崩れ落ちた美しいローマの廃墟を覆っていったと言います。

そして13世紀の中ごろ一大転換期が訪れます。

フィレンツェで毛織物が発達して金融業が隆盛した。経済が潤い、政治も成熟期に入ろうかという頃、アーノルフォ・ディ・カンビオが古代ローマの街をベースに新しい街づくりを始め、フィレンツェの市民がそれに続いた。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ、ヴェッキオ宮殿、サンタクローチェ、ヴェッキオ橋、ポンテ・デラ・グラツィア・・・明確な都市計画によってフィレンツェの街を再興し、その後の建築家、芸術家たちへ道を示した。以降、富豪たちパトロンをバックに、多くの優秀な芸術家たちが競って見事な建物を作り、フィレンツェは比類ない美しい街へと成長していったのでした。

そしてその結果、フィレンツェルネッサンスに包まれていくのです。

 

もうすぐフィレンツェS.M.N.駅に到着です。

 

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フィレンツェ 目次

f:id:fukarinka:20220103023503j:plainフィレンツェ(Firenze)

ルネサンス発祥の地。ある一時期に驚くほど多くの天才たちが集まり、活躍した街。

歩いて回れるほどの小さな街に、ルネサンスの天才たちが残した遺産が散らばります。まるで街そのものが美術館のようなフィレンツェを歩きます。

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シエナ10 小史

f:id:fukarinka:20211231030732j:plainトスカーナのこの一帯はどこの街もほぼエトルリア人の集落が起源といえるようです。シエナも同じでやはり最初にこの場所に集落を開き、街に発展させていったのはエトルリア人であることは、どうも間違いない。でも、古代エジプトギリシア、ローマの人々と違ってエトルリア人は記録を残さなかった。なので面白いことにルッカにしろピサにしろ、だいたい「街の起源はエトルリア人の集落が起源。たぶん」という感じに紹介されることになるのです。

 

古代ローマ

ローマの都市「シエナ・イウリア」として、当時の近代化が進む。でもローマ街道から離れていたこともあり、ひっそりと時間を過ごす。このことはキリスト教が伝わるのも近隣に比べ遅かった。

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■中世以前

ランゴバルド人が北イタリアに進出。ローマ街道とは違う交易路を設定した時、シエナはその街道上に置かれることになる。この時からシエナは発展するが、8世紀にカール大帝フランク王国に屈する。

 

■12世紀

都市国家としてシエナ誕生。市民による自治組織が台頭して金融と羊毛取引の拠点として発展を遂げる。

■13世紀

シエナ共和国誕生。ゴヴェルノ・ディ・ノーヴェ(Governo dei nove)(1287-1348)の時代、シエナは都市手として最盛期を迎えます。

1240年 世界最古の大学の一つシエナ大学開校

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■14世紀

教皇フィレンツェと皇帝派であるシエナの攻防。

シエナ美術

シエナ派〜ピューリズムに至る絵画

・キジーニャ音楽アカデミー

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plainシエナシモーネ・マルティーニ(Simone Martini)聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知(1333)  Uffizi蔵

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plain シエナ派 サセッタ(il Sassetta) 6人の天使を連れた聖母子(1344-1347)  Louvre蔵

 

1348年 黒死病(ペスト)により都市国家として大打撃。

 

■16世紀

1555年スペイン帝国フィレンツェ軍によってシエナ攻囲戦が4年にわたり、ついにシエナ共和国の崩壊。フィレンツェメディチ家支配下に置かれることになる。20世紀にイタリア統一まで、シエナフィレンツェの一部として過ごしました。

しかし、シエナ市民はシエナの誇りを持ち続け、シエナ独特の文化が醸成されます。

 

■18世紀 

イントロナーティ、フィジオクリティッチ、ロッツィ(演劇)といったアカデミーが創立。

 

■20世紀

1995年「シエナ歴史地区」として世界遺産に登録

 

謎の民族エトルリア。彼らは技術の民と呼ばれてるけれど、記録がないので「多分」とか「よくわからないが」となる。でもエトルリア人の技術力の高さはローマ人も認めローマの中に取り込んだのです。そんな謎のエトルリア人を起源に持つトスカーナの街々、そしてシエナにもまた、よくわからないといわれるけれど、間違いなくエトルリア人の息吹きを感じることができました。

 

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