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旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェとミケランジェロ

f:id:fukarinka:20220209024421j:plainFirenze e Michelangelo Buonalotti

「神のごとき」ミケランジェロ

ローマ、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画「天地創造」を描きあげたあと、人々は彼のことをこう賞賛しました。その「神のごとき」手から数多くの彫刻、絵画、建築を世に残し、レオナルドと並びルネサンスの巨星と称えられる。ミケランジェロにとってフィレンツェはその才能を飛躍させた芸術家としての故郷です。

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■覚醒

1475年3月6日フィレンツェ近郊の街カプレーゼに行政長官の次男として生まれたミケランジェロは、6歳頃母を亡くし、このころから父の経営する大理石採石場で石工の一家とともに生活していました。この時すでに鑿と金槌を使って大理石を彫っていく技を身につけたと言います。

1488年、13歳で名門ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio)の工房に入門し、絵を学びます。そして14歳以降、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコ(Lorenzo "il Magnifico" de' Medici)と出会い、メディチ家が創設したプラトン・アカデミーに参加し当時の文化人と交流をもつ。このころミケランジェロ15歳の作品が「階段の聖母」(2013年日本に来ました)です。

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そして何よりロレンツォの「古代ローマ彫刻の庭園」に出入りし、このとき出会ったギリシア・ローマ彫刻、とりわけ「ラオコーン」に魅せられたミケランジェロは人間の「肉体美」に目覚めたといいます。

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 そして1492年ミケランジェロ17歳の年にロレンツォが死去。その後ミケランジェロボローニャベネツィア、そしてローマへと拠点を移していきます。

ミケランジェロにとって初期のフィレンツェは、ロレンツォとの幸運な出会いによってその才能を覚醒させたものの、いくつかの作品を残したのみで終わります。でもその後、フィレンツェを離れたミケランジェロは一気に「神の如き」作品を生み出していくことになるのです。

■1496年ローマに到着(詳しくはローマを綴るときに)

ピエタ(1498年 ローマ サン・ピエトロ寺院 24歳)

ヴァチカンのピエタを製作。そのときのエピソード。

ミケランジェロの言い値に「高すぎる」と文句をつける依頼主の枢機卿、しかしミケランジェロは 平然とこう言い返す。

「得をするのはあなたです」

このピエタ(詳細はローマにて)が大評判になり、彫刻家としての地位を確立しました。

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ミケランジェロのいないフィレンツェ

ロレンツォの死後すぐの1494年にフランス軍がイタリアに侵攻、その社会不安に乗じる様に修道士サヴォナローラが台頭しました。サヴォナローラは共和国政府に入り込み、熱のこもった演説と演出で「自分は預言者である」と市民の心を巧みに掴みその地位を固めようとします。フィレンツェの政治的腐敗、メディチ家の独裁を鋭く批判して信仰に立ち帰ろう。というのがサヴォナローラの主張でした。これに市民は熱狂した訳です。しかし、芸術や書籍を「虚栄」と断定し、シニョーリア広場で焼かせるなど、過激な行動は狂信的な信者を残して、危険視される様になったのでした。ローマ教皇庁から破門されたサヴォナローラの最後は共和国政府と市民により1498年絞首刑となったのでした。おそらくサヴォナローラは最後まで真剣に世界を救うつもりでいたと思う。その人気と影響力はおそらく最後は政治の駒として利用されたのでしょう。

いずれにしても芸術も標的となったこの時期は、世の中の混乱と共にせっかく花開いたルネサンスを散らせることになります。

ミケランジェロサヴォナローラが死んだ後、1499年少し平穏を取り戻しつつあったかもしれないフィレンツェに戻りました。

ダヴィデ(David 1504年 シニョーリア広場-アカデミア美術館 29歳)

先のヴァチカンの「ピエタ」と並びミケランジェロの代表作であり、人類の至宝とされる作品です。

フィレンツェにおいて「ダヴィデ」の構想は、もともと四十年前に始まったサンタ・マリア・デル・フィオーレに飾る12体の像計画の一つでした。その後いろいろな理由で放置されていたこの計画を再興することになり、「ダヴィデ」の製作がミケランジェロに依頼されたのでした。

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このフィレンツェのシンボルとなるダヴィデが完成すると、「どこに設置するか委員会」が発足しました。この委員会はレオナルド、ボッティチェリなどルネサンスの天才たちのそうそうたるメンバーで構成された。レオナルドは屋根の下、ロッジア・デイ・ランツィに置くことを提案したが、ミケランジェロ本人がそれを拒否。

このダヴィデは、巨人ゴリアテとの戦いに挑む直前の姿であり「ダヴィデは雨風に負けることなく立ち続けるのがよい」と現在あるヴェッキオ宮殿の正面に置かれることになったのでした。ただし、現在のダヴィデはコピーで、本物は作品保護のためアカデミア美術館(屋根の下)にある。

カッシナの戦い(Battaglia di Cascina 1504年 ヴェッキオ宮殿500人広場 29歳)

また、ヴェッキオ宮殿の500人広間の壁画をレオナルドとともに描き始めたのもこの年。

「カッシナの戦い(下絵の模写)」はレオナルドが筆を置いたあと、ミケランジェロも書く意欲を失って半世紀以上放置されました。ミケランジェロとレオナルドが対峙する大壁、見てみたかった。

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聖家族(1504年頃 Uffizi蔵 29歳)

彫刻家ミケランジェロ唯一の板絵作品がこの聖家族。「ダヴィデ」完成とほぼ同じ頃の作品。

鮮やかな色彩は後のシスティーナ礼拝堂の天井画につながっていくようだ。ちなみに額縁もミケランジェロの作品。

このあとミケランジェロはローマに呼ばれ、後にシスティーナ礼拝堂の天井画に着手する。

システィーナ礼拝堂の詳細は「ローマ編」にて。

 

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聖母子ブルージュの聖母子 1501-1504年 ベルギー・ブルージュノートルダム 29歳)

ミケランジェロフィレンツェ時代の最後、20代最後に取り組んだ作品と思われる、聖母子像があります。この像はダヴィデや聖家族の板絵を同じ時期にフィレンツェで製作されただろうこと以外、誰による依頼かなどわかっていません。

1504年に当時商業都市として発展したベルギー・ブルージュの裕福な商人がフィレンツェを訪れた際に購入して持ち帰り、故郷のノートルダムへ献納したのでした。

ミケランジェロの作品で生前に買われてイタリア国外へ持ち出された、という意味で貴重な作品。僕にとってはブルージュという比較的馴染み深い街で見つけた驚きのミケランジェロでした。

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その後、活動の中心はほぼローマとなりフィレンツェに戻ることはほとんどなかったと言います。

その他ミケランジェロフィレンツェに残した作品は。。。。

1534年 59歳でメディチ家礼拝堂を手がけ、

1553年 78歳で自らの墓を飾るために「ピエタ」を再び製作。しかしこれは失敗に終わる。その後買いとられ、現在はフィレンツェのドゥオモ博物館にあるといいます。

1559年 84歳 サン・ロレンツォ教会の図書館の階段を手がける。しかしこの頃ローマを離れることが出来ず設計のみ手がけることになる。

そして

1563年 88歳 ローマにて生涯を終える。

 

■墓廟 サンタ・クローチェ教会

ローマで88年の生涯を終えたミケランジェロは、故郷フィレンツェに運ばれた後、サンタ・クローチェ教会に埋葬されました。

ヴァザーリによるミケランジェロの墓廟は超有名人の墓の多いサンタ・クローチェにあって、もっとも華やかです。

棺の上のミケランジェロの胸像を中心にミケランジェロの「神のごとき」才能を示す、「絵画」、「彫刻」、「建築」の像が並ぶ。中央上部にはミケランジェロが生涯愛したテーマ「ピエタ」の絵、墓全体をフレスコ画の飾りが覆うというミケランジェロをよくあらわしたような墓となっていました。

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フィレンツェミケランジェロ

若くしてフィレンツェを離れ、人生の大半をローマを中心にフィレンツェの外で過ごしたミケランジェロ。でも故郷フィレンツェを思い続けて、その遺言にも「自分をフィレンツェに埋葬してほしい」と残していたそうです。

生前から世の中から認められ「神の如き」と崇められたミケランジェロにとって、フィレンツェは暖かい故郷であり続けたわけです。あらゆる面で同じルネサンスの巨匠であるレオナルドとは対照的な人生に思えてなりません。

そしてミケランジェロには生前もう一つ呼び名がありました。

「神から愛された男 (Il Divino )」これ以上の栄誉がないというほどミケランジェロは人々からも時代からも愛されていたという証かもしれません。

 

神のごときミケランジェロはここフィレンツェで感性と腕を磨き、当時「汗水たらして作業する肉体労働者」と言われた彫刻家の地位を高めていきました。

でも、どんなに神の如き作品を生み出しても、ミケランジェロにはミケランジェロにしかわからない2つの苦悩をかかえて生きていた(多分)。

一つは、生涯「彫刻家」と名乗り数多くの名作を残したミケランジェロですが、その才能故、パトロンからは絵画も多く依頼され、常に彫刻家でありたい自分との間で苦悩し続けたといいます。

そしてもう一つ、これは僕の想像ですが、

「彫刻」は古代ギリシアの時代に完成の域に達した分野で、それを模倣した古代ローマの優れた作品も数えきれないほど身近に存在するイタリアでは常に比較ができてしまう。いくら世間が称賛しても、ミケランジェロは自分の作品と完成された古代ギリシアの彫刻家たちの作品を常に厳しく比較しつづけたでしょう。神の如きミケランジェロは、大理石で神の世界を作り上げた2000年前の古代ギリシアの彫刻家たちと終生戦い続けて、安息の日というのは存在しなかったのではないかと想像するのです。

ミケランジェロの人生は世間で言われる様な「生前から認められた幸運な芸術家」では決してなかったのではない、常に孤独に戦い続けた過酷な人生だったように思えるのです。だから最期まで故郷フィレンツェを思い続けていたのではないか、と。

 

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