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パリ オペラ座とシャガール

f:id:fukarinka:20200519005853j:plain僕はシャガール(Marc Chagall)の絵は好きだし、オペラ座の天井画「夢の花束」もとても好きだけど、バロック的であり古典主義的なネオバロックと呼ばれるオペラ座の空間にシャガールの絵は基本的には合わないと思う。合わないのだけど、パリのオペラ座だから全然許せるし、実際のところネオバロックの空間にシャガールの天井画を持ったオペラ座劇場空間は素晴らしいと思う。あの空間には逆にオリジナル以外はシャガールの絵じゃないとダメだっただろうとも思っている。そんなわけで伝統的にはNGかもしれないけれど、総合的にはオペラ座にとってのあの天井画は物凄く価値のあるものだと思っている。

 

 それにしても、

パリのオペラ座には一見そぐわないシャガールの絵。オペラ座の様式とシャガールの絵は違うし、そもそもシャガールはロシア人。なぜシャガールオペラ座の天井画を描くことになったのだろう。

 

それを紐解くとアンドレ・マルロー(André Malraux)という当時の文化相を努めた人物が登場します。マルローは1945年からシャルル・ド・ゴール将軍(後の大統領)とともに行動した人物。いくつもの修羅場をド・ゴールとともに乗り越えてきたマルローが1960年からド・ゴール政権下で文化相を務めることになります。シャガールの「夢の花束」はここから動き出すのです。

1960年にペルー代表団を歓迎するオペラ座での公演、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の初演にド・ゴールとともにマルローも出席した時のこと。元々シャガールと親交があったというマルローでしたが、その時のシャガールがデザインした舞台衣装にいたく感動して、舞台の途中休憩時間中にもかかわらずシャガールのところに行き、新しい天井画の制作を依頼したのでした。

シャガール自身、このガルニエのオペラ座の自分の天井画を描くことに懐疑的でしたが、結果的にはマルローの熱意に絆されてスケッチを作成します。シャガールはそこに、今までオペラ座に命を吹き込んできた14人の偉大な音楽家たちへの敬意を表現しました。この天井画の誕生の瞬間で、ここから波乱の制作が始まります。

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ガルニエ宮殿の天井画がシャガール によって描き換えられる」1962年にこの計画が公になるとたくさんの非難の声が上がります。オペラ座の設計者ガルニエのもとに生まれたレネプブウ(Jules Lenepveu)作の元々の天井画を守れと、保守的な人々はじめ多くの反対運動が起こりました。ネオバロックのガルニエが作り上げた秩序を乱すようなこと、つまり現代主義の画家であるシャガールが、フランス人でもないシャガールガルニエ宮殿の天井画を描くなど許せん、と。

 

しかし、マルローとシャガールはこの状況に屈することなく、反対派から隠れながらあちこちのアトリエに散らばりながら制作を進めます。制作開始から8ヶ月後の1964年9月23日に「夢の花束」は完成し、公開されます。マルローにどれだけの勝算があったのかわからないけど、信念を貫き通したわけです。

天井画には原案のスケッチと同じくオペラ座に命を吹き込んだ14人の偉大な音楽家による、それぞれの歌劇の場面が描かれ、また同時にオペラ座はじめパリの街が描かれた。とてもシャガールらしい天井画でした。

しかし公開後もしばらくは多くの非難を受け続けることになります。

 

シャガールはこの天井画に音楽とオペラ座、そして設計者であるガルニエへの尊敬を込めました。そして同時にロシアからやってきた自分を迎え、変えてくれたパリへの感謝と愛情も込めていました。公開当初は批判が大きかったこの天井画が、今に至るまで大事に残されているのは、この絵そのものに批判的な人々すら、この絵を通じてマルローとシャガールの思いが伝わって、冷静に芸術的価値、パリにとっての価値を認識したということだと感じます。

 

実際にシャガールの天井画の意義は、作品そのものの価値もさることながら、オペラ座の劇場空間の革新と、さらにその後の新しいパリのあり方(パレロワイヤルの再興やグランルーブル計画などへの流れ)を決定づける強烈な布石となったと言えます。古い伝統と新しいものとの融合。これが新しい進化するパリの価値を高めてきた。

シャガールの天井画は、誕生から100年ほど経ったオペラ座に新しい風を吹きこんだ。それはパリ全体への新しい風となって、様々なところへ波及していったのです。

 

 

シャガールはこの絵に対して報酬は一切受け取らず。受け取ったのは材料費のみだったと言います。これは、おそらく齢78歳、人生の締め括りにお世話になったパリへの恩返しという気持ちも大きく占めていたのだろうと思う。あのネオバロックの空間にシャガールの絵という離れ技は78歳のシャガール にしかなし得なかったと思わずにはいられません。

 

最後に
レネプブウ(Jules Lenepveu)が描いた、オリジナルの天井画もちゃんと残されていて今でもオペラ座で見ることができるらしい。シャガールの天井画は薄いスクリーンの上に描かれていて、照明を切り替えると、透けて奥にあるレネプブウの天井画を見ることができる仕組みになっているのです。このことでもシャガールも思う存分絵筆を振るうことができたのだと思います。

いかに物質的にも心理的にも良い環境を整えてあげることが重要か、これは芸術家の仕事も、会社の仕事も、子育ても同じことだと痛感します。

 

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