ルーブルからシャンゼリゼの起点であるコンコルド広場までの間、とても綺麗な空間があります。今回はその、チュイルリー庭園と今は存在しない宮殿について。
チュイルリー宮殿(Palace des Tuileriers)
1563年、当時摂政として活躍したフランス王アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)が建設を命じたチュイルリー宮殿。
メディシスの名前からもわかるようにイタリアはフィレンツェのメディチ家からフランスへ嫁いできた人で、アンリ2世との間にたくさんの子を儲け、後の三人の王の母となった人物。
チュイルリー宮殿は王宮として100年をかけて建設され、1664年には庭園の整備が行われたのですが、王宮は1684年にはヴェルサイユに移ってしまいます。チュイルリー宮殿が王宮として機能したのはわずかな間だけで、さらには1871年にパリコミューンの混乱の最中に放火によって廃墟と化してしまいました。宮殿の再建の話は出るものの、革命後のフランスでは王政を象徴する負の遺産と捉えられ1883年には解体されてしまったのでした。
チュイルリー庭園(Jardin des Tuileriers)
宮殿は跡形もなく失われてしまいましたが、チュイルリー庭園は昔のままの姿を残しています。1664年に庭園を整備するにあたっては、ヴェルサイユの庭園を手掛けた、ル・ノートルが招聘され現在みられるような花壇と樹々と遊歩道、彫刻や泉水が整備されたのでした。
木々が整然と植えられ、ところどころに椅子やベンチが置かれています。
たくさんの彫像が置かれているのですが、神話の神々の像のなか、唯一?のローマ人の彫像がありました。「ユリウス・カエサル」です。
ナポレオンが戦勝記念として1806-1808年に建造させたカルーゼルの凱旋門はパリにある4つの凱旋門のうち三番目に完成しました。ナポレオンはパリを「新しいローマ」にしたいと考えていました。カルーゼルの凱旋門は、今でもローマで見ることのできる「コンスタンティヌス帝の凱旋門」をお手本にしています。
ルーブル側からカルーゼルの凱旋門を撮っていますが、観覧車の向こうにコンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼの向こうにエトワールの凱旋門が見えます。カルーゼルの凱旋門からエトワールの凱旋門、その向こうの新凱旋門ラ・デファンスまで一直線上にのっています。
チュイルリー庭園はパリの喧騒を完全に遮った、静かな空間をパリの人や観光客に提供してくれます。晴れた日ならたくさんのひとが、いろいろなところで各々好きなように過ごしています。
みんなどこからかベンチをもってきて、木陰だったり、噴水の周りだったり自由にゆったり過ごしてます。とてつもなく贅沢な場所です。
ナポレオンがカルーゼルの凱旋門の手本にした、ローマの「コンスタンティヌス帝の凱旋門」はコロッセオのすぐそばにあり、今でもローマに行けば見ることができます。
コンスタンティヌス帝の凱旋門が作られた4世紀初頭は、古代ローマの衰退がはっきりと見え始めた時代でした。コンスタンティヌス帝の即位10年と戦勝記念にローマ元老院と市民が捧げたものなのだけど、実はもともとあった別の凱旋門をリメイクした、彫刻装飾をつぎはぎしてハリボテのように作られたものだった。このあとコンスタンティヌス帝はローマを見かぎり、東ローマ帝国の皇帝としてコンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブル)に首都を置く。
建築としてのバランスはとても優れているけれど、コンスタンティヌスの凱旋門とはそういう凱旋門なのです。ナポレオンがそれを知っていたのかどうかわからないけれど、このことはその後のナポレオンの運命の悲哀を感じてしまいます。
ルーブルとコンコルド広場に挟まれたチュイルリー庭園はとても静かな、贅沢な空間でした。