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旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェ小話 ルネサンスのはじまり

f:id:fukarinka:20220205180253j:plainルネサンス(Renaissance)。

学校の歴史の授業では「文芸復興」と言葉だけ教えられた。教科書に載っていたボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」がかすかに記憶にあるだけでその意味するところはまったく記憶に残っていない。

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大人になって実際にイタリアを旅すると、古代ローマとともにルネサンスの名残をたくさん目にすることになる。それは絵画だったり、彫刻だったり、建物だったりする。長い歴史の中のある200年ほどの間に、フィレンツェという小さな街に、なぜルネサンスは生まれ、なぜ500年たった現在でも世界中を魅了し続けるのだろう?

 

■なぜ?が許されない世界

4世紀にローマ帝国キリスト教を国教としてから一千年、もともとは美しい教えを説いたキリスト教もその一千年の間に醜く肥大化してしまいます。強大な権力を持ったキリスト教会は「信ずるものは幸いである」と魂の救済のためにと、現生の行動に制約を課して人々を支配しました。キリスト教の価値観のもとに、その世界のすべての答えを無理やり用意して、人々の「なぜ?」を抑え続けていたのでした。今からすると信じられないことですが「暗黒の中世」とはそういう時代でした。ルネサンスとはそうして押さえつけられていた人々の人間性が一気に解放に向かった現象と言えます。なので「ルネサンス」の原動力は人々が「なぜ?」と問い、自ら追求することにあるように思えます。

■心のルネサンス

そして矛盾だらけだが絶対的なローマ法王庁に、ついに人々が「なぜ?」を突きつけ始めたのが13世紀初頭のことでした。

ローマ人の物語」の塩野七生さんは著書「ルネサンスとはなんだったのか」の中で二人の人物を最初のルネサンス人だと分析しています。

一人はアッシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi 1182-1225)と神聖ローマ皇帝フェデリコ2世(Federico II 1194-1250)。ルネサンス」と聞くと芸術家、建築家を思い浮かべるのだけど、この二人はかたや聖職者であり、かたやキリスト教国「神聖ローマ帝国」の皇帝でした。

聖フランチェスコローマ法王庁の強大な権力に疑問を持ち、「ソロモン王の栄華より野の花をめでた」本来の美しいキリスト教を説き、貧しい人々の救済に努めました。自らも革のベルトや派手な法衣を脱ぎ捨て、福音書にあるキリスト教のあり方に忠実に努めようと説きます。

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plain小鳥に説教する聖フランチェスコ(ジョット) 

また文盲の人たちでも聖書を理解できるためにと、高価なモザイクではなくフレスコ画で聖書物語を描き多くの人の目に触れることができるようにした。これはのちに多くの傑作が描かれるフレスコ画を再興した、という重大な役割を果たしたわけです。

もう一人はキリスト教国である神聖ローマ帝国の皇帝フェデリコ2世。十字軍遠征の時代、異教徒との共存を模索したり、イタリアに学問、芸術を学べる学府(ナポリ大学)を創設した人物。第六回十字軍では、フェデリコ2世はローマ教皇から破門されたまま十字軍を率いて遠征を行い、ほとんど戦わず交渉によってエルサレムを奪還しました。また宮廷ではローマ帝国の伝統の復興を行ったというので、まさに後に続くルネサンスを最初に行ったといえます。

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f:id:fukarinka:20211103150648p:plainフェデリコ2世

聖フランチェスコもフェデリコ2世もともに絶対的権力を持ったローマ法王庁になぜ?を突きつけ、後に続く多くのルネサンス人のために、自由の思考の扉こじ開けたのでした。

 

■文芸のルネサンス

この頃フィレンツェでは毛織物産業が発展し、交易によりヨーロッパとアジアの文化が激しく往来した時代であり、さらに金融業の成功で一気に経済が豊かになった。そして文芸を育てる強力なパトロン、ミラノで言えばスフォルツァ家、ローマはバチカンの法王、フィレンツェではメディチ家がそれに当たり、このパトロンの存在が文芸のルネサンスを開花させました。フィレンツェよりも先に経済発展を遂げた近隣のピサやシエナルッカよりもフィレンツェルネサンスが大きく発展したのはこのパトロン達の存在によるところが大きかった。

産声を上げた「ルネッサンスの精神」は、やがてフィレンツェ人=商人の気質と共鳴し、「感性の開放」がはじまりました。

1250年ころカンビオが今のフィレンツェの街の原型を作り、チマブエ、ジョットが斬新に描き、ダンテ(文学)が活躍します。1340年ころにトスカーナを、フィレンツェの街をペストが襲うが、ルネサンスの勢いは止まることが無く1400年代に突入します。

まず人々の思考が解放されて、世の中の下地が整った時に文芸のルネサンスは一気に加速するのです。1400年代とはそういう時代でした。

 

メディチ家フィレンツェ

1434年にコシモ・デ・メディチが僭主制を引いたときから、1492年ロレンツォ・イル・マニーフィコが死ぬまでの約60年間にフィレンツェは最盛期を向かえます。メディチ家が芸術家を庇護したこともあり、多くの才能がフィレンツェに集まります。

この時期のルネサンスメディチ家の下での経済発展にも後押しされることで一気に大きな波となって広まっていきました。もう一つの要素として1453年東ローマ(ビザンチン)帝国の首都コンスタンティノープルが陥落。そこから多くのギリシア人がイタリア半島に流れこんだといいます。あまり表には出てこないけれどギリシア・ローマの文化を知るこの人たちの存在もまた、ルネサンスを深化させたと考えられます。

 

まず心と精神の解放があり、豊かな経済とパトロンの存在によって感性が解き放たれました。そして、そういう空間には才能が引き寄せられてくるのです。

レオナルド、ミケランジェロラファエロ。。。この時期にフィレンツェに集まった天才たちは上げればキリがありません。これから、その天才たちの足跡を辿ってみます。

 

P.S.こういう記事を書いているといつも思うのは、専門家でもない自分ごときがおこがましいなと。でも、自分のためになぜをまとめることは良いことだし、まさにルネサンスの精神!ということにしておこう。。。。

 

 

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