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ミラノとキリスト教

f:id:fukarinka:20210307143135j:plain僕は無信仰、というか八百万の神様と生きていると思っているので、宗教に対しては常にフラットな立場でいます。それはこれからも変わらないでしょう。そんな中でも僕にとってのキリスト教は、ルネサンスはじめたくさんの時期と地域で才能ある芸術家たちを刺激して、数えきれないほどの名画や彫刻、建築を作る礎となってくれたという意味でとても重要な存在なのです。ミラノはキリスト教にとって、ひいては僕にとってとても重要な役割を果たしてくれた。そんな歴史を少しだけ辿ってみます。

*波乱のはじまり

ミラノの波乱の歴史は紀元前222年にローマの植民都市となった時に決まったようなもの。当時まだイタリア半島に収まる程度の小国だったローマは地勢上の有効性からミラノ(当時はメディオラヌム)をガリア(フランス)はじめ大陸側への版図拡大の拠点とすることにしたのです。これによって大きく発展したミラノでしたが、このことは逆に後世にはフランス以北からの諸外国のイタリア侵攻の登龍門となることを意味しており、ローマ亡き後さまざまな民族や国々に侵略されてしまう事になってしまいます。

またローマ都市として発展したミラノはローマ帝国分裂後、西ローマ帝国の首都となります。ちょうどその頃キリスト教の運命も大きく動き始めた時期で、キリスト教にとってもミラノはとても重要な街となっていったのです。

 

*ミラノ勅令

313年、後に「大帝」と呼ばれるコンスタンティヌス帝は西の正帝として東の正帝リキニウスとミラノ(当時のメディオラヌム)で会見し、「いずれの宗派の信仰も認める」という内容を二人の皇帝の名の下に「勅令」として公布した。これが「ミラノ勅令」。

キリスト教ローマ帝国内で誕生して300年ほど経ったこのときも、キリスト教はまだまだ少数派の新興宗教にすぎず、また多神教国家のローマの中で自分たちの神様しか信じないキリスト教徒は当時の社会の中では異質であり疎まれる存在でした。なので何かと迫害を受ける立場にあったわけです。そんなキリスト教徒を弾圧迫害の危険を取り除き、自由な信仰を認めるとしたミラノ勅令はキリスト教にとってとても大きな出来事だったと言えます。

 

*自由の獲得

しかし、東のリキニウス帝は程なくミラノ勅令を反故にしてキリスト教の弾圧を再開し、コンスタンティヌスとの内戦に発展。コンスタンティヌスは323年クリソポリスの戦いでリキニウスを破り、キリスト教の弾圧を断ち、東西に分割していたローマ帝国を統一することになるのでした。これによりキリスト教は全ローマで公認されるとともに、帝国が保護するべき宗教と位置づけられるようになったのでした。

 

*ローマ国教へ

374年、ミラノにとって、そしてキリスト教にとっての重要人物が登場します。

聖アンブロシウス。

この年にミラノ司教となり、後世にミラノの守護聖人となる人物。キリスト教をローマ国教に押し上げ、現在に続く、世界に多くの信者を抱える巨大宗教への道を切り拓いた人物です。

アンブロシウスはキリスト教をローマ唯一の公認宗派とすべく同時代の皇帝たちを巧妙に洗脳し、皇帝たちに「キリスト教以外の宗教排除」に導きます。当時ローマ社会で共存していた宗派、ローマ伝統の宗教、ユダヤ教、その他あらゆるキリスト教以外の宗派を排除してローマ帝国内のキリスト教の地位を引き上げていった。

そし392年、皇帝テオドシウス1世によって、ついにキリスト教は「ローマの国教」と定められるのです。

 

 

ローマ皇帝キリスト教

キリスト教を認めたコンスタンティヌスキリスト教を公認したけど、自ら洗礼は受けなかったと言います。コンスタンティヌスは混乱極めた当時のローマを安定統治するためにキリスト教を利用しました。コンスタンティヌスローマ帝国を存続するためには、ローマ皇帝は神に従うものであってはならない、と考えていたのでキリスト教を認めはしても自ら洗礼を受けることはなかった。しかしその後の皇帝たちは在任中に洗礼を受けることが常になります。コンスタンティヌスの意図に反して、後の皇帝たちは神の僕となって、皇帝の権力は衰えていくのでした。ローマ帝国ローマ市民の国でもローマ皇帝が統べる国でもなくなった。

 

コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」。これがローマ帝国の終わりの始まりでキリスト教の飛躍の始まり。ミラノ勅令を境に、やがてローマ帝国はなくなってしまうのだけど、キリスト教は今に至るまで残っている。キリスト教の大きな転換点が313年のミラノで起こったのでした。 

そして「ミラノ勅令」はミラノのみならず、現代に続くヨーロッパ世界、キリスト教世界にとってのとても大きな出来事だったのでした。

 

*おまけ

「暴君」といえばネロ

実は歴代皇帝の中でネロよりひどい皇帝はほかにいる。でも暴君といえばネロ。

なぜかといえばネロがローマ大火の犯人をキリスト教徒に仕立て上げ、キリスト教徒に対して大量公開処刑を行なったということがキリスト教世界での評判が壊滅的に悪いのです。キリスト教世界と密接に付き合ってきた日本はよくも悪くもその影響を受けてきているので多少キリスト教よりのものの見方になる。

なので僕も暴君といえば「ネロ」なのです。

 

「大帝」コンスタンティヌス

暴君ネロと真逆の考え方が「コンスタンティヌス大帝」。確かに瀕死のローマ帝国を延命させた有能な皇帝ですが、先に述べたようにローマ帝国の滅亡を決定づけた皇帝でもあるので、ローマ史をたどる上で、コンスタンティヌスは決して大帝というわけではありません。

でも、キリスト教世界にあっては、キリスト教を公認したとてつもない功績のある皇帝なので「コンスタンティヌス大帝」なのです。

 

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