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ゴッホとアルル 〜黄色い家とHotel VAN GOGH

 f:id:fukarinka:20200414183342j:plain僕は南フランスのアルル(Arles)に来た。

アルルはゴッホが日本の太陽を求めて、「芸術家のコロニー」を夢見て破れた場所。それがどんな場所なのかをこの目で見てみたかった。

僕は夜行列車で早朝アルルに到着して、駅から5分くらいのところにあるラマルティーヌ広場に宿をとった。ホテルの名前は「Terminus et VAN GOGH」。ゴッホの名前がついたホテルだ。

 

ゴッホにとってのアルル

なぜゴッホは2年間パリで過ごした後、アルルに移り住んだのか。その理由は日本の浮世絵にある。

当時パリにはたくさんの浮世絵があった。それはゴッホがパリにいた頃から20年くらい前、たくさんの浮世絵がパリに運ばれたから。1867年のパリ万博で日本が初めて万博に参加することになり、そのための展示品を日本からパリへ輸送した。でも展示されたのは浮世絵ではなく他のもの。浮世絵は大事な展示品が輸送時に壊れないよう守るために緩衝材として「浮世絵が描かれた紙」が使われた。当時日本での浮世絵はそれほど貴重なものではなかったのでこんな風に使われ、偶然パリにたくさんの浮世絵が入ることになった。

しかし浮世絵の表現は西洋美術からするととても斬新なものだったので、パリの、特に芸術家達はその包み紙を見て大きな衝撃を受けた。コレクションするもの模写するものフランスの芸術史にとっての大きな出来事だったと言える。

そしてゴッホもその一人、たくさんの浮世絵の模写を残している。

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浮世絵の模写

そしてゴッホは浮世絵から感じ取れる「日本の色」に、それを生み出す”日本の太陽”に強い憧れを抱いて、南仏が日本のような太陽がある場所ではないかと想像するようになる。ゴッホの衝動は抑えられず、とうとう2年間過ごしたパリを離れて、1888年2月にゴッホはアルルにやって来た。

 

黄色い家の今と昔

ゴッホ1888年5月からラマルティーヌ広場に部屋を借り生活を始めた。それが「黄色い家」。黄色はゴッホにとって日本の太陽の光の色であり、当時のフランスでは「日本で友情を表す色」と考えられていた。理想の土地で新しい生活が始まり、ゴッホはこの黄色い家で仲間の芸術家を集めて”芸術家のコロニー”を作ろう考えてた。

 

今はもう黄色い家はない。ゴッホの黄色い家は戦争で焼けてなくなってしまった。

昔、黄色い家があった場所の裏手に、今回泊ったHotel Terminus et VAN GOGHがあります。僕はゴッホというホテルの名前と黄色い家の裏という場所のおかげで、アルル滞在はここ以外の宿は考えられなかった。とても小さなホテルだけど、当時気さくなご主人と人懐っこい子犬いて、気丈な女将さんが仕切るいいホテルだった。

飛び込みで入った僕を、部屋を案内してくれたご主人が部屋の窓からアルルの街を紹介してくれた。。。。あそこがアルルの旧市街、ローマ闘技場の遺跡が見えるだろ?、あっちにはコンスタンティヌスの浴場、そして母なるローヌ川だよ。。。と自分の街をとても誇らしげに教えてくれたのを鮮明に覚えてる。僕はここで2泊して、アルルとプロバンスの他の街に出かけた。

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真ん中がHotel Van Gogh

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「黄色い家」@Van Gogh Museum (Amsterdam)

ひまわり

さてゴッホは黄色い家の部屋で芸術家仲間を待ったのだけど、結局アルルにやって来たのはポール・ゴーギャンただ一人だった。ゴッホゴーギャンを迎えるために部屋を「ひまわり」で埋め尽くそうとたくさんのひまわりを描いた。

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ゴーギャンを迎えたひまわり

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ゴーギャン到着後に描かれたひまわり

6枚のひまわりで部屋を飾ろうと描き始め、ゴーギャンが来るのだから最高の作品に仕上げないとと筆を走らせ、10月にゴーギャンを迎えることができたのは最初の4枚だった。その後のひまわりは、ゴーギャン到着後に描かれて最終的には7枚のひまわりが完成した。

少しずつ違ったそれぞれ生命力溢れる7つのひまわりが、当時は全て黄色い家にあったのだけど、今では1枚は消失、残り全て世界各地に別々に散らばってしまい、アルルには一枚のひまわりも残っていない。

ひまわりに限らず芸術作品はたいていの場合誰かのために制作され、売買され、戦争の戦利品として持ち去られたり、優れた作品であればあるほど、建築を飾る彫刻ですら制作された場所にとどまることが少ない。芸術作品の常とはいえ、見知らぬ誰かのために描いたものではないゴッホの作品を思うと、特にこのひまわりに関してはちょっともの哀しくなる。

 

芸術家のコロニーを夢見て多くの仲間を誘ったけれど、黄色い家に来たのは結局ゴーギャン一人だけ。そのゴーギャンとの共同生活は1888年10月〜12月、わずか2ヶ月あまりという短さだった。それぞれの芸術家としての個性が強すぎて、とても共同生活しながらの芸術活動なんて受け入れられなかっただろう。実際、お互いの作品についての言い争いが絶えず、とうとうゴッホの自画像の耳について衝突した時にゴッホは自分の耳たぶをナイフで切り落とした。この「耳切事件」をきっかけにゴーギャンとの共同生活は終わってしまいました。

ゴッホの描く絵を否定し続けたゴーギャンだったけど、「ひまわり」だけは「これこそ花だ!」と認めたという。

 

ゴッホとアルルの終わり

ゴッホは弟テオとたくさんの手紙をやりとりしていた、その中でこんなことを書いていた。

「僕は描くことに神経を集中しすぎて、精神に異常をきたしてしまったようだ」

 

アルルでは芸術家のコロニーの夢は叶わず、ゴーギャンとの共同生活も狂気の中で破綻してしまったゴッホは、ついには精神を病んでしまった。アルルの病院で入退院を繰り返し、最後はサンレミの病院へ入院するためにアルルを去ることになってしまった。

  

ゴッホがアルルで過ごしたのは1888年2月〜1889年5月。この僅か1年ちょっとの間で約100枚の作品を描きあげた。

ゴッホのアルルで描いた絵を見ると、叶わなかったことばかりのアルル生活の中で「日本の太陽」だけは見い出せたのではないかと思いたい。

 

 

関連情報リンク

HOTEL TERMINUS ET VAN GOGH  (@Tripadvisor)  ---今も営業してる模様

 

 

 

 

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