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ガウディ小話 〜その生涯

ガウディに関しての資料は書籍でもネットでも、著名な建築家のものから個人のものまで星の数ほどある。どの資料にもほとんど共通して言えるのが、色々な立場のガウディファンが綴ったものであるということ。

その生涯についてもたくさんの色々な人が色々にまとめているので、「今更」と思いながら、でも僕も紛れもなくガウディのファンの一人として僕の視点でガウディの生涯をまとめて残したくなる。この下にはそんな思いが綴られています。

 

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1926年6月7日、午後6時5分。

バルセロナの街角で一人の老人が路面電車に跳ねられました。とても汚い身なりの老人は病院に運ばれましたが、街の人も病院もこの人物が国民的英雄の建築家であること気づかずにいました。翌日ガウディの弟子たちが病院に横たわるガウディを見つけたとき初めて、バルセロナに何が起きてしまったのかみんなが知ることになったのです。

ガウディはこの3日後に息を引き取ります。

ガウディの遺言には"葬儀は質素に"と記されていたため、ガウディが亡くなった2日後にひっそりと葬儀が行われようとしていました。しかしどこからともなく葬儀を聞きつけたバルセロナ市民があふれ、病院からサグラダファミリアまでの沿道を埋め尽くし、葬列の長さは1.5kmにも及んだと言います。

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アントニ・ガウディ

この事故から葬儀までの5日間ほどの出来事が、ガウディという人の生涯をとてもよく表しているように思えるのです。僕から見えるガウディの生涯をキーワードに沿って簡単に辿ってみようと思う。

 

 

少年ガウディ

アントニ・ガウディ・イ・コルネットは1852年6月25日カタルーニャタラゴナのレウスという街に銅器具職人の家の第5子として生まれました。幼いころから父の仕事場で一枚の銅板が立体としていろいろな形に変化していく様を熱心に観察していたおかげで、幼少期にすでに職人の父親も認めるほど立体感覚を身につけていたと言います。

また幼少期にリウマチを患ってしまったガウディは友達と遊ぶこともままならず、ひとりで周りの自然や周囲の生活を観察して過ごしていたと言います。

当時の絵はすでに驚くほど精緻でリアル。リウマチを患うという不幸はあったものの、この幼少期の時間がのちの建築家ガウディのためにとても重要な時期となったように思えます。

 

そして11歳のある日、親友たちとの将来の会話で自分は建築家になるのかもしれないと何となく思ったのでした。 すでにはっきりした目標を持っていた友と、具体的な目標がなかったガウディ。その時ガウディが「立体を作る人になる」と言うと、友が「それは建築家だよ」と言った。それから「建築家」という道標がガウディの心に灯ったと言います。

バルセロナで驚くような作品に出会えるのはこの友人のおかげかもしれない。

 

バルセロナ

故郷を後にして建築家の勉強をするためにバルセロナへ、ガウディがバルセロナ・サンツ駅に降り立ったのは16歳の時。

それから建築専門学校入学の準備を始め、21才の時バルセロナの県立建築専門学校に入学しました。建築を学び始める一方で生活費を稼がねばならず、いろいろな建築現場でアルバイトをしながらの学生生活でした。

でも、このアルバイトによって建築現場を知る貴重な経験を積み、そして何より生涯のパートナーとなったロレンソ・マタマラと出会うことができた。彼は鋳物作家で彫刻家、終生ガウディを支える存在となります。

一方でアルバイトに明け暮れた結果、学校の出席率が低く、学校の成績はとても悪かった。ただ、ルールに則った勉学の成績は悪かったが、建築家としての素養は教授や同僚から非常に高く評価されていたのでした。例えばガウディの描く図面は余計な人物や場面が描かれたりしたため建築図面としては減点され成績は悪かったのだけど、その図面の表現力は誰もが認めるほどズバ抜けていたと言います。

このころ図書館にも入り浸り、ギリシアやローマ建築、カタルーニャゴシック、ムデハル等の様々な知識を蓄える。中でもアテネパルテノン神殿にはこれ以来一生、畏敬の念を持ち続けることとなったのでした。

 

建築家誕生

1878年3月15日、建築家アントニ・ガウディ誕生。26歳でした。

成績不振と病弱のため通算3年間の留年をした末の卒業。

卒業制作には"大学講堂"を設計、その天井にパルテノン神殿に英雄が入場する場面を描いたものでした。建築学校の卒業式(=建築家タイトルの認定式)で、当時の校長が行なった卒業生へのスピーチでこんなくだりがあります。

 

"今日卒業した者の中に類い稀にみる才能を持つ者がいる。

しかし、それが天才なのかキチガイなのかはまだ判らない"

 

このころのバルセロナは繊維業を中心とした産業革命が成功し空前の好景気に沸いていた。芸術に対してもカタルーニャルネッサンスと呼ばれるカタルーニャの芸術を復興させる運動が盛んで、繊維業で得た富が芸術に注ぎ込まれるという当時のバルセロナの状況は、かつてのギリシアアテネ、イタリアのフィレンツェのような状態にあった。

ガウディが建築家になった時代というのは、セルダ都市計画に従い現在の新市街の整備が始まろうとしていた時期であり、活躍の舞台が整い始めていた。

 

カタルーニャ主義

もともとギリシア・ローマに起源を持ち、1000年頃から国家として独立していたカタルーニャ。ガウディが生きた19世紀にはスペインの支配下にあり、自治権は奪われ、母語であるカタルーニャ語は禁止されるといった政治的劣性の時代が続いていた。一方で産業革命の成功に沸き、経済的には「カタルーニャの黄金時代」と呼ばれたほどスペインに対しても優位にあり、その経済力で多くのパトロンが誕生し芸術・建築にたくさんのお金が注ぎ込まれ、たくさんの優れた作品が誕生した様子は、紀元前5世紀のアテネルネサンス期のフィレンツェと同じ。この潮流は「カタルーニャルネサンス」と呼ばれたのでした。スペインに支配されながらもカタルーニャ人は誇りに満ちていた。カタルーニャの人々は独特な感性・気質によって中世ヨーロッパの混沌の中で生き残り、強い愛国心が醸成されてきました。

カタルーニャ主義」とは支配者スペインに対してこれら歴史や芸術等あらゆる分野でのカタルーニャの優位性を説き、カタルーニャの自由と独立を目指す考え方。今現在もカタルーニャ地方はスペイン国内にあり、カタルーニャ主義による独立運動が絶えません。そしてカタルーニャ主義は宗教を、カトリックの権力や教義を「古く不必要な物」としていて激しく宗教批判も行い、時には教会などの破壊活動に及ぶほどでした。

ガウディはカタルーニャを愛する生粋のカタルーニャ主義者でした。

ガウディはこのような時代に、建築家としてカタルーニャルネッサンスの中からカタルーニャゴシック様式を吸収し、建築としてのカタルーニャ主義を強く表現した。

一方でガウディは激しく宗教批判も行なっていて、これは後にサグラダファミリア聖堂を任された時、大きな悩みとなることになります。

 

ワーグナー

ガウディはリヒャルト・ワーグナーの芸術論に深く共感していました。ワーグナーの作品はそれまでの伝統的オペラとは区別され、"楽劇"と呼ばれます。

ワーグナー

「18世紀までのオペラは音楽が目的であったため、詩や劇が犠牲にされていた。

 楽劇は音楽、詩、劇、舞台背景まで融合する物である」

と主張し、これを"総合芸術"と名付けました。

 

ガウディは学生のころギリシア建築やカタルーニャゴシック建築などから感じられたリズムやメロディーを、ワーグナーの提唱する総合芸術と建築を結びつけるようになった。ガウディは建築を人の住む"器"ではなく、音楽や文学、絵画や彫刻など個々の芸術が互いに高めあってできる「総合芸術」ととらえるようになり、生涯この総合芸術を追求していくことになるのでした。

 

 

ゲーテ

ガウディは母、兄姉を学生時代に亡くし、人の生命をもてあそぶ"神"が信じられず、その死の答えを哲学に求めようとした。その時手にしたのがゲーテの"自然論"だった。ガウディはこの中から、死に対する答え、目指すべき建築の姿といった、これらの指針を見いだした。

ガウディは最期のその日まで、ゲーテが記した自然論の下の一節を愛読したと言います。

  自然は神性の内的生命を象徴的に暗示するもの。
  人間には芸術的道徳的理想を実現すべき使命が与えられている。
  その使命が個人や社会に役立つためには、愛をもってなさなければならない。
  生命体の曲線は、最も合理的で美しく、自然に直線は存在しない。
  自然の色彩こそ生命である。

 

 

グエルとの出会い

1878年に開かれたパリ万博。このときバルセロナの革手袋商から出展する革手袋のショーケースのデザインを依頼された。このショーケースに魅了されたのがバルセロナの実業家エウセビオ・グエルだった。

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ショーケースのデザイン

グエルは繊維工業で成功を収めた実業家で、芸術には特に関心を寄せていた。以来、そのショーケースのデザイナーがガウディであることを突き止めると、この新進建築家にいくつかのチャンスを与え、その才能が確かであることを確信したのでした。そして自邸の設計や、後にはバルセロナのモニュメントともなるグエル公園の設計を任せることになる。

グエルとガウディは施主と建築家であるだけでなく、芸術論をぶつけ合う良き友として一生のつきあいをしていった。

グエルにとってガウディは最高の建築家でした。

ガウディにとってグエルは最高の施主であり、ガウディ作品の最高の理解者でした。

 

ガウディの建築が目指した物

ガウディの目指した建築はワーグナーの唱えた"総合芸術"でした。そしてそのリズム、音楽性を建築に表現する。創造する源となったのはカタルーニャ主義であり、ゲーテの自然論でした。

また、それらを現実とするためにガウディはグエルという最高の理解者であり、施主を得た。グエルとガウディは生涯、総合芸術としての建築空間を追求し続けた。そしてそれはサグラダファミリアへと受け継がれていきました。

 

モデルニスモ

1890~1910年の期間、カタルーニャ全土を飾ることになった、建築、絵画、彫刻、家具にまで及ぶ芸術運動がモデルニスモです。フランスでは"アール・ヌーボー"として同じような運動が起きていました。フランスの"アール・ヌーボー"とカタルーニャの"モデルニスモ"の決定的な違いは前者は純粋な芸術運動であったのに対し、後者はカタルーニャ主義という思想を含んでいるところにありました。

バルセロナはセルダ都市計画に従い新市街ができつつある時期で、ガウディと同世代の建築家たちは多くのモデルニスモ建築で新市街を飾ることになったのでした。

 

ガウディと恋

ガウディは生涯独身を通した。通さざるを得なかったと言うのが本当のところかもしれない。
ガウディは3度女性の虜になった。しかし3度とも別れに終わる。1度目は相手に婚約者がいた。2度目は神に仕える尼僧となることを決めた人。3度目は建築に興味を持った、これまた婚約者持ち。もともと不器用で、恋愛は苦手なガウディは結局自分をうまく表現できずに一生独身を通す。
3度目に恋した女性とシッチェスの海で約束したことがあった。

"地中海を表現した建築を作る"

それが"カサ・ミラ"となりました。この恋愛敗れた後、ガウディは生涯独身を通し、建築家として生涯を神に捧げることを誓ったのでした。後にガウディは弟子達にこう語っていました。
"私が結婚することは天命ではなかった"

 

信仰

ガウディはもともとカトリック信者ではなかった。むしろカタルーニャ主義のもと、宗教批判を繰り広げていた。そのガウディが信仰に目覚めたのはサグラダ・ファミリアの設計に悩んだときだった。

ガウディは兼ねてからカタルーニャ主義との狭間で悩んでいた

"建築は施主を理解したうえで、施主を越えた物でなければならない。サグラダ・ファミリアの施主は神である。神を信じていない自分に神の家が建てられようか??"

 

ガウディは友人の薦めである教会に神父を訪ねた。すると神父はガウディを諭すでもなく聖書とキリスト教暦を渡し、キリスト教暦をめくって見せた。

"教会を建てるにはキリスト教の教会儀式を知らねば"

という神父の無言のメッセージだったと言います。

それからというものガウディは聖書とキリスト教暦を常に持ち歩くようになり、徐々にではあるが神を信じるようになっていった。

1842年2月の復活祭、ガウディはこれまで神を批判し続けてきた自分を懺悔し、神の道へ転身するために40日間の断食をする事に決めた。ガウディ42才の冬だった。2週間の断食の後ガウディは生死の境をさまよったあげく、親交の深いトーラス神父に現世での使命"サグラダファミリア建立"を諭されようやく一命を取りとめる。

その日からというもの敬虔な信者として、毎日教会のミサに出かけ、質素倹約を生活の旨として、聖堂建設に生涯のすべてを捧げることになる。

 

ガウディとカタルーニャ語

ガウディは敬虔な信者となってもカタルーニャ主義は最期まで貫いた。

1924年のある日、散歩を楽しむガウディを一人の警官が呼び止めた。ガウディの薄汚い身なりと曲がった腰、リューマチで引きずる足を見て浮浪者と勘違いしたのだった。警官のカスティリア語に対しガウディはカタルーニャ語で返した。当時、中央マドリッドが政治の中心で、カタルーニャ語の使用は禁止されていた。

"カスティリア語を話さなければ投獄する"と言う警官にガウディはがんとしてカタルーニャ語で答え続けた。そのうちこの浮浪者がバルセロナの英雄アントニ・ガウディであることを知ると、この警官は今回は見逃すことを告げる。ところがガウディは"いいや、投獄してもらおう"と最後までカタルーニャ語を話し続けた。結局このときガウディは弟子達が連れ戻しに来るまで4時間ほど投獄されたのでした。

 

サグラダファミリアにスペイン国王アルフォンソ13世が訪問したときもガウディは臆することなくカタルーニャ語で聖堂の説明をしたという。

 

最期の言葉

ガウディはここ30年来の日課である夕方のミサに出かけようとしていた。

"明日はもっと良いのものをつくろう・・"

生前最後に、弟子と交わした言葉。

このあとガウディは路面電車に跳ねられその生涯を終える。

6月10日午後5時、73才と11ヶ月、

"生とは戦いである。戦うためには徳という力が必要である"

と語ったガウディの生涯は閉じられました。

 

葬儀

1926年6月12日ガウディの葬儀が行われました。

これは「一人の偉大な建築家の最期」というだけでなく、衰退が始まったカタルーニャの輝かしい時代の終焉も同時に意味していました。

ガウディの遺言では"葬儀は質素に"と記されていたため葬儀は公式にされませんでした。

しかしどこからともなく葬儀を聞きつけたバルセロナ市民があふれ、病院からサグラダファミリアまでの沿道を埋め尽くした葬列の長さは1.5kmにも及んだと言います。

サグラダファミリアの地下に眠るガウディの銘文はラテン語で以下のように記されました。

 

レウスの人、アントニ・ガウディコルネット、享年74才

模範的生涯を送りし人
驚くべき作品を残せし芸術家にして、本聖堂の建築家

1926年6月10日、バルセロナにて敬虔に死す
かくも秀でたる人の遺骸、ここに死者の復活を待つ
安らかに眠り賜え

 

 

ガウディの伝言 (光文社新書)

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アントニ・ガウディとはだれか

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ガウディの生涯―バルセロナに響く音 (朝日文庫)

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