cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

パリ ギマールの花

f:id:fukarinka:20201129203553j:plainエクトル・ギマール(Hector Guimard, 1867-1942)

フランスで最初にアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)建築を建て、パリで最も多くの人が目にするアール・ヌーヴォー作品を残した建築家です。

その「最も多くの人が目にする作品」がこのメトロの入り口。

当時アール・ヌーヴォーといえば古い伝統と格式から解き放たれた新しい芸術ではあるけれど、製作に手間暇かかる金持ちだけが愛でることのできる芸術といわれていました。そのアール・ヌーヴォーをパリ市民の身近に実現したのがエクトル・ギマールでした。

f:id:fukarinka:20201128214338j:plain

*モンマルトル近くのAbbesses駅。鉄とガラスの屋根が特徴的

 

ギマールのメトロ入り口は最盛期にはパリ中に166箇所あったのだけど、現在では半分くらいに減ってしまったそうです。

f:id:fukarinka:20201128214634j:plain

*シテ駅の入り口。赤い電灯とアーチが特徴。このタイプが一番よく見る。

 

アール・ヌーヴォーの特徴は植物や花、動物といった「自然の造形」で作品が構成されること。そのため直線はほとんど存在しません。メトロ入口の造形も植物の茎や花、昆虫?と思われる様なデザインになっている。不思議なのは、一見グロテスクにも見えるのだけど、何か普遍的で暖かい。

f:id:fukarinka:20201128214422j:plain 

 *パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーブル駅(Palais-Royal - Musée du Louvre)メトロの看板も電飾のタイプ。ルーブル宮殿(古典)とアール・ヌーヴォーコントラストがたまりません。

 

 

 

f:id:fukarinka:20201128214647j:plain

*柵のデザイン。昆虫とも植物とも貝殻ともとれる不思議な、でも暖かいデザイン。これは各駅でほぼ共通。

 

若き日のエクトル・ギマールは建築家を志し、建築学校へ入学するのですが、そこで学ぶのはひたすら伝統的な様式ばかり。昔からの決まったことににハマることを教えられるばかりで、嫌気がさしたギマールは結局窮屈になって中退してしまいます。

当時19世紀後半のパリは街の大改造の真っ最中。入り組んだ路地と古い建物を取り壊し、シャンゼリゼを代表する様な整然とした街並みに生まれ変わっていく、そんなギマール28歳の年に転機が訪れます。

当時依頼を受けて設計をしていた集合住宅「カステル・べランジェ」は暗礁に乗り上げてしまいました。ギマール自身ありふれた他となんら変わらない設計しかできないことに嫌気がさし、仕事を中断してベルギーへ旅行に行くのです。そして行った先のブリュッセルアール・ヌーヴォーの先駆者ヴィクトール・オルタに、世界最初のアール・ヌーヴォー建築タッセル邸に触れたギマールはとてつもなく大きな衝撃を受けたといいます。

帰国後、設計は大幅に見直されたカステル・べランジェはフランス初のアール・ヌーヴォー建築として1898年に誕生し、エクトル・ギマールはアール・ヌーヴォーの建築家として知られることとなります。

1900年パリ万博で「パリの街全体を芸術作品に」という計画が進行する中、カステル・べランジェの成功によってギマールは「メトロの入り口」を依頼されることになるのでした。

 

f:id:fukarinka:20201128214534j:plain

 

実はパリ万博開催半年前にこの依頼が舞い込んだため、ギマールには時間がなかった。

ギマールが出した答えは、アール・ヌーヴォーのデザインをモジュール化していろいろに組み合わせることでデザインのバリエーションを展開し、メトロ入り口毎の環境の違いにも対応するというものでした。鋳鉄製の柱や柵、飾りを個別のパーツに分けて量産、それらを自在に組み合わせるという手法は産業革命の大量生産とアール・ヌーヴォーの造形を融合することで初めて実現できた。こうしてメトロ入り口も無事パリ万博を迎えることができたのでした。

 

f:id:fukarinka:20201128214613j:plain

 

ギマールはパリ市民が日常的に目にするメトロの入り口の多くにアール・ヌーヴォーの花を添えました。ヨーロッパ世界が産業革命に沸き、大量生産で無機質な規格品が溢れるようになった世の中に、温もりのあるアール・ヌーヴォーの作品でパリを飾ったギマール。パリ市民にも好評で大きな成功を収めたのでした。

でもその反面、このメトロ入り口が大量生産可能なアール・ヌーヴォー作品であることが批判者からの標的となり、それ以前にギマール自身の中でもそのことは矛盾として存在し、ギマールを苦しめたと言います。

 

f:id:fukarinka:20201128214550j:plain

 *赤く淡く光るギマールの花

 

1914年に第一次世界大戦が勃発して以降、ギマールも建築活動は実質的に中止。大戦後にはアール・ヌーヴォーの様な装飾的なものは否定されるようになり、時代はアール・デコへと変化していく。皮肉にも「アール・ヌーヴォー」は新しい芸術ではなくなってしまった。

ギマールの仕事も激減し、時代遅れとなってしまったギマールの建物も多くが取り壊されていく。

1930年代後半、妻アデリンがユダヤ人家系だったことで、顕在化するナチスの脅威を避けるためアメリカに移住すると、ギマールは完全に忘れられた存在となってしまう。

そしてギマール自身もフランスに戻ることなく1942年にニューヨークで息を引き取るのことになるのでした。

f:id:fukarinka:20201128214707j:plain

 マロニエに囲まれ雨に打たれるギマールの花。ところどころに見えるリベットがモジュール化による

 

1960年代、ギマールの再評価がはじまります。シャルル・ド・ゴール大統領のもと文化相を勤めたアンドレ・マルローが「エクトル・ギマールのメトロ入り口」を国の歴史的建造物として保存することを決めます(マルローはシャガールによるオペラ座の天井画「夢の花束」を実現させた人物)。その後もアール・ヌーヴォーの美術・建築史上の功績は見直され、現代に受け継がれることとなるのでした。

 

 

アール・ヌーヴォーという芸術運動は名前を変えてヨーロッパ各地で起こりました。これは産業革命に湧く社会に同じ様なことを感じた芸術家・建築家が多くいた結果と思うのだけど、その新しい芸術はたいていその場所にしかなく、特定の人しか目にすることができなかった。

ギマールの功績は、一部の特定の人にしか目にすることができなかったアール・ヌーヴォーを、大勢の人が目にする場所にたくさん作って、アール・ヌーヴォーという新しい表現を世の中に広く知らしめ、多くの人々の感性を刺激したことにある。

そしてそれ自身は時代の変化にやがて廃れてしまうのだけど、

伝統的な古典主義と、産業革命と戦争によって生まれるアール・デコモダニズムの間に、「自然」を強烈にとりいれたアール・ヌーヴォーがあったからこそ、その後の芸術が魅力的に進化していけたのではないかと思うのです。

 

cmn.hatenablog.com