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エジプト 〜ルクソール 生ける者の街(ナイル東岸)

現代ルクソールと呼ばれるこの街は古代エジプト語でワセト、古代ギリシア語でテーバイと呼ばれ、考古学上英語読みでテーベと呼ばれます。なんか複雑ですが、ここでは考古学また、敬愛するインディ・ジョーンズ博士に倣い、テーベと記述することにします。

 

古代エジプトは紀元前2040年から始まる第11王朝、中王国時代辺りから遷都を繰り返し、ここテーベも首都になったり、首都が出て行ったりを何度か繰り返しました。

そして紀元前1580年から始まる新王国時代にテーベは首都として最盛期を迎えます。

この時代には領土拡張や多くの建築が残され、またオベリスクのようなモニュメント、王や個人の豪華な墓がたくさん作られるというエジプトという国そのものが華やかに栄えた時代でもありました。そしてハトシェプスト女王、トトメス、ラムセス、そしてツタンカーメンといったスター?ファラオ達が生きた時代、場所がここテーベです。約700年の間、テーベの街は栄えたと言います。

 

テーベはナイルを挟んで、西岸を死者の街、東岸を生者の街と呼びました。日の沈む方向の死者の街は歴代ファラオの墓が集まる王家の谷やハトシェプスト女王の葬祭殿があり、日の昇る東岸、生者の街にはアメン大神殿を中心に神殿群が建てられました。

今回はテーベの生ける者の街を。

 

ルクソール神殿

初めてテーベを訪れて、まず目に飛び込んできたのはナイルのほとりには佇むルクソール神殿でした。

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テーベの神殿は長く時代を経て増改築が続けられました。ルクソール神殿も紀元前1300年代にファラオ・アメンホテプ3世によってアメン神殿が置かれてから、1000年もの間、増築され続けました。なので、つぎはぎ的な構成になっていて微妙に統一性がなく、建築としての洗練とか美しさはあまり感じられません。その代わり、とても壮大かつ威圧的で、エジプトのファラオの力というか、ファラオの自己顕示欲の強さのようなものを4500年の時を超えてひしひしと感じとることができます。

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 ファサードオベリスク

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 ルクソール神殿の正面ファサードにはラムセス2世の像が対に配置され、その横にはオベリスクも対に配置されていました。エジプト人は左右対象の構成を好んだため、ラムセス2世像も、オベリスクも2体ずつ対で配置されていたのです。ところが今ではオベリスクは1本だけ残っています。これは19世紀にフランスがオベリスクを欲しがり、交渉の結果、エジプトから許可を得て持ち出した、とか。決してエジプトは快く譲ったわけではないだろうに、現在の姿、一本だけ残るオベリスクからは違和感と寂しさが漂います。

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エジプトから持ち出されたオベリスクは、パリのコンコルド広場におかれ、「クレオパトラの針」と呼ばれ親しまれている。かく言う僕もパリに行けば、コンコルド広場のあの風景はとても好きなのだけど、ルクソール神殿のこの姿を思うと、何ともいたたまれない気持ちになるのです。

 

ラムセス2世の中庭

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ここは「ラムセス2世の中庭」と呼ばれる空間。神殿を貫く通路入り口の両脇にはラムセス2世の対の像と、庭を囲むエジプトの円柱とたくさんのラムセス2世の像が立ち並ぶ不思議な空間です。

 

ルクソールからカルナックへ

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ルクソール神殿はテーベ一帯で構成されるアメン大神殿の附属神殿として建てられました。正面の参道には頭は人、体はライオンのスフィンクスが並び、かつてこの参道は2.5km先のカルナック神殿アメン大神殿まで続いていました。

 

 

 

カルナック神殿

カルナック神殿の参道に並ぶのは羊の頭を持ったスフィンクスです。

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カルナック神殿は紀元前1900年代に最初の神殿が置かれてから約2500年にわたって拡張、改築が続いていたといいます。アメン神というテーベ土着の神様が、やがてエジプトの神アメン・ラーとなり新王国時代に国の繁栄とともにカルナック神殿アメン大神殿として成長、拡大していき、神殿としての規模は世界最大といいます。

 

大列柱室

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中を歩いてしばらく、大列柱室という空間が現れます。

134本もの巨大な円柱が16列に連なっています。中央の円柱は直径3.6m, 高さ21mというから巨大です。「天地創造の大地に浮かんだ葦の湿原」が表現されていて、この巨大な円柱は葦(パピルス)なのだとか。

 

上部には格子状の採光窓があり、僕的には5000年前にこの窓が存在したということが結構な衝撃でした。

実はこの神殿の名前「カルナック」はアラビア語「窓」の意味で、この格子窓がこの神殿の名前の由来となっています。

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トトメス1世のオベリスク

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聖池から眺めるカルナック神殿

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 第18王朝トトメス3世が奉献したと言われている聖池。トトメス3世は塔門と祝祭殿も造成しています。無骨な神殿建築を抜けて、水を讃える池はカルナック神殿の中でとても安らげる空間でした。それまで、これでもか、これでもかと壮大なファラオの力をみせられて圧倒されたその後に、一息つける、そんな場所。トトメス3世も同じ気持ちでここを作ったのではないか?と思わずにいられません。先輩ファラオ達に、そんなにガツガツアピールしないで、ちょっとひと休みさせてあげましょうよ、と。

 

 

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 ルクソール神殿カルナック神殿も数千年の長い時間をかけて拡張されて、よく言えば多様性があり、悪く言えば統一性に欠ける、壮大なつぎはぎ。ここはトトメス1世、ここはトトメス3世、こっちはハトシェプスト、そしてラムセス2世はこちら、という感じでかなり体力を消耗する。構造的な壮大さに加え、壁画、ヒエログリフレリーフの洪水。。考古学的にとても貴重なもので、歴史の重さとファラオの偉業を知るにはうってつけだけど、僕にはちょっと重たすぎる場所だったかな。

 

壮大に拡張を続けたカルナック神殿も、ギリシア人によるプトレマイオス朝が起き、その後ローマの支配下になりゆっくりと衰退期に入り、ローマ人がキリスト教を国教としたころ、異教の神殿は放棄され、カルナック神殿も廃墟となっていった。やがて建物は崩れ砂に埋れ歴史の彼方に埋れてしまったのでした。

どんなに栄えた文明、都市であってもいつか衰退する。カルナック神殿を訪れると「栄枯盛衰」という言葉がとても身に染みるのです。

 

 

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