cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル4 海賊の人質

若い時期のカエサルを語る時、よく取り上げられるエピソードがあります。プルタルコス(Plutarchus A.D.46-119)の「対比列伝(Vitae Parallelae 英雄伝)」などに記される有名な話「カエサルが海賊に囚われた」を。

スッラの死後ローマに戻ったカエサルはいわゆる弁護士のような活動をはじめます。当時多かった属州の統治者の不正行為。これを告発して一旗あげようと試みたが失敗。逆に告発した権力者からの報復を避けるためカエサルは24歳の年に再度ローマを離れることになるのです。

今回の逃避先はエーゲ海に浮かぶロードス島。古くからロードス島には地中海世界の最高学府があり、カエサルはそこに留学をするつもりでした。ロードス島に向かって地中海を航行中のカエサルの船は、海賊に遭遇、襲撃されて捕らえられてしまいます。

*現代のロードス島で買った絵葉書

ここからカエサル劇場の始まりです。

海賊の捕虜となったカエサルに対して、海賊はカエサルの身代金を設定します。するとカエサルはその額に不満だと意を唱える。「お前たちは誰を手中にしているかわかっていない」と言い放ち、その身代金の額を2倍以上に引き上げました。

この時のカエサルに海賊がつけた身代金は20タラント(talent)と言われ、タラントはギリシアの通貨で、20タラントを現代の価値に換算するとざっと20億円程度と計算されます。それをカエサルは自ら50タラント(約50億円)に引き上げたというわけです。カエサルはローマから逃げてきた身で、更にカエサル家は名門であっても全く裕福でもない。その意味ではカエサルはこの50タラントもの金がほいと調達できるとは全く考えてなかったでしょう。ただ目的を示して信頼できる従者を近くの属州に派遣すれば、なんとかなるとは思っていた。従者が調達可能で、かつ命の保証ができる最大のラインに50タラントという金額を弾き出した。自分達の命の保証のためにも身代金の吊り上げは必要だった、とローマ人の物語Ⅳで塩野七海さんは分析している。

おそらくこの時金作に派遣されたのは幼い頃から共に過ごした、奴隷の子たち、今は誰よりカエサルに忠実で信頼できる従者たちだったのだから、カエサルの考えやとるべき行動も寸分違うことなく理解していただろう。そんな状況下でカエサルとその従者たちは不安など微塵もなかったのではないかと僕は思う。窮地に陥った時に心から信頼できる仲間がいると自然と全員が解決の出口に向かって動き出す。それが幼い頃から共に育った関係であれば、多くを語らずとも全員同じことを考えただろう。

従者を送り出した後のカエサルは身代金が届くまでの間、海賊たちに混ざり、体を鍛え、自分の演説を海賊に聴かせたり、賭け事をやったり遊び講じてすっかり海賊に溶け込んでしまった。とプルタルコスの英雄伝は伝えています。そのとき海賊たちに、「身代金が入って解放されたら、お前たちを全員縛り首にしてやる」と海賊たちを大爆笑させたりしていたといいます。

 

やがて従者はカエサルの身代金を満額揃えて持ち帰り、50タラントを海賊に渡すと無事カエサル一行は解放されます。

カエサルはその直後、軍隊を揃え自分を捕らえた海賊を追って海に出ます。そして、入江に停泊中の海賊を急襲して今度は逆に捕虜として捕らえてしまった。海賊船での宣言通りに海賊全員縛り首にしてしまった。海賊たちは海の上で、ただの冗談だと思っていた捕虜の若者の言葉がまさか本当になるとは思ってなかったでしょう。

この24歳で海賊の人質になったエピソードの中には、後のカエサルを象徴するような事柄がいくつも散りばめられている。とても愉快で豪胆、そして冷徹。短いエピソードなのだけど、古代からたくさんの人がこのエピソードを取り上げてきた、24歳にしてカエサルカエサルだったと知る貴重な話です。

 

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建築模型ー美術展小話

実は昨日、こんな展覧会を見てきました。天王洲の寺田倉庫WHAT MUSEUMでやってるのは知っていたのですが、忙しくてなかなか行けず、もうこの週末で会期終了。今年の春から職場が寺田倉庫まで歩いて8分の距離にあるため、最後のチャンス、先週末に思い切って仕事を中断、閉館までのわずかな時間ですが行ってきました。

いままでも寺田倉庫のイベントは何度か来たことあり、以前は寺田倉庫の倉庫に保管してあるたくさんの建築模型を、倉庫で見ることができたり、大好きなアントニ・ガウディの展覧会があったり、いわゆる美術館とは一味違ったセンスのいい展覧会が開催されます。

僕は学生時代は建築家志望で子供の頃から図画工作が大好きだったので、この手の展覧会は、もうたまりません。

こちら隈研吾さんのデビュー作「伊豆の風呂小屋(1988年)」の復刻模型。この建築模型そのものがいいですね。

段ボールを積み重ねた土台に鉛板で模型を製作。この風合いがたまりません。

 

こんなの作って過ごしたら、一日中没頭しちゃいます。

こちらは磯崎新氏の「東京都庁舎の計画」これは確か実現しなかったプロジェクト。

模型とはいえ、非常に手の込んだ丁寧なつくりです。

この曲線美。。。

茶室をシンプルに模型にしてる、江戸時代にあった茶室おこし絵図。

 

「ワニ」一本の丸太から建築模型を掘り起こし。

 

こちらは震災などで失われてしまった街を、ジオラマとして復活させるという素晴らしいプロジェクト。全国の建築学生がボランティアで行ってるとのこと。

家一軒一軒に「誰の家か」が記されています。模型の全部の家、空き家にも。

 

今回の展覧会のコンセプトは「デジタル化が進んだ現代における建築模型の意義を探求する」といったもの。でもこれからも建築模型はこんなふうに重要な役割を担うことになるでしょう。ひとつひとつの価値がずっと高くなっていきながら。

磯崎新隈研吾+篠原聡子、SANAA 妹島和世西沢立衛、三分一博志、藤森照信など現代の名だたる建築家の模型(写真撮影不可のものもいくつか)が並ぶ、たまらない展示会でした。草間彌生の絵や現代芸術の作品も一緒に展示してあり、規模は小さくもめちゃくちゃ見応えのある展覧会でした。

 

 

 

カエサル3 カエサルから見たスッラの粛清

カエサル18歳の時、スッラはカエサルの命を奪おうとしていた。

カエサルの叔父にあたるマリウスは政敵スッラの関係者を一掃しようと粛正を行った。そしてマリウスが死んだ後、スッラは逆にマリウスの関係者を完全消滅をしようとした。半ば感情的に殺戮を行ったマリウスに対してスッラは処罰者名簿(粛清者リスト)を作って、身元を洗った上で冷静かつ冷酷に、確実にマリウスの一派、4700人ものいわゆる民衆派を一掃しようとしたのでした。追われる方としたらスッラの方がよほど恐ろしい。

カエサルが十八の時、マリウスの甥であったためこのスッラの処罰者名簿にカエサルの名前がありました。

カエサルは幼い頃、叔父マリウスが出世していくのを見て誇らしく思っただろう。多感な十代に叔父が親戚を含む同じローマ人をわずか5日間で二千人近くも殺しまくっていくのを見て、自分の街が死体だらけになるのを見て何を思っただろう?そして十八の時今度は自分が粛正の対象となりどんな心境だっただろう?

この当時のカエサル書き残した記録はなく、その心境は推し量るしかありません。

2年前、16歳の時にカエサルはマリウスの右腕であった民衆派のNo.2キンナ( Lucius Cornelius Cinna)の娘コルネリアと政略的に結婚しました。そしてこのスッラの粛清によって、義理の父にあたるキンナは当然処罰者名簿の筆頭に置かれ、そうそうに惨殺されてしまった。そのキンナの娘を妻に持つカエサルは周囲の嘆願によりなんとか殺されることからは免れたものの、スッラからはキンナの娘と離婚するよう命令されていました。それに対して、カエサルは拒否します。スッラを説得した者たち一同驚きのあまり、ひっくり返ったことでしょう。まさか、ようやく助かった命をあっさり危険に晒すのか、と。政略結婚であったのだから、離婚も容易だっただろうにカエサルはそれをしなかった。

ローマ人の物語Ⅳ」で著者の塩野七生氏はこの時のことをこう分析します。

「絶対権力者といえども個人の私生活に立ち入る権利は有しない」というカエサルが生涯通して持っていた、自分が絶対権力者になった時でも通した信念が、18歳当時のカエサルの中にすでにあったのだろうと。

僕はさらに、母アウレリアの影響が大きかっただろううと思う。後にローマ女性のお手本のような存在となるアウレリア。カエサルをキンナの娘と政略結婚させたのはアウレリアだし、おそらくスッラへのカエサル助命も、水面化でスッラの周囲を動かし実現させた可能性も相当に高い。名門アウレリウス一門に生まれ、由緒あるが慎ましいカエサル家に嫁いで息子を立派に育て上げてる。スッラの「処罰者名簿」騒動の時、その息子の命の危機を救うために、聡明なアウレリアは人生の全てを賭けたに違いない、と思うわけです。

また、アウレリアはカエサルの将来まで見通して、将来民衆派のリーダーとしてローマを背負う息子の姿が見えたでしょう。民衆派のリーダーとなるためにはマリウスと共に民衆派を率いたキンナの娘を離婚させるわけにはいかなかった。その価値とリスクを冷静に天秤にかけ、命を確保した後に、スッラに刃向かうことを選択した。そしてスッラに逆らった後、カエサルをローマから離して逃避行させることもこの時すでに決めていたと思う。その行き先すらも。

息子は母親の影響を強く受ける。母親の良い面をたくさん吸収し、10代途中まで知らず知らずのうちに母親の敷いたレールに乗っている。カエサルも聡明な母の影響を強く受け、性格も教養も立ち居振る舞いもおそらく母アウレリアによって形作られたものでしょう。素材の良さもあったでしょうが、稀代の天才ユリウス・カエサルは母アウレリアによって形作られたと言っていいかもしれません。母は偉大だ。

カエサルはスッラの処罰を逃れてすぐ、幼馴染の奴隷の子と共に小アジアへと旅立ちます。シチュエーション的には逃避行ですが、18歳の若者の初めての親元を離れた果てしない旅程は楽しくて仕方なかったことでしょう。

 

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カエサル2 生涯

カエサルの略暦。カエサルの生涯は後半に行けば行くほど濃くなっていきます。人生の経歴としてはカエサルはとてもスロースターターです。20代で軍功を挙げて当時すでに最高の栄誉を受けた三頭政治の一角、ポンペイウスとは対照的です。

しかし、後世の人々は、カエサルをリーダーとして必要な資質を全てを備えた唯一の人物(高校の教科書)であり、いつの時代のいかなる軍隊を率いても勝者になったし、いかなる国に生まれても指導者になっただろう(モンテスキュー)と言う。人類史上屈指の人物、創造的天才とも言われるカエサルは人生を謳歌して、自分の考えに常に忠実に生きた。そしてその姿勢や考え方は現代を生きる僕たちにとっても、参考になることがたくさんある(なかなか近づくことはできないけれど)。思えば僕はこの四半世紀、そんなカエサルとともに過ごしてきたような気がします。

B.C.100 

7月12日ローマ、スブッラ地区に誕生

0歳
B.C.84 
キンナの娘コルネリアと結婚 16歳
B.C.82 

スッラの粛清。処罰者名簿にのるが、小アジアに逃れる

18歳
B.C.77 
弁護士開業するが失敗 23歳
B.C.76 
留学でロードス島へ向かう途中海賊に襲われるが海賊を説き伏せ、退治する 24歳
B.C.73 
神祀官になる 28歳
B.C.70 
会計検査官としてスペインに赴任。 30歳
B.C.70 
元老院議員になる 30歳
B.C.65 
按察官になるアッピア街道の補修、剣闘試合を自費で開催。マリウスの記念碑再建。 35歳
B.C.63 

最高神祀官になる。護民官ラビエヌスとの二人三脚始まる。

カティリーナの陰謀キケロ、小カトーと論戦

37歳
B.C.62 
法務官に就任 38歳
B.C.61 
遠スペイン属州総督として赴任。クラッスス借金王カエサルの債権者となる。 39歳
B.C.60

執政官立候補、三頭政治始まる

40歳
B.C.58 
ガリア戦役1年目、ヘルウェティ族を抑える(現スイスに至る) 42歳
B.C.57 

ガリア戦役2年目 ベルガエ族を制圧(現ベルギーに至る)。ガリア平定。オルレアンで冬営。

43歳
B.C.56 

ガリア戦役3年目 ルッカ会談ガリア北西部制圧。ノルマンディで冬営。現フランスのローマ化。

44歳
B.C.55 

ガリア戦役4年目 ゲルマン人侵入阻止。ライン河に即席の橋をかけ、ゲルマン人を牽制。

第1次ブリタニア遠征(イギリスの近代化へ)。

45歳
B.C.54 
ガリア戦役5年目 第2次ブリタニア遠征。フォロ・ロマーノ拡張工事 46歳
B.C.53 
ガリア戦役6年目パリとランスで前ガリア部族長会議を実施 47歳
B.C.52 

ガリア戦役7年目 6万 vs 26万のアレシア攻防戦に勝利し、ガリア戦役事実上終了。ガリア戦記7巻刊行。

48歳
B.C.51 
ガリア戦役8年目 アレシアの後処理。「ガリアのローマ化」。ガリア戦記第8巻は側近ヒルティウスが執筆) 49歳
B.C.50 

元老院ポンペイウスを担ぎ、カエサルを反逆者扱い。

カエサルに対し軍団解散命令

50歳
B.C.49 

1月7日 元老院カエサルへの元老院最終勧告ポンペイウスへの大権授与

1月12日カエサル:「賽は投げられたルビコン川渡河。ローマは内乱へ

51歳
B.C.48 

ファルサルスの会戦でポンペイウスに完勝。ポンペイウスエーゲ海からエジプトに逃れる。ポンペイウスは逃れたアレクサンドリアで殺される。

カエサルアレクサンドリアに上陸。クレオパトラプトレマイオス13世の姉弟での統治を指南。

52歳
B.C.47 
ポンペイウスの死によりほぼ内乱終結。「内乱記」完成。エジプトの内政干渉クレオパトラを王位に。また、カッパドキアでポントス王を一蹴。「来た、見た、勝った」と首都に報告、凱旋式を行う。 53歳
B.C.46 
ユリウス暦採用。独裁官(任期10年)に就任 54歳
B.C.45 

3月17日ムンダの会戦でポンペイウス派を破り、内戦終結

パクス・ロマーナへ向けて数々の改革に着手

55歳
B.C.44 

終身独裁官に就任。
3月15日 ブルータスらに暗殺される。

3月16日 遺言により後継者に指名。
3月18日 フォロロマーノで火葬される。

そんな人生のエッセンスとなる、カエサルならではの出来事を中心に、カエサルの人生を辿っていきます。

 

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空と雲と マジックアワー

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この日、朝のマジックアワー(Magic hour)は静かに始まりました。

日の出が近づくにつれて、奥は黄色からオレンジ、高い雲がピンクに色づき始まめます。手前の低い雲とのコントラストがとても綺麗です。

空の手前上空の雲はラクノサス(lacunosus)という雲。

空の色の変化はまさにMagicです。

「隙間だらけ」というラテン語が起源のLacunosusは泡立て途中のメレンゲのよう。

太陽が顔を出すと幻想的なマジックアワーも終わり、1日が始まります。

 

この日、陽が昇った後、空にはこんな面白い雲が現れました。波状雲(Undulatus)と呼ばれる雲ですが、

季節がすっかり秋めいて、空の表情も秋らしさを深めいてきました。空と雲は飽きることがありません。

 

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カエサル1 3月15日 / Idus Martiae

ヨーロッパの人は3月15日(ラテン語でIdus Martiae)というと、それが何を意味するのかほとんどの人が知っているといいます。日本で3月15日といえば中学や高校の卒業式?と連想しますが、ヨーロッパで3月15日といえば、それはユリウス・カエサルが暗殺された日として記憶されているのです。

紀元前44年の3月15日にカエサルは共和政主義者(元老院派)に暗殺されました。カエサルは55歳でした。

終身独裁官となった後も、ローマ人のアレルギー「王位を望んでいる」とういう人々の誤解をさけるために護衛もつけず、反対派の人間を処罰することもなく過ごしていたカエサルでしたが、この日、元老院議会場の中で14人の共和政主義の元老院議員に短剣でめった刺しにされ命を落とします。身体中に残った23ヶ所と言われる刺し傷のうち、致命傷となったのは胸を貫いた一突きだったといいます。

元老院派がカエサル暗殺を記念して発行されたローマのコイン。首謀者ブルータスの横顔、3月15日を意味する"EID-MAR"。その上に暗殺に使用した短剣プギオ(Pugio)と自由の帽子「ピレウス(Pilleus)」が模られています。

カエサルは取り乱すことなく、最後に、自分の遺骸が醜くならぬよう血に染まり乱れたトーガを整えてから息を引き取ったといいます。カエサルは最後まで立ち居振る舞いを崩すことはなく、最後の最後までカエサルでした。

カエサルはなぜ暗殺されたのか

ローマの共和政500年の歴史の中で繰り返されてきたのは、独裁への嫌悪感と、元老院による突出した人物への警戒、元老院議員の既得権の維持でした。そのために改革を行おうとすると既得権を奪われる貴族階級に潰され、優れた政治家が現れれば「王になろうとしている」と排除してきた。カエサルは王位を望んだわけでも、権力が欲しかったわけでもなく、国としてのローマの衰退を食い止めローマを再構築したかった、地中海をとりかこむ広大な領域をローマが統治するようになり、共和政体というシステムが国の形に合わなくなったことが明確となったため、帝政という新たな政体に移行させようとしたに過ぎなかった。しかしその事を当時の元老院議員の多くが、残念なことに理解することができなかった。カエサルの構想を理解できないまま、共和政ローマとして広大な領土を統治する方法もわからないまま、共和政主義を掲げる議員がカエサル元老院最終勧告で「国賊」に指定して、最後は元老院議会場で暗殺する、という愚を犯してしまったのです。

 

暗殺直後のローマ

暗殺の舞台となったのは元老院議場となったポンペイウス劇場。現在はアレア・サクラ(アルジェンティーナ広場)と呼ばれるこの遺跡がわずかに残るのみです。

カエサルが暗殺された直後、ローマの街は異様な空気が流れていました。暗殺者たちはなんともお粗末なことに、カエサルの暗殺後のプランを何も考えていなかった。民衆の指示がどうかすら想定しておらず、事を起こしてからローマ近くに駐留しているカエサルの軍団からの報復を恐れ、散り散りに隠れてしまう。そして市民も他の人間もみんな、また内乱が始まることを恐れて街からいなくなってしまった。
そんな中、ポンペイウス劇場に放置されたカエサルの遺体はカエサルの幼馴染の奴隷たちが命懸けで回収し自宅に運び込みました。ローマの奴隷は近代の奴隷とは異なり、主従でともに暮らし、ともに成長する家族のような存在だったことは前前回お話しした通り。カエサルの奴隷たちも、幼ないころから共に過ごし、ともに成長した者たちでした。

そして、ローマから逃げた共和政主義者を尻目に、カエサルの後継者はカエサルが期待した通りに着実に動き始めのです。

 

巨大なほうき星

カエサルから後継者の使命を受けたオクタヴィアヌスは3月15日の約4ヶ月後、カエサルの誕生月である7月に、ローマでカエサルを讃える競技会を開催しました。7月20日から28日まで剣闘試合や戦車競技など、カエサル追悼の催しが盛大に続けられました。 この時、初日から7日間、ローマの夜空に大きなほうき星が現れた。これを見た人々は「カエサルが祭りに出るためにローマに戻ってきた」「カエサルの魂が不死の神々に迎えられた」と噂したといいます。 この彗星はハレー彗星であることが科学的に証明されており、当時かなり大きく夜空を覆ったと言われています。もちろん本人は意図していないにしても、最後の最後まで派手に民衆を楽しませる、カエサルとはそういう星のもとに生まれたのだと思わずにはいられません。

*紀元前18年、初代皇帝アウグストゥスにより発行されたコイン。左はアウグストゥスの横顔、右はカエサルの追悼競技会を行った時に空を覆った彗星=カエサルを表しています

 

カエサルの墓

カエサルの遺体はフォロロマーノのこの場所(三角の屋根で覆われているところ)で火葬されました。後にオクタヴィアヌス(初代皇帝アウグストゥス)によりカエサルは神格化され、ここにはカエサルの神殿が建てられました。

火葬によってカエサルの体が灰になった直後、突然大雨が降ってきます。カエサルの灰はこの雨ですべて流されてしまいました。よってカエサルの墓は存在しません。

カエサルが火葬されたとされる場所が下の写真。ここには花が絶えることがないといいます(観光のための演出とはいえ)。

カエサルは絶世の美男子ではなかったけど、とにかくモテたといいます。この場所に来ると、たいてい女性ガイドが団体さんをつれてきて、この場所の説明が始まるんです。そして、ガイドさんが自ら花を添え、最後にこう結びます。
カエサルは今でもローマ中の女性をとりこにしているのです。だからここには花が絶えません。」

ユリウス・カエサル。人類史上屈指の天才、政治家であり軍人、それでいて民衆にとても身近な存在。それは彼が生きてた当時も、今も変わらないようです。

 

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小話 誰かの生涯

このブログ"cafe mare nostrum"の中で何人か建築家や芸術家、政治家の生涯を辿ってきました。歴史に名を残した著名な方々の人生を辿るのは、大袈裟に言えばその一生を追体験しているようで感情も移入するし、単純に勉強にもなります。そして毎度、僕はその人の生涯に触れる時、その人が亡くなった日を最初に記述したいと思うのです。なぜなら、その人が亡くなった時の様子はおそらくその人の生き様そのものであり、亡くなった直後に何が起こり、その後世の中がどうなっていくのかはその人が生前に何を成してきたかを表すものだから。

これから触れる人物はガイウス・ユリウス・カエサル。この人の死にざまも、とてもこの人らしくありました。そして死んだ後も、実にこの人らしかった。

 

この2カ月、街や建築や旅の小話といったcafe mare nostrumのメインストリームから少し離れて、古代ローマの歴史記述を続けています。なぜならローマの歴史がcafe mare nostrumの本質部分だから。

「なぜ?」を辿って興味の向くまま10年ほどの間に歩き続けた場所は、気づけばその殆ど全てが古代ローマに関わる場所だった。

その現代ヨーロッパに続く古代ローマのグランドデザインを考えたのがガイウス・ユリウス・カエサルです。Webでググれば専門家から普通の人までの星の数ほど溢れるほどの記述がある中、それでも自分流に描いて残したい。そんな衝動を抑えられず、これからカエサルを綴っていきます。

 

P.S. そして古代ローマの記述は帝政ローマをたどりながら、後にだんだんキリスト教の歴史とオーバーラップしていきます。そしてルネサンスへとスイッチしていきます。この後のローマの街の辿り方もそんなローマの歴史に沿うように展開していく予定です。

 

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