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旅行の記憶と何気ない日常を

ミラノ 街歩き

f:id:fukarinka:20210307143135j:plain「一体ミラノのような街を深く知ることができるのか?できるかもしれない。できないかもしれない。。。」
 僕がミラノで買った現地ガイドの冒頭に書かれた言葉です。

ミラノは幾度も支配者が変わりそのたびに街は作り替えられてきました。そのためその生い立ちを辿るのが難しい、というわけです(*詳しくは後ほど)。

実際、ミラノはイタリアの他の街と違って雑然としています。でもその所々に、それぞれの時代を象徴する名所旧跡が散りばめられているのです。

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■ドゥオモ広場 (P.za del Duomo)

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イタリアゴシックの最高傑作「(ミラノの)ドゥオモ」の広場、ミラノ一番の名所です。四角い広場で、上の写真ではドゥオモ(大聖堂)を正面に左手に凱旋門のようなガレリア、下の写真では右手に王宮といった歴史的芸術的な建物が並び、写真にない1辺だけ電飾ぴかぴかの看板に覆われた、好意的に表現すれば「現代的な建物」に囲まれています。構成する建物の様式がばらばらなため広場全体としては調和に欠け、お世辞にも「美しい広場」というわけではありません。でもその不完全さのおかげで重厚ながら肩肘はる必要のない心地良さがこの広場にはあるのです。

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 この角度ではドゥオモと王宮と比較的きれいな広場が見られる。ただ背中を振り向くと日本の新宿を思わせる電飾ぴかぴかの景色が拝めます。それもミラノの姿です。

 

■ドゥオモ(Duomo di Milano)

イタリアで街を代表する大聖堂のことをドゥオモ(Duomo)と呼びます。ミラノのドゥオモは聖母マリアを讃える教会で、14世紀から約500年かけて完成したミラノの象徴です。空に突き出す尖塔は135、ミラノの街を見下ろすように立つ彫像は1500体以上。イタリアゴシック様式として最大にして最高傑作と言わる聖堂です。

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詳細はこちらで
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■ヴィットリオ・エマヌエレ二世のガレリア  (Galleria V. Emanuele Ⅱ)

1865年から12年の歳月を費やして作られたガラス天井のアーケード。

ガレリアを創造した建築家J.メンゴーニはガレリアの除幕式の前日、ガレリアの足場から落ちて亡くなってしまった。ガレリア完成に対してのミラノ市民の熱狂を知る前に。

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鉄とガラスの天井、ネオ・バロック+ネオ・ルネッサンス様式の混ざり合った建物、モザイク画がアーケードを構成している。いろいろな様式が混在するミラノらしい建築。

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ドゥオモ広場からここを抜けるとオペラの殿堂「スカラ座広場」に出ます。ドゥオモとスカラ劇場を結ぶこのアーケードにはオペラ関係者、芸術家など文化人が昔も今も集まります。

 

スカラ座広場(Piazza della Scala

アーケードを抜けるとスカラ座広場に出ます。そこにはレオナルドとその弟子たちの像がたちます。レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館はじめ、ここミラノにはレオナルドの足跡が多く残ります。

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 ■スカラ座(Teatro Alla Scala )

イタリア国立歌劇場。1778年イタリア最高のオペラ劇場として建築家J.ピエルマリーニによって建てられました。オペラの殿堂としては2代目の建物で、初代テアトロ・ドゥカーレ(Teatro Ducale)は1776年に焼失、新しいオペラの殿堂として現在の場所に建設されました。

当時ミラノはオーストリア(ハプスブルク家)に支配されており、スカラ座の建設も当時の女帝マリアテレジアの許可が必要でした。スカラ座は完成当時から上流階級が一堂に集まる文化的空間として注目され、ヴェルディプッチーニなど多くの著名な作曲家の有名なオペラの初演の舞台となってきました。

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■ダンテ通り(Via Dante) 

ドゥオモ広場からスフォルツェスコ城へ向かう時に通る道。歩行者天国でショッピング天国。

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■スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)

ダンテ通りの果てにこのスフォルツェスコ城があります。戦乱と都市計画というミラノの破壊の歴史の中で、かろうじて守られた遺産です。

12世紀末に中世ミラノ公国の支配者、ビスコンティ家が小さな居城として建て、その後を継いだスフォルツァ家がルネッサンス様式の城塞として改築しました。現在はミラノ市歴史資料室、美術館、図書館として使われています。美術館にはミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ(未完)」があります。*詳細は後ほど

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■センピオネ公園(Parco Sempione)と平和のアーチ(Arc della Pace)

スフォルツェスコ城の裏手に広がる、もとスフォルツァ家の庭園。その向こうにあるのが平和のアーチ。

平和のアーチはもともとオーストリアからミラノを解放した、ナポレオンに対する敬意として1807年に「凱旋門」として建てられました。そして1859年イタリア独立の際にはV.エマヌエレ2世とフランス王ナポレオン3世がこの凱旋門をくぐり、それ以降「平和のアーチ」と呼ばれるようになりました。

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■サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (Santa Maria delle Grazie)

1466年スフォルツァ家の菩提寺として建てられた教会。世界遺産に登録されたこの教会の修道院の食堂にレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」があります。

*詳細は後ほど

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ミラノ中央駅 / Stazione Centrale

おそらくヨーロッパで1,2の規模を争う駅です。その大きさと駅の構内の華麗さには度肝を抜かれます。

でもそんな駅の華麗さとは対照的に駅前は無表情な近代的な建物が多く、雑然としたちょっと冷たい印象をうけるのです。中央駅周辺はミラノの街を象徴するような一角でした。

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■ミラノを思うに

古代ローマに起源を持つミラノの街は歴史的に、たくさんの支配者に入れ替わり支配され、そのたびに街は作り替えられてきた。現在に至るミラノの街の構成要素には、色々な時代、様式が入り乱れ、イタリアでありながら雑然とした印象を受ける理由はそこにあります。でも、そのおかげで常に最先端を意識する、世界的なファッションとイタリアを先導するビジネスの街として機能しているわけで、一部に古いものを残しながら新しくという部分については日本と重なる点がありますね。

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 そんな破壊と再構築の街の中、ミラノ市民が変わらずに守りつづけている貴重なもの。それをこれからたどっていきましょう。

 

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