あの年の夏、僕はスイスを周りパリに入った。あの年はスイスでもとても暑く少し歩いただけで汗が噴き出す、そんな夏だった。スイスでそんな感じなので、フランスはもっと暑い。
僕はオルセーでゴッホの作品を見てから、ゴッホ終焉の地であるオーヴェルに向かった。特に「オーヴェルの教会」が実際はどういう風景なのか、が知りたかった。そしてゴッホ最後の土地とはどんなところか見てみたかった。
オルセーにある「オーヴェルの教会」は何か空間が歪んでいて、晴れているような夜のような、昼のようなとても不思議な印象を受ける絵だ。前回に書いたけど、実際のオーヴェルの教会は明るくのどかで、普通の田舎の教会だった。この絵と実際のギャップがゴッホの心のゆがみの具合を実感させてくれたのでした。
ゴッホはオーヴェルにやってきて、レストランを営むラヴー亭の屋根裏部屋を住処とした。ゴッホはここで1890年5月から2ヶ月余りを過ごした。オーヴェルの村の風情に魅せられて、毎日いろいろな場所に出かけては新しい作品を描き続けた。この2ヶ月ほどの期間、ゴッホはほとんど1日1枚のペースで作品を書き上げていった。
そしてあの日、ゴッホはいつものようにイーゼルと画材を持って麦畑に入ったのだけど、この日は少し様子が違った。ゴッホはオーヴェルの麦畑のどこかで自分の胸にピストルを突きつけて引き金を引いた。1890年7月27日、日曜日の午後のことだった。
しかし、麦畑で死に切れなかったゴッホはその後自力でラヴー亭の自分の屋根裏部屋に戻った。
ガシェ医師が駆けつけ、そして後弟テオも駆けつけた、29日の深夜にゴッホは息を引き取った。37年の生涯だった。
僕はラヴー亭に入り、ゴッホの部屋にも入った。ゴッホの部屋はとても小さい質素な部屋だ。いびつな形、きしむ床と迫る壁、陰鬱な雰囲気は精神の病にうなだれるゴッホの苦悩が伝わってきそうな、そんな場所だった。あの日、ゴッホは血にまみれて一人でこの部屋に戻り、ガシェ医師と弟テオに看取られたて亡くなったのだ。
僕は当時、なんだかとても悲しくて、どうしてもゴッホの部屋の写真を撮る気になれなかった。代わりに記憶を辿って書いたゴッホの部屋の絵を下にのせた。斜めの天井にとても小さい窓、いびつな形の部屋で椅子が一つだけポツンと置かれていた。
ゴッホは37年の生涯の中で画家として生きたのは最後の10年。そこで命を削るように絵を描き続けた。描くことに集中しすぎて精神を病んでしまうほど。
ゴッホ(Vincent)の唯一の理解者だったのが弟テオ。そのテオも兄を追うようにしてゴッホが息を引き取った僅か6ヶ月後に亡くなっている。
テオは最初オランダのユトレヒトに埋葬されたのだけど、今はオーヴェルの共同墓地で兄Vincentの隣にいる。テオ夫人がテオの棺をオーヴェルの共同墓地に移したのでした。ゴッホ兄弟の絆を思い、兄Vincentのすぐ隣に弟テオ、自分の夫であるテオを埋葬し直したのでした。
オーヴェルの共同墓地の一角に、緑に覆われ、ひまわりの花が添えられた墓碑がある。ここフィンセント(Vincent)とテオ(Theodore)のゴッホ兄弟が眠っています。
牧師の家に生まれ、職を転々として27歳で画家を目指す。パリで浮世絵に出会い衝撃を受け、日本の太陽を求めて、画家の仲間と芸術家のコロニーを夢見てプロバンスに行くも夢破れ、心を壊してしまい、最後は自ら命を絶つ。
生前売れた絵は1枚。ゴッホの生涯をどう捉えて良いものかとても悩ましい。