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ピサとガリレオ

f:id:fukarinka:20211103151918j:plainガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)

ピサに生まれ、ピサで育ち、ピサで学び、ピサで教鞭を振るった生粋のピサ人。

科学革命を起こした四人の科学者、コペルニクスケプラーニュートンと共に名を連ねる、だれもが名前を知っているピサの人、ガリレオ・ガリレイについてすこし辿って見ます。

 

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plain "Galileo Galilei" , Domenico Tintoretto

■略歴

1564年 ピサ生まれ

1581年 ピサ大学入学(医学生として)

    ユークリッドアルキメデスの書籍に出会い、数学、物理学へ転身

1589年 ピサ大学で数学講師

1592年 ヴェネツィアパドヴァ大学教授に

1610年 オランダの特許を参考にした「ガリレオ式望遠鏡」制作、その成果を「星界の報告」として刊行。

1615年 地動説をめぐり論争はじまる

1616年 第一回異端審問 ローマ教皇庁から地動説にイエローカード

1632年 「天文対話」刊行

1633年 ローマ出頭令、第二回異端審問で有罪判決。終身刑(直後軟禁刑)

1642年 フィレンツェ郊外で、77歳で亡くなる

 

ガリレオ式望遠鏡

1609年オランダで発明された望遠鏡を自ら改善して30倍の望遠鏡を自作。これによって月のクレーターを発見、木星に3つの衛星を発見、金星の満ち欠けを発見、太陽の黒点を発見。これらから地動説を確心して「星界の報告」という本を刊行。50年前にコペルニクスが唱えた地動説への支持を明らかにしました。

ほかにも天の川が恒星の集まりであること発見するなど、たくさんの天文学上の成果がこのガリレオ式望遠鏡とガリレオによってもたらされましたが、反面カトリック教会からは異端者として扱われることになります。

 

■ピサとガリレオと物理学

ピサのドゥオモの天井から下げれたランプの揺れから、振り子の揺れの周期が振幅によらず一定であること「振り子の等時性」を導き、振り子時計を発明しました。

また斜塔では、高さ55mから質量の違う砲弾を落とす実験を行い、質量に関わらず落下する時間は同じであることを証明、また自由落下の時間は質量に関係なし、落下の距離は時間の2乗に比例するといった「落体の法則」を発見します。

 

■地動説とカトリック教会の戦い

ガリレオが科学的な帰結として、コペルニクスが唱えた地動説を支持。一方でこの世の全てを聖書に委ねたかったカトリック教会側は聖書にある天動説に反する地動説の考え方を「異端」と決めつけガリレオを弾劾するようになるのです。中世のこのころの教会の権力は強大でした。

1616年地動説を唱え始めたガリレオが異端審問にかけられ、地動説支持を撤回させられる。

その後

1630年天動説と地動説をともに仮説として対話形式で記した「天文対話」執筆、1632年出版。この本は地動説が正しいことを結論づけていたため、教会が激怒し再び裁判となりローマで出廷。

1633年裁判の結果、終身刑が言い渡され、裁判では地動説を放棄する宣誓書を読まさせる。

「それでも地球は動いている」とはその直後にガリレオがつぶやいたと言われる有名な言葉ですが、その当時の状況から後世に弟子たちよって作られた話だといわれています。

またガリレオ68歳の時に書いた「天文対話」は通例のラテン語ではなく、一般の人が読めるイタリア語で書かれていた。これはガリレオ自身が、広く地動説が広まめるためにイタリア語で著したとも言われます。

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plain"Galileo before the Holy Office", Joseph-Nicolas Robert-Fleury

*「ローマで異端審問にかけられるガリレオ

 

その後、無期刑から軟禁刑に減刑されたものの一生監視付きの生活を送ります。

そして1642年フィレンツェ郊外アルチェトリ(Arcetri)にて77歳で息を引き取りました。

 

ガリレオの死の4年前、軟禁生活を送りながら1638年には近代科学の礎となる「新科学講和」をオランダで刊行しました。ガリレオはこの時すでに両目を失明していましたが、口述筆記によって著されたこの本は、以降の物理学(流体力学、熱力学など広範囲の力学、音の振動、磁気現象、光速度測定など)に直結していく事柄が満載されたガリレオがたどりついた真実の集大成であると同時に、後世の科学者に向けた遺言ともなったのでした。

 

■埋葬

教会にとっては異端者であるガリレオは、死後も名誉が回復されず、カトリック教徒としての埋葬は許されませんでした。正式に埋葬許可が降りたのはガリレオの死から約100年後。フィレンツェのサンタクローチェ教会に埋葬されました。ここにはミケランジェロの墓と共にガリレオの墓があります。

 

■名誉回復

なんと1965年ガリレオの裁判やり直しが行われました。そしてついにガリレオの死から350年、1992年にガリレオが正しかったことをローマ教皇が認めガリレオに対してローマ教皇による謝罪が行われました。

 

真の科学者は誰かに認められるかどうかではなく「真実が何か」に基づいて考え、行動するもの。ガリレオ本人は何の後悔もなかっただろう。

 

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