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旅行の記憶と何気ない日常を

エジプト 〜ルクソール 死者の街(ナイル西岸)

テーベのナイル西岸、神殿が建つ東岸とは対照的に、日の沈む方角である西側は死にまつわる施設が集められた死者の街と呼ばれます。

 

王家の谷

乾いた岩山に挟まれた寂しげなこの谷が王家の谷と呼ばれるのは、ここにたくさんのファラオ達の墓があるからです。

ここに墓を作った最初のファラオはトトメス1世(第18王朝3代目)で紀元前1518年に没しています(トトメス1世の子は後で紹介するハトシェプスト女王)。それまでもすでにファラオ達の王墓は盗掘の被害に遭い続けていたため、トトメス1世は盗掘者達から自分の墓を隠すための場所として、この谷を選び、その奥に岩窟墓を作ったといいます。それから新王国時代のファラオ達のほとんどがこの谷に墓を作ることになったのでした。なので、この谷のあちこちに60あまりの墓が隠れているのです。

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ここはラムセス2世の王子、第19王朝4代目のファラオ、メレンプタハの王墓の入り口。

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こちらはトトメス3世の王墓の入り口。王墓の入り口にはこういうおじさんがいて、料金を徴収している(今でもそうらしい)。さらに当時も今も、中で写真を撮りたい場合、写真撮影料が別料金で設定されていて、このおじさんは入場料と撮影料の両方を取り仕切っている。

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新王国時代のファラオ達は自分が王になった瞬間から墓づくりを始めたそうです。

ファラオ達は治世中、どんどん岩を掘り進めて長い通路を作り、いくつもの部屋をつなげていきました。治世が長ければ長いほど長く深く、広くなるわけです。

(ファラオが変わっても、また墓造りは絶えず続くので、墓造り職人という職業が存在して、王家の谷のそばには墓造り職人の集合住宅もあったといいます。この話は別の機会に)

 

なのでエジプトにいると最も名前を耳にして、姿を見かけることの多いラムセス2世(第19王朝) は、在位が紀元前1290-紀元前1224年と、実に66年もの治世の間に墓はとても深く奥行き約100mほどの広大なものになりました(しかしラムセス2世の墓は長年の盗掘被害により、激しく痛み当時非公開)。

一方あのツタンカーメン(第18王朝)は在位が紀元前1333-紀元前1324と9年ほどのため、墓は奥行き約20mほどの小さなものにとどまっています。

墓の規模は副葬品の量に比例し、この副葬品を狙った盗掘者が古代から絶えなかったといいます。

そこで盗掘者から墓を隠すためにトトメス1世がこの地に隠れるように王墓を築いた後、この地に王墓を築いた歴代ファラオ達は自分の墓が、どこにあるか、どこが入口か分からないように色々工夫したのでした。

トトメス3世の墓はこの切り立った谷の上の奥の方に隠されていました。それでも盗掘者には見つかってしまいます。

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王家の谷にはたくさんのファラオの墓があるのですが、どれもこれも見事に盗掘にあい、ほとんどの副葬品が盗まれ、荒らされてしまった。 

そんな中でツタンカーメンの墓だけは1922年にハワード・カーターによって発掘されるまで、ほとんど無傷の状態で見つけられました。

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ツタンカーメン王墓の入り口

ツタンカーメンの墓は、100年後の後世に作られたラムセス6世の墓の入り口が重なるような位置関係にあり、盗掘者達に気づかれずに済んだ。正確には、実はツタンカーメンの墓も何者かによって2度の侵入の痕跡があり、数点の副葬品が持ち去られた形跡があったといいます。それでもたったそれだけで済んだのは、奇跡でした。

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そして治世9年と短かく、19歳少年王であったにもかかわらず、ツタンカーメンの小さな墓に納められた副葬品の質と量はとてつもない。それまで盗掘にあった墓を見てきて、壁画も荒らされて往時の姿はかり知れずといった状態が多い王家の谷で、その内部はまるで昨日作られたように綺麗で素晴らしかった。

この姿を見るとラムセス2世の墓はいったいどんなだったのか。荒廃進んでしまった今からはもう想像すらできないほどの内装と副葬品だったのでしょう。

それを思うと、とても残念なのと同時に、古代から盗掘者が執拗にファラオの墓を暴こうとしてきたモチベーションもわかる気もしてくるのです。ファラオの呪いなど物ともしない盗掘者達のたくましい姿が目に浮かびます。そこで思うのは、お宝目当てに墓を荒らす盗掘も、「文化遺産を保護する」と称してその場から破壊同然で剥がして持ち帰ることも、「それいいオベリスクですね」と言って強引に譲り受けることも、どれもあまり変わらない気がするのです。

 

ファラオは墓を隠し、自分をミイラにして、星の数ほどの服装品とともに葬らせた。これは誰のためでもない自分の来世のためだけに。

生前は絶大な権力をもったファラオ達も死後は盗掘者さえ、逆らえないというのは皮肉なものです。

 

ハトシェプスト女王の葬祭殿

王家の谷から小高い山を挟んだ向こう側にこのハトシェプスト女王の葬祭殿があります。

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ハトシェプスト女王はエジプト史上最初の女王となった人物。トトメス1世の娘であり、トトメス2世の妻であったハトシェプストは、夫トトメス2世の早逝後、まだ幼い後継者、トトメス3世の執政として実質権力を握った。紀元前1479年頃から紀元前1458年頃の間女王として在位、エジプト最初の女性ファラオとなった。初の女性ファラオとしての武勇伝や旧約聖書に記された重要人物であるという伝説的な話など、一人の人物としても興味は尽きないのですが、僕自身はこの「ハトシェプスト葬祭殿」という建物を建てた人として脳味噌に刻み込まれている。

 

ハトシェプストが即位してから、側近で建築家のセンムトという人物にこの葬祭殿を建てさせました。紀元前15世期に、こんな建物が存在していたとは、これを作らせたハトシェプストに感嘆、ハトシェプスト葬祭殿を目の前にして僕はボー然としたのでした。

後ろの岩壁、岩山とも見事に調和して、整然と一定のリズムで並ぶ格子状の列柱を持ったファサードが3層に重なって、この時代唯一と思えるようなフォルムに僕は完全に参ってしまいました。なかに入り一番上まで行ってみたのですが、この建物はこのくらいの距離から背景を含めて眺めるのが一番良い。

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古代ギリシア人はおそらくここを訪れてたくさんの刺激を受けたことでしょう。そして彼らの神殿建築へのインスピレーションを受けて帰ったことでしょう。

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僕はここでたくさんの刺激を受けた。3500年まえにこんな物を建てる人がいたとは!

この時の感情は今でもはっきりと覚えている。

 

テーベはエジプト人の死生観をそのまま街にしたような場所でした。ファラオはファラオになったと同時に墓を掘り始め、まず自分の死を意識する。エジプトの神々に基づいて安らかな死後と輝ける来世を意識しながら、死ぬまで墓を掘り続ける。

その一方で、墓場職人が給料に不満を漏らしながら仕事としてファラオの墓をコツコツ作り、そのまた別のところでは宗教や神様なんぞ、何する物ぞと盗掘者が暗躍する。

 

神聖なエジプトの神の世界とそんなこととは無関係な一介の市民の心意気みたいな物を感じることができたような気がします。今も昔も場所によらず、いろんな人が精一杯生きたんだなと。

 

 

P.S.

僕がテーベへ行ったのが1993年。この4年後にこのハトシェプスト葬祭殿で銃乱射による無差別殺人テロ事件が起きました。この時、日本人含むたくさんの観光客が犠牲になった。ハトシェプスト葬祭殿の僕が立っていたあの場所でおきた凄惨な出来事を、忘れないように生きよう。犠牲者の方々のご冥福を心より祈りながら。

 

 

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