エジプト王朝の最後の王、クレオパトラ(7世)。
「世界3大美女のひとり」「絶世の美女」と称されるこの人物は、実際どんな女性だったのだろう?
クレオパトラが生きた当時は、エジプトは地中海に面したアレクサンドリアを首都としていました。アレクサンドロス大王によってエジプト王家はギリシアの血筋となり、首都もアレクサンドロス大王が自らの名前を冠した街アレクサンドリアに移り、プトレマイオス王朝が始まります。それから200年ほどが経った紀元前69年クレオパトラはプトレマイオス王家に生まれます。兄弟姉妹との王家の権力闘争を経て、22歳の時にエジプトの女王となりました。その波乱に満ちた生涯で、クレオパトラはローマを味方につけることで権力闘争に勝ち、ローマを味方につけたことで自らの命とプトレマイオス王朝を終わらせることになるのでした。
紀元前30年毒蛇によって(諸説あり)自ら命を断った時は39歳。短くも鋭い輝き放った一生はとても興味を引かれます。
下の写真はローマの銀貨に彫られたクレオパトラ晩年の横顔。クレオパトラが生きていた当時に発行されたものです。
「絶世の美女」とか「もしクレオパトラの鼻があと少し低かったら歴史が変わっていた」とかクレオパトラを話題にすると必ず出てくるフレーズ。でも、これらはクレオパトラを巡って起きた出来事から、クレオパトラを見ることができない人々や後世の人々が勝手に作り上げたクレオパトラ像。
このコインに刻まれるクレオパトラは「絶世の美女」のオーラは感じられず、「あと鼻が少し低かったら・・」とは無縁に思えます。
ギリシア人歴史家プルタルコス(プルタルコス自身はクレオパトラが死んでから150年後の人)は「彼女の美貌そのものはけっして比類なきものではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と「絶世の美女」についての否定論を記している。
容姿は「絶世の美女ではなかった」と言うのが史実のようですが、そうだとすると、なぜクレオパトラがここまで歴史上「世界3大美女のひとり」「絶世の美女」に名を残す女性となったのかが知りたくなります。
理由その1
クレオパトラは利発的で野心と機智に富んだとても聡明な女性だったと言います。
幾つもの言語を操り、天文学、数学、哲学などの学問に通じ、弁論術にも優れたとても頭の切れる女性だった。その上明るく才気あふれ、相手や状況に応じた立ち居振る舞い、今で言うコミュニケーション能力がずば抜けていて、どんな階層の人も明るく迎え、楽しませ飽きさせることがない、そういう人物だったようです。
人は容姿以上に、その人の雰囲気が相手に与える印象は大きい。容姿としては決して「絶世の美女」ではなかったかもしれないけれど、人間としての魅力は「絶世の人物」だったのでしょう。
理由その2
現在でも有名なローマの二人の将軍との関係。
一人はユリウス・カエサル。カエサルとは愛人関係にあり男の子を設けている。
もう一人はマルクス・アントニウス。アントニウスとは結婚。しかしこれが仇となりクレオパトラもアントニウスも死に、エジプト王朝も途絶えることになる。
21歳のクレオパトラが弟王との権力闘争をしていた頃、ローマはカエサルとポンペイウスによる内戦の終盤を迎えます。ポンペイウス派の後ろ盾を得て勢いづいていたいた弟王プトレマイオス13世に、クレオパトラは一時アレクサンドリアを追放されてしまいます。しかし内戦の勝利が確実となったカエサルの協力を得ることに成功したクレオパトラは一気に形成を逆転し、女王の座を得ることになる。
カエサルに初めて会った時のエピソードが、クレオパトラがカーペット(寝具袋など諸説あり)にくるまれてカエサル部屋に運ばれ、現れたという有名な話。一世一代の賭けに出たクレオパトラの度胸とユーモアを同時に見ることができる出来事です。
クレオパトラはカエサルの公然の愛人なり、カエサルとの間に男の子カエサリオンを儲けます。カエサルのローマ帰還の際には共にローマに行き、ローマ滞在中には、クレオパトラのエキゾチックな風貌やエジプトのファッションが話題となり、ローマで「エジプト風」が大流行したりもしました。しかし、そのローマ滞在中にカエサルが暗殺されてしまいます。
カエサルの死によってローマは再び内乱状態となります。この時の中心人物はカエサルの姪の子オクタヴィアヌスとカエサルの後継者を自負していたアントニウス。カエサル暗殺後の混乱を収めためたのは将軍としての力は確かなアントニウスでした。
しかしアントニウスは軍人であって政治家の才能はなかった。カエサルは遺言でオクタヴィアヌスを指名していたためアントニウスとオクタヴィアヌスのローマの覇権争いに発展。この機にクレオパトラはアントニウスにせまり、アントニウスはクレオパトラの魅力の虜となります。アントニウスは完全にクレオパトラの虜になってしまった。もともと政治の才はなかったアントニウスはクレオパトラと婚姻関係を結び、ローマをクレオパトラに捧げることを公言していたほど。公私を切り分け、うつつを抜かしながらも冷静に対処したカエサルに対して、公私がごちゃごちゃになって完全にクレオパトラの虜となってしまったアントニウス。アントニウスはクレオパトラとの甘い日々を過ごすことが増え、その間にオクタヴィアヌスはカエサルの見込んだ通りに政治的にも軍事的にも着実に力をつけて行き、アントニウスを圧倒するまでになるのです。
アントニウスは結局、オクタヴィアヌスとの戦に敗れ、ローマの将軍がローマの国賊となり、追い込まれて自殺という形で最期を遂げる。
この時クレオパトラも自分の命運を悟り自死を選びます。高貴な死を得るために、亡骸が無残にはならない毒蛇による死を選んだといいます(諸説あり)。
クレオパトラの死によって、プトレマイオス朝は終わり、4000年に渡って続いたエジプト王朝がここで完結します。エジプトはファラオを神とした統治機能であったので、ローマとしても他の地域のようなローマ人の属州総督はおかず、ローマ皇帝を神として扱う「皇帝直轄領」としてローマ世界に組み入れたのでした。
カエサルとアントニウス、ローマの二人の将軍とのロマンスは後世の人たちに「絶世の美女」を想起させる格好の素材となったといえるでしょう。
クレオパトラは、まずその人物としての魅力に溢れていた。そしてローマのカエサルとアントニウスという二人の実力者との関係を築き、自身とエジプト王朝の延命を図ろうとするが、結果的にははかなく散った。
どうしてもカエサルとアントニウスとの色恋沙汰が取り上げられてしまうけど、カエサルがエジプト統治のパートナーとして認めたことは統治者としての力を持っていたことの証であるし、その「人となり」をもってしても歴史に名前を刻まれた女性となっていただろうと思います。
「世界三大美女のひとり」だということも、容姿ではなく「人間としての美しさ」ならば場所も時代も関係なくクレオパトラはその一人にふさわしいのでしょう。
一つの疑問
クレオパトラはとても聡明な女性だった。そのクレオパトラが、エジプトと自分自身を守るためとはいえ、なぜ無粋なアントニウスを頼ったのか?ということが疑問に残ります。塩野七生氏がローマ人の物語の中で、その答えを書いています「クレオパトラはわかっていてもオクタヴィアヌスは選べなかった。アントニウスに頼らざるを得なかったのだ」と。
とすると聡明なクレオパトラはカエサルが暗殺された時点で、その後の自分の運命も大体想像ついていたのだろうと思わずにはいられません。
P.S.
ところで、「もしクレオパトラの鼻があと少し低かったら歴史が変わっていた」というのは17世紀フランス人のパスカルによる評。パスカルといえば哲学者、数学者、物理学者、発明家として活躍し、「人間は考える葦である」という言葉や「パスカルの原理」「パスカルの定理」、「パスカルの三角形」と言った誰もが耳にしたことのあるような理論を残した立派な人。それだけにこのクレオパトラ評は勿体無い。
敗者が変えた世界史 上:ハンニバルからクレオパトラ、ジャンヌ・ダルク
- 作者:ジャン=クリストフ・ビュイッソン,エマニュエル・エシュト
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 2019/09/11
- メディア: 単行本