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旅行の記憶と何気ない日常を

空と雲と 幻の日

今日は面白い空を見ることができました。

太陽を中心に幻想的な光の輪。そして横に若干の虹色を帯びた光の鏃(やじり)。

これは太陽の前に雲のような層がある時に起こる現象で、

光の輪は「22度Halo」、光の輝点は「幻日」という名前が付けられています。22度ハロは現象そのままで味も素っ気もない。一方で「幻日」は「実物ではない太陽」ということで「幻の日」という和名になっているそうです。文字からくる不思議な感じと、「ゲンジツ」という、文字とは真逆の読み方が日本語らしい、とても秀逸な良い名前と思う次第です。

空を見ていると、時々息を呑むような景色に出会う。刻々と変化する空の景色は、あっという間に姿を変えてしまうので、見事な景色はそう長くは続かない。だから、こういう場面に出会うと、とても幸せな気分になるんです。

「とても貴重な瞬間に立ち会えた」と。

 

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カエサル16 ガリア戦役 暗転

紀元前54年の冬

例年戦闘のできない冬の時期、軍団は一箇所の冬営地に集まりガリアの地で越冬します。その間カエサル自身は南仏属州あたりの、本国との境目付近にもどって首都ローマに対して様々な指示をだしていたのでした。ところがB.C.54年の冬に差し掛かったころ、カエサルは軍団の冬営地を離れられずにいました。この年のガリアは小麦が不作。その影響は冬営するローマ軍団の兵糧確保に影響を及ぼします。ローマ軍は冬営地を決める際、一番問題の起きそうな場所を選択して全軍集中して冬営するのが慣わしでしたが、この年はガリアの各地に軍団を八箇所に分散させての冬営とならざるをえませんでした。戦力が分散して兵糧もままならないローマ軍団に対して、これを反撃の機会とガリア人は考えた。小麦の不作で人心荒廃する中、戦いに負けて一旦は恭順を示したものの、やはり自由を取り戻したいガリア人。そしてローマを面白く思わないゲルマン人ガリアのその気持ちを後押しする。こんな構図がこの当時の北東ガリアにはありました。

ローマ軍十五個大体全滅

今で言えばベルギー北部からオランダにかけて居住していた、それまでローマとは友好的だったエブロネス族がローマの使者を捉え反ローマに勃った。

この時冬営中のローマ軍のうち不意を突かれた15大隊9千人が全滅し、カエサルの副官のサビヌスとコッタの二人も戦死しました。ベルガエ人の2つの部族6万もこれに呼応し別のローマ軍冬営地に攻め込みます。このことを別の冬営地(アミアン)で知ったカエサルは、急ぎ援軍指揮して戦地に赴き、ベルガエ人の反乱を鎮圧しました。ガリア侵攻開始して六年、連戦連勝のローマ軍団にとって、有能な副官と9千もの兵士を失ったことは、その兵士の数以上の大きな打撃となった。

ゲルマン問題

結局のところ北西ガリアの問題はゲルマン問題であることを正確に把握していたカエサルは、ゲルマン人に釘を刺すために再びライン河に橋をかけゲルマンの地へ侵攻するのです。

B.C.53年に入りルテティアの街でガリアの全部族長を集めて会議を開き、自ら議長役を務めたカエサルは各部族の忠誠を確認します。背後となるガリア人を抑えてから、ライン河に再び橋をかけゲルマンの地へ渡り、今回は森の奥まで侵攻するのでした。この時カエサルゲルマン人部族をライン河の向こうへと押し戻すと共に、ドナウ河を把握して以降ローマの防衛戦の構想(=現在のヨーロッパ)を固めるのです。

ゲルマン人ライン河の森の向こうに押し返し、北西ガリア一帯を安定させたあと、今度は現ランスで全ガリア部族長会議を開きます。この時裏切りを主導した部族の長を処刑し、ローマと友好関係を結ぶ意味、結ばない意味を示して一旦ガリアは平定された、と思われた。

火種

しかしガリア人の盲目的な自由への渇望は消えることなく、次の年、全ガリアが一致してローマに、カエサルに反旗を翻すことになるのです。

ガリアに登場した一人の若者によって、決してまとまることのなかったガリア人が一斉に反ローマに立ち上がることになるのでした。

 

 

ルテティア=パリ

カエサルが全ガリアの部族長会議を開いた場所、ルテティアはセーヌ川のほとり、パリシー族の街でした。このパリシー族の街が後世「パリ(Paris)」と呼ばれるようになったわけです。カエサルガリア戦役を展開していた当時、今は世界を魅了するパリの街はまだ、洗練とは無縁の辺境の田舎町。

今でいうところのパリジャン、パリジェンヌはみんな分厚い毛皮を纏った辺境の民だったと思うと、不思議です。

 

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空と雲 となりの朝の空

ヨーロッパの素晴らしい街や遺跡、自然の絶景は現地に行かないと見ることはできないんですが、空の景色に関しては遠くに行かずとも、気付きさえすれば、その素晴らしい景色を堪能することができるんです。

ただ、僕の住んでいる場所は住宅街で、電柱・電線が所狭しと空を隠していて、スカッと空全体を何も邪魔されず見る場所は中々ありません。と思っていたら、朝通勤で歩くコースのしかもとても近所の公園が、そのスカッと空を見ることができるポイントであることを最近発見したのです。

そして冬のこの時期、ちょうど日が登る朝焼けの方角に空が開けているため、朝はお宝空景色に遭遇することが多い。今回はそんな景色をいくつか。。。

 

日の出直前、深い青い空と朝日に柔らかい黄色に染まる雲。とても好きな空の色です。

同じ場所の別の日の朝。

不思議な感じに雲が降り重なった結果だと思うのだけど、水平線近くは日が登る前のあわい黄色、ちょっと厚めの雲、そして頭上はるか上空は真っ青な空と羽を思わせるような軽快な雲たち。直接的な派手さはないが、空好きにはたまらない一景色。

日が登って少し経った頃、空の色づきはもう昼間と同じようになっているのだけど、この日、ラクダのコブのような雲が現れました。気流の関係で現れるこの形、等間隔で同じような形をつくる、珍しい雲なんです。

意外と近くにあった大きな空を眺められる場所。これからもいい空模様をここから見せてくれるでしょう。

 

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カエサル15 母の死、娘の死

B.C.55年7月ガリア戦役の最中にカエサルは母を亡くし、翌B.C.54年8月に娘を亡くします。ガリア戦役の最中、カエサルはローマに戻ることもできず、カエサルは二人の死に目に遭うことも、弔ってあげることもできなかった。公私を明確に切り分けていたカエサルは二人の死について、ガリア戦記には何も書き記していない。その他この二人の死についてカエサルがどう感じ何を思ったか、記録がなく知る術はありません。

「ローマ婦人の鑑」となった母アウレリア(Aurelia B.C.120 - B.C.54)

B.C.55年最初のブリタニア遠征の終了後にカエサルは母アウレリア の死の知らせを聞いたと思われる。アウレリアは名門アウレリウス一門の中でも学者の一家としても有名なアウレリウス・コッタ家の出身で、高い教養を持ち、天才カエサルを守り育てた母親として後にグラックス兄弟の母コルネリア(スキピオ・アフリカヌスの娘)と共に「ローマ婦人の鑑」として並び称される人物。

貧乏なユリウス家の家計を取り仕切り、ギリシア人の家庭教師はつけられない代わりに、ギリシアの最高学府で学んだ優秀なガリア人を家庭教師に招いたり、幼少からカエサルを一生支えることになる奴隷の子をつけて一緒に教育させたり、と将来を見据えた教育環境を整えた。アウレリアはB.C.84年、カエサルが16歳の時に夫を亡くした後も数ある再婚話を全て断り家長となったカエサルを影で支え続けました。カエサル18歳でスッラの「処罰者名簿」にカエサルの名前が載った時はあらゆる手を尽くして息子の命を守り、留学させ、たくさんの経験を促し、民衆派としての道を歩ませた。帝国ローマを、後世のヨーロッパ世界を築き上げた稀代の英雄は、この母アウレリアによる最高傑作と言っていいでしょう。

アウレリアはカエサルが幼い頃から母として溢れるほどの愛情を注ぎます。男にとって子供の頃の母親の愛情というのはおそらく、その後死ぬまでつづく性格形成に大きく関わります。カエサルの「どんな窮地に立たされても機嫌の良さを損ねることがない」という特徴などはこの母の影響が大きいといいます。

カエサルはこの聡明な母の影響を強く受け、成長しました。性格も教養も立ち居振る舞いも母アウレリアによって形作られたと言って良い。当時のローマの他の家庭と比較しても、とても母子の絆が強く親密な親子関係だった。その母が亡くなった時のカエサルの心の内はどうだったのか、知る由がない。ちょっと残念。

 

僕の母は高校卒業して地元の銀行に就職し、父と結婚したあとに上京した。東京で主婦をしながら通信制大学に通い教員免許を取る。アポロ11号の月面着陸の中継の時をちょうど通学のタイミングだったため、大学の学食で見たとよく言っていた。アポロ11号の月面着陸は1969年7月20日だから、生まれてまもない僕はとなりのおばさんに預けられていた。教員免許をとった母は僕が幼稚園に入園するタイミングで幼稚園の教員となって、そこからかれこれ20年以上幼児教育の世界で働いていた。いろいろなことに興味を持ち、首を突っ込んではいろいろなコミュニティーに参加する、どこにでも出かけて誰彼構わず話しかけ、仲良くなってしまう、バイタリティ溢れる人だ。高齢になった今でも、地元の小学校の見守り隊やコーラスグループ、ボランティア活動によく出かけている。先日は母に誘われてフジコ・ヘミングのコンサートに行ってきた。

昔のことでよく覚えているのは僕が悩んだり凹んだり、精神的に負の極致にいると、全く別の見方考え方で前向きなプラス思考の解を示してくれた。その論法は毎回魔法のようだった。もちろん現実はその通りには運ばないときもあるのだけど、完全なマイナス思考に陥ってしまった時、その度に「そんな考え方があるのか!」という目から鱗の一つの答えを示してくれた。僕が幼い頃から社会人になったばかりのころ、まだまだ人生経験浅く答えを一人で見出せない頃に、常に「別の見方」「別の考え方」を示してくれた。これは今も僕の思考パターンの大きな礎となっている。

僕は幼稚園のころから母が働いていて、いわゆる鍵っ子、預かりっ子として育ったが、当時寂しいとか、悲しいとか不安に思ったことは一度もなかった。ひとつは僕自身の性格によるものもあると思うが、今思えば、それまでの間にたっぷり愛情注がれて過ごしたんだろう。実体験として子供の思考に母親の影響たるや絶大なものがあると思う。

だからカエサルの母アウレリアがいかに偉大だったか、少しわかるような気がする。

 

カエサルを支えた娘ユリア(Julia B.C.82-B.C.54)

カエサルとコルネリアの間に生まれた娘ユリア。父カエサルは軍務や政務でほとんど留守であった中、母コルネリアと祖母アウレリアによって育てられました。

B.C.59年に三頭政治カエサルと双璧をなすポンペイウスに嫁いだ。ユリアには別の婚約者がいたが、それを破棄してのポンペイウスとの結婚は、カエサルによる三頭政治を強固にするための政略結婚であることは明らかでした。カエサルの母、祖母のアウレリアに育てられたユリアの女性としての魅力は素晴らしく、過去の歴史家たちによれば「美と徳を持ったやさしい女性」、その花嫁を迎えたポンペイウスはユリアに夢中になったといいます。20以上もの歳の差がある夫婦となったのだけど、周囲が「ポンペイウスは公務を放棄した」と思うほどユリアを大切にして、政略結婚とは思えないほど仲睦まじい夫婦となったといいます。

ユリアはB.C.54 8月出産中に亡くなった。

愛妻を失ったポンペイウスの悲しみは相当なものだった。ポンペイウスは夫婦の思い出の詰まったアルバの別荘にユリアを葬りたかったが、ユリアを慕う大勢のローマ市民によりマルス広場にある歴代の偉人たちの墓所に埋葬されることになったのでした。これはローマ人にとってはとても名誉なことで、当時であれば国最高位の人物への待遇。このことはユリアという人がポンペイウスの妻として、カエサルの娘として如何に振る舞っていたかが窺い知れます。

娘を政略結婚させる、というのは当時であれば普通の事柄だったのかもしれません。ただ客観的にみて不幸に思える政略結婚を、その役割を十分に果たしながら幸せな結婚にしたユリアは魅力的で聡明な女性でした。

 

ユリアの死後、ポンペイウスの落胆は激しく、元老院派はそれにつけこんで三頭からの引き剥がしを画策します。ポンペイウスの武士道によって、この時点では寝返ることはなかったものの、かすがいとなっていたユリアの存在は大きく、ユリアの死後、三頭崩壊が少しずつ進んでいくことになるのです。

 

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カエサル14 ガリア戦役 イギリス〜ドーヴァー海峡横断

B.C.55年、カエサルがもう一つ行った大事業とは、ドーヴァー海峡を渡りブリタニア(イギリス)に上陸したこと。これもまたローマ人初の出来事でした。

ゲルマンの地でゲルマン人や北部ガリアの諸部族に反ローマの支援を行っているのがブリタニアにいる民族であることが判り、カエサルブリタニアへの遠征を考えていました。このときすでに夏も終わり遠征の時間はそれほど残されておらず、最初から目的は本格的な征服行ではなく「実地踏査」。ガリア戦記にも記された通り、このときカエサルブリタニアを、ゲルマンのように排除するではなく、ローマ世界に組み入れることをすでに念頭に置いていた。

カエサルは、この年100隻の軍船でドーヴァー海峡をわたります。それを察知したブリタニア人が迎え撃つ準備をしていたことと、大西洋という内海ではない外洋の波に慣れていないローマの船団は、さらに天候にも邪魔されて、ブリタニアへの接岸にかなり苦労をしたといいます。特に騎兵を乗せた船が遠く流され、到着が遅れ上陸前から始まっていた戦闘でローマ軍は大苦戦を強いられた。

遅れに遅れたローマ騎兵が到着すると戦況は一変、一気にローマ優勢となったところでブリタニアから休戦の申し入れがくる。講和が結ばれ人質を差し出させて戦闘は終了となった。

ところが、ローマ軍が船の補修に手間取り出航が遅れ、兵糧が不足しているのを知ったブリタニア人は講和を反故にしてローマ軍に攻め込んできた。

一度講和を結んでおきながら反故にして剣を向けてきたブリタニア人の行為。本来なら徹底的に殲滅となる場面ではあるのだけど、ここは未知の土地ブリタニアカエサルは軍団の安全確保を最優先に、再びの襲撃を一蹴したあと、ブリタニア人に対してはさらに多くの人質を差し出させることで手打ちとした。軍船の補修が完了するとブリタニアを離れたのでした。

波乱万丈のブリタニア初上陸ではあったのだけど、もともとからしカエサルはこの時のブリタニア遠征の目的は実地踏査のためと割り切っていたこともあり、目的は十分に果たしての帰還でした。ドタバタですったもんだあったとしても、本国ローマの人々は史上初の快挙に沸いた。カエサルからの報告に元老院はこれまた、前例のない20日間もの祝祭を開いたのでした。

開けてB.C.54年(カエサル 46歳)にカエサルは第二次のブリタニア遠征を実行します。軍団冬営中に多くの軍船の造船し、2度目のブリタニア遠征に臨みます。実地踏査の前回に対し、今回はブリタニアをローマに組み入れるための遠征です。

ローマ軍は2度目となったドーヴァー海峡は荒れた海に翻弄されながらも特に大きなトラブルもなくブリタニアに上陸します。ベルガエ人が移住している南部を抜け、現在のロンドン付近を経由してテムズ川を超え、現在のケンブリッジのあたりまで進みます。ブリタニア人はこの間、森の中に潜みゲリラ戦を仕掛けたびたびローマ軍を翻弄しますが、ローマ軍はこれを一蹴します。大規模な戦闘もないまま多くのブリタニア部族が講和を申し入れてきた。季節的にも潮時を悟って、カエサルブリタニア遠征を切り上げます。ブリタニアの各部族からの大勢の人質を得たおかげで船団が足りず、二回に分けてガリアへ戻ることになったのでした。ローマ人にとって、まったくの未開の地ブリタニアカエサルによって、知っている土地になり、この後150年の間に現在のスコットランドの手前までがローマ帝国の領土となるのです。

いい写真が残っておらず残念なのですが、イギリスのドーヴァーの海岸線にはこんな白い絶壁が長く連なります。ブリタニア人、のちのイギリス人は大陸から帰還するときに海の向こうに聳えるこの壁を見て、故郷に戻ったことを実感できたそうです。カエサルブリタニア遠征でこの壁を見たかどうか。

イギリス人は大英帝国の始まりを、このカエサルがイギリスに上陸したときだとしているそうです。実際、未開の辺境であったブリタニアがローマの支配によって文明がもたらされた。文明人としてのスタートをカエサルに求めたいとする、イギリス人のお茶目なところは、自分たちのルーツをトロイアに求め、伝説の狼に育てられたロムルスとレムスが紀元前753年4月21日に建国した「ことになっている」ローマ人そのものに通じるものがあって微笑ましい。

 

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カエサル13 ガリア戦役 ドイツ 〜ライン渡河

ガリア戦役4年目(B.C.55年 カエサル45歳)

カエサルはこの年、二つの大きな仕事を成します。

一つは対ゲルマンでの出来事。

前年のルッカ会談で合意したであろう通りに首都ローマでポンペイウスクラッススが執政官になり、それぞれのプロコンスルとしての任地の決定と、カエサルガリア総督の任期が5年延長、そして三頭それぞれが十個軍団を持つことが合法化されます。

カエサルは現フランス、ノルマンディー地方で冬営中の軍団からゲルマン人部族がライン河を渡ってガリアに侵入していることを知らされます。春になってカエサルは急ぎルッカから軍団冬営地に向かい、ガリアへ侵入したゲルマン人の掃討に向かいます。

ゲルマン人ガリア同様に大小強弱たくさんの部族が存在し、かつ統一など考えない民族でした。狩猟民族で肉が主食、体も大きく好戦的でガリア人とは違い定住しての文明化は望めない、というのが当時のローマ人のゲルマン人に対する見方でした。よってカエサルゲルマン人に対してガリア人とは全く違う扱い、「ローマ世界からの排除」という選択をします。

ゲルマン部族には二大部族があり対立していました。反ローマでゲルマン諸部族にも好戦的ないわばガキ大将的な「スヴェヴィ族」と、ローマを味方にしてスヴェヴィ族への抑止力にしたい、規模は最大の「ウヴィ族」。やんちゃで豪胆なスヴェヴィ族に押し出される形で弱小部族が居場所を求めてライン河を渡り、生活のためとはいえガリアの地で略奪を繰り返しガリア人を苦しめた、背景にはこんな構図がありました。

ガリアに居場所を要求するゲルマン人の彼らに、カエサルガリアに居座ること許さず、その代わりウヴィ族にゲルマンの地での居場所の確保を交渉すると伝える。交渉の日付を決めそれまで戦闘禁止令を出し軍団を進めるカエサルの元に、前線にいたローマ軍(正確にはローマ軍として参加していたガリア騎兵)がゲルマン人に不意打ち仕掛けられ多くを戦死したと情報が入る。これによってカエサルは「話し合い」を捨て一気にゲルマン部族の掃討に舵を切ります。話合い前提の休戦の約束を反故にする相手に対してもローマ人は容赦しません。殺戮に近い形でガリアに居座っていたゲルマン部族を殲滅しました。

そしてカエサルゲルマン人に対して、ライン河の向こうにいる各部族に対して「これ以上ガリアに入ってくるなよ」という意思を込めてゲルマンの地に攻め入ります。それも強烈なデモンストレーションとして行うのです。カエサル自身が「名誉ある方法」と記したその渡り方とは、大河ライン河に橋をかけて渡ることでした。

ローマの軍団兵は強力な兵士であると同時に、優秀な工兵でもありました。どこにでも宿営地を建て、塹壕や防壁、巨大な攻城兵器を作り、さらに道路などのインフラまで作ってしまう。カエサルは本国への報告の際にこのローマ軍団兵の工兵の活躍を褒めちぎります。この時ローマ兵は橋梁技術者となり巨大な橋をつくります。材料はライン河周辺に広がる広大な森の木々。大量の木々を伐採し、これらを橋の部材となるように加工して、現在のボンとケルンの間と言われているライン河のほとりまで運びます。同じく建設用の機械も作り、橋脚を等間隔に打ち付けることから工事が始まるのです。材料到着からわずか10日でローマ軍団兵が並んで歩ける大きな長い橋が完成してしまいました。長さ400mとも幅9mとも言われる頑丈な橋はカエサルの軍団をゲルマン人の土地へと導きます。

 

カエサルの意図通り、橋の建設の時点、見たこともない橋がどんどんできていくプロセスの時点で、ゲルマン人は相当に恐れをなしたらしい。ローマ軍団が橋を完成させて渡ってくる前に、ゲルマン人は自身の集落を捨てて森の奥深くに逃げ込んでいました。ライン河を渡った先での戦闘はなく、ローマ軍は村を焼き尽くして再び橋を渡りガリアへ戻ったのです。そして橋は解体されました。

カエサルはこの時、3つのことを同時に進めていました。

  1. ゲルマン人に対するデモンストレーション
  2. ガリア人に対するローマの安全保障の約束の証明
  3. 過去例のないライン渡河(あっという間に橋をかけて渡り、あっという間に壊すというローマ技術力の証明と本国に対する宣伝)

カエサルは「一つのことを一つの目的のために行わない」と言われます。何かをなすときには二重、三重の意味を持たせてことを進め、効果を最大にする。現代でもとても参考になる、が、なかなかできることではありません。

上の写真はドイツはケルンのライン河の景色です。橋がかけられたのはここではないにせよ、ここケルンからボンの間のどこかであれば、この写真くらいの河幅に即席の、しかし頑丈なローマの橋をかけたことになります。しかも木製の。ローマ人の設計と加工、建設に関する技術力には驚かされるばかりです。

それにしても、ローマ史をたどって思うのは、ゲルマン(ドイツ)人の素行の悪さ。今現在だけ切り取れば、ドイツといえばEUの中でも、世界的に見ても優等生、いろいろな成功を収めている国ですが、ほんの数十年前はヨーロッパ諸国を侵略したり、大虐殺をおこなったりしていたわけで、2千年前と変わらぬ素行を考えると歴史とは本当に面白いです。

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古代ローマ小話 人質の話

ローマは周辺諸国との戦争に勝利すると、敗者である国や部族から人質(ラテン語 obses)をとってきました。人質というのは奴隷と違い、国のトップ、有力者の子息である必要があります。一般的な意味合いとしては敗者の有力者の子供達を勝者の地に置くことで、敗者となった国が2度と謀反を起こさないようにする予防の意味合いがある。

「人質」という文字に対しての僕の勝手なイメージは、自由のない軟禁状態で、常に監視下に置かれる窮屈な生活を思い浮かべます。子供の頃、テレビで見たいわゆる「人質」は手足をロープで縛られ口にガムテープ、ろくに食事も与えられず暗い部屋に監禁される。場合によっては常に銃口むけられる。。。。

古代ローマ流の人質とは、いかなるものか。

ガリア戦役の最中、カエサルは多くの部族と交渉して講和を結んだり、戦闘で勝利して恭順を誓わせるなどしてたくさんの部族をローマの傘下へ組み入れました。その度にガリアの有力者の子息を人質として首都ローマへ送ります。

国が戦いに負け、ローマの人質となって故郷を去るガリアの若者たちの心中は悲壮感、あるいは絶望に満たされたことでしょう。

ローマの人質となったガリアの若者達の運命は。。。。。首都ローマの有力者の家に預けられました。今で言うホームステイ。ローマの一流家庭で、その家族と共に生活をして、ローマの教育を受け、文化文明を体験し学ぶのです。

ローマの街での上流生活は辺境の田舎で過ごしていたガリアの若者には相当刺激的だったと思います。自分だったら毎日楽しくて仕方なかっただろうな、と想像するわけです。

ローマの家庭ではその家族と共に過ごし、ローマ流の文明的な生活を体験します。有力者の家庭であれば、上流社会との交流も頻繁に行われたでしょうし、そこでの見聞は、将来ガリアに戻ったとき、部族を率いる中枢として十分過ぎるほどの下地となったことでしょう。

ローマ有力者の家庭であれば、教育も一流。ギリシア人の家庭教師が、あるいはギリシアの一流大学で学んだ優秀な人材が家庭教師として一流の教育を施していた。ガリアの若者はローマでギリシアの当時一流の学問を学ぶことができた。そしてアテネロードス島への留学もあったでしょう。

現代アテネのアカデミー

 

当時すでに地中海を覆う大国だったローマの首都は美しい建物やインフラも整備された先進都市。都市とはなんたるかを学んだでしょうし、単純にいわゆる都会での生活も謳歌したんだと思います。

こんな風にしてローマで成長したガリアの若者は、やがて故郷に帰って、その学び体験したことを故郷のために発揮します。これによってガリアは精神的、政治的にローマとの絆を深めることになります。ガリアはローマにとってより信頼できる属州となり、双方にとってより高度な安全保障が実現する。

そしてかつて未開の地だったガリアの街は文明化し、美しい建物で満たされて栄えていきます。

ローマが滅んだ後、ある時期は衰退もあったけど、14世紀のルネサンスで再び古代ローマが見直され、もてはやされ、古代ギリシア・ローマの様式が模倣されて街は洗練し、人間の感性に直接訴える芸術が街に溢れ、やがて現在見られるヨーロッパの珠玉の街へと変貌していくのです。

戦いに負け、ローマの人質となって故郷を去るガリアの若者たち、しかしローマに到着して、ガリアの若者を待っていたローマでの生活は、ガリアの若者の心を躍らせたでしょう。そして一流の知識と経験を携えてガリアに凱旋し、ローマの期待と部族の期待に応え活躍する。ローマの人質の運命とはこう言うものでした。

 

僕が訪れたヨーロッパの美しい街々では、ほぼ全てと言って良いほど古代ローマの痕跡を見つけることができました。ローマの遺跡と「カエサル CAESAR」の文字。

これは紀元前1世紀に繰り広げたカエサルの冒険(ガリア戦役)と、その後カエサルのグランドデザインに沿って帝国を発展させていった、歴代皇帝と大勢のローマ人、そして人質としてローマに送られ、ローマで学んだガリアの若者たちが残したものだ。

僕はその痕跡に惹かれてヨーロッパ各地に赴いた。知れば知るほど益々知りたくなる。僕にとってのローマとはそう言うもの。

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