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ミラノ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

f:id:fukarinka:20210424193042j:plainSanta Maria delle Grazie

ミラノ公に就任したガレアッツォ・スフォルツァスフォルツァ家の菩提所としてドメニコ派の修道院と教会の建設を命じます。当時ミラノで活躍していた建築家ソラーリに設計を託し、ゴシック様式の教会として1466年に建設が始まり、修道院は1469年に完成、1490年に教会が完成しました。以前この場所には「慈悲(グラツィエ)の聖母」の壁画のある礼拝堂があったことから、この教会は「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ」と呼ばれるようになるのです。

ルドヴィコ・イル・モーロがミラノ公になって、完成したばかりの教会は改築されます。ルドヴィコは君主になる前にフィレンツェ共和国を訪れ、ルネサンスの華やかさと質の高さに直接触れ、強い影響を受けます。「ミラノをフィレンツェ以上の街に」というルドヴィコの想いから、スフォルツァ家の菩提所はゴシックではなくルネサンス風でなければならなかったのでしょう。そこで、のちにヴァチカンのサン・ピエトロ寺院を手がける建築家ブラマンテを招聘し、改築工事は1492年(というから完成してわずか2年後)に始まりました。

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ブラマンテは、もともとのソラーリによる洗練されたゴシック様式を残しつつ、コンスタンティノープルアヤソフィア寺院に代表されるビザンチン様式を取り入れます。ブラマンテによってこの様式の融合はとても高い次元で行われた結果、この教会の価値は遥か高みに到達したのでした。

1497年、ルドヴィコの愛妻ベアトリーチェ・デステは亡くなります。ルドヴィコは無事自分の意思がこもった菩提所に妻の遺骸を葬ることができたのです。

 

ちなみに、この「改築を主導した建築家」については諸説あって、実はブラマンテではない、とも言われています。建築家はだれか、という疑問は残ってもこの教会の価値が変わることはありません。

 

もう一つ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの価値を決定づけたものがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチによる「最後の晩餐」です。

 

時を経て、第2次世界大戦下の1943年8月16日に連合軍の爆撃によりこの教会は壊滅状態となります。しかし、レオナルドが描いた「最後の晩餐」の壁だけは崩れずに残った。

修道士たちがこの絵を後世に残すために壁の前後に土嚢を積み上げ、爆撃から守ったのでした。

修道士たちが命懸けで守った人類最高峰の壁画。次は「最後の晩餐」を。

 

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