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ルーブル美術館0 宮殿から美術館へ

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 1200年にパリ防衛上もっとも弱いところに築かれた砦がルーブルの建物の始まりです。最初の建物は現在のルーブルの東端クールカレと呼ばれる正方形の部分(シテ島側のポン・デ・ザールと繋がるところ)で、当時ラテン語で「ルブラ(Rubras)」と呼ばれていました。これをフランス語で言うと「ルーブル(Louvre)」となり、これが「ルーブル」の語源であると言われています(諸説あり)。

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14世紀になって、この場所の軍事上の重要性が薄れたことから、シャルル5世がこの砦を宮殿に建て替えます。そして16世紀にフランソワ1世が宮殿をルネサンス様式に改築し、現在のような姿になりました。

このフランソワ1世はイタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチを手厚く迎え入れ、最晩年の安住の場所を提供した人物。レオナルドの死を看取ったと言われる人物でもあります。そしてレオナルドの死後、かの「モナリザ」をレオナルドの弟子から購入して後のフランスの財産としたルーブルにとっての超重要人物です。

 

 

王宮がヴェルサイユへと移った1682年、この頃から徐々にフランスの芸術に関連するアカデミーが集まり始め、ルーブルはフランスの芸術の中心としての機能を果たし始める。1692年に絵画彫刻アカデミーがルーブルに移転すると、1699年から会員の作品展を定期的に開くようになり、このことを「ルーブル美術館のはじまり」とする見方もあるようです。

 

フランス革命を経て、王室や貴族所有の美術品を全てルーブルに集め、王政崩壊1周年の1793年「中央芸術博物館」が開館します。といっても色々整わないままの開館で結果的に一般公開されたのはわずか3日。その後建物の荒廃が進み閉館してしまいます。とはいえ、この1793年が公式のルーブル美術館のスタートと扱われています。

 

■最初のコレクション〜没収・略奪

当時のコレクションはフランス王家や貴族たちが集めたたくさんの美術品。以前からこれら美術品を集めて一般に公開しようとする動きはあったものの、遅々としてすすまず、フランス革命によって皮肉にも没収という形で市民主導でのルーブル開館が進むことになります。その後もナポレオンの遠征勝利による戦利品でコレクションは充実していきます。戦利品=略奪、王家貴族からの没収とその手法は褒められたものではないけれど、ルネサンス期の彫刻やジョット、ラファエロの絵画、そしてアテネパルテノン神殿のフリーズといった超一級品がルーブルに集まってきた。

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1799年美術館は再開され、上のような背景から1803年には「ナポレオン美術館」と改名されます。

 

■コレクションの返却と浄化

奪い取ってきたものを、もとの場所に返す。1814年ナポレオンの失脚によって各国から略奪品の返還を要求され、イタリアはじめ多くの作品がもとの所有国へ返還されることになりました。この時、イタリアへの数百点の返却の中、交渉によりベロネーゼの「カナの婚礼(現在モナリザの正面に展示)」はそのまま所有することを許されることとなった。

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以降、略奪・没収ではなく、正式な購入や寄付がルーブルのコレクションの原動力となります。この頃ジェリコーダヴィッドの作品の購入、ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯(連作)」が寄託されました。

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また1826年にロゼッタストーンからヒエログリフを解読したシャンポリオンがカイロの英国領事からエジプトの発掘品4000点を一括購入。ここからエジプト、ギリシア、ローマ、オリエントの部門が発展を始めることになります。

 

ルーブルの大変貌と新たなコレクション調達手法

1852年ナポレオン3世はパリ大改造事業の一部としてルーブルの大整備を行います。

ルーブル宮殿とチュイルリー宮殿を一体化、1857年に宮殿美術館として完成しました。

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このころフランス調査隊がエジプトのサッカラで墳墓を発見し、考古学的な貢献と同時に多くの出土品をコレクションに加えます。このなかには書記座像があります。

新たに自国の調査隊を派遣して、ルーブルのコレクションを発掘するという方法が加わりました。

 

また1863年サモトラケのニケ」を取得。ばらばらだったこの像は20年かけて修復され1883年から現在の場所、ダリュ階段におかれています。

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1871年パリコミューンの混乱でチュイルリー宮殿が焼け落ち、建物はそのままに10年間その存在の是非、修復か解体かを議論されたあと1882年にチュイルリー宮殿の解体が決まります。

この時点で建物としてはルーブルはほぼ現在の構成となったのでした。

 

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第1次世界大戦では戦勝国となったフランスも140万人もの犠牲を出し、その後第2次世界大戦ではフランスはナチス・ドイツとの戦いに敗れ、パリがナチス・ドイツに占領されます。ナチス・ドイツはかつてのナポレオンのように占領国から美術品を奪っていきました。ルーブルもその標的となるのですが、戦争勃発前に主要な作品をフランス各地に分散疎開することで、略奪から守ったのでした。

 

 

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 歴代王家所有の美術品を一般に公開するという考えは1600年代からありました。その時点で美術品が多くの人々のものであるという考えがフランス人の根底にあったのだと思います。

その後コレクションは一時期掠奪による強引な収集があったものの、購入を中心に名実ともに綺麗なコレクションが充実していくのです。

 

そんなルーブルの精神のルーツはおそらくフランソワ1世によるものではないかと。

レオナルドの価値を見出して自国に招待し、レオナルドの死後に「譲り受ける」でも「奪う」でもなく購入された「モナリザ」はルーブルの至宝として今まで500年、今後もずっとありつづけるでしょう。作品と美術館の健全な関係をフランソワ1世が指し示したように思います。

 

革命、戦争、波乱の歴史をたどりながら、2度の世界大戦で迎えた最大の危機もなんとか乗り越えたルーブルは、20世期末に再び大改革によって大きな変貌を遂げることになります。

「グラン・ルーブル計画」

この一大プロジェクトによって、ルーブルの21世期に向けた未来が示されることになるのでした。

 

 

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