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フィレンツェとラファエロ

f:id:fukarinka:20220205180253j:plain37歳で他界したラファエロルネサンスの3大巨匠と言われるレオナルドやミケランジェロと比べて、若くとても短命でした。その短い生涯の中でフィレンツェで過ごした時間もまた短かった。でも、その短い間におそらく一生分の財産を手に入れた、ラファエロにとってのフィレンツェはそういう場所だったのだと思うのです。

ラファエロ

1483年にフィレンツェの西、ウルビーノに宮廷画家の息子として生まれました。

1495年にペルージャに出て、ペルジーノに学んだ後、

1504年21歳の年にフィレンツェを訪れ、5年間をここフィレンツェで過ごします。ラファエロが過ごしたフィレンツェは、ミケランジェロダヴィデを完成させ、レオナルドはモナリザ製作中、さらにこの二人がヴェッキオ宮殿の五百人広間の大壁画を背中合わせに競っている、そんな時でした。目の前でそんな場面が繰り広げられているのだから刺激を受けないわけがありません。。。

自画像(1506年頃 パラティナ絵画館蔵)

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そんなラファエロフィレンツェ時代の代表的な作品をいくつか。

■大公の聖母(1505-1506年 パラティナ絵画館蔵)

トスカーナ大公が所有していたため、この呼び名となっています。この絵が誰の依頼によるものだったのか、経緯ははっきりしておらず、当初背景は描かれていて、後世に黒く塗りつぶされたという曰く付きの作品。

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フィレンツェにやってきたラファエロはレオナルドに心酔することになります。

 

1501年にレオナルドがフィレンツェで発表した聖母子の下絵は3角構成を示したもので、ラファエロもその構成を意識した作品を次々に残していきました。

■牧場の聖母(1506年頃 22歳 ウィーン美術史博物館蔵)

聖母子と幼児の洗礼者聖ヨハネ 

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ひわの聖母(Madonna del cardellino 1507年頃 24歳)

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■聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ(1507-1508 24歳 ルーブル蔵)

18世紀この絵がフランスに渡った時、王室コレクションに「農民の聖母」と登録され、さらに「美しき女庭師」と呼ばれる様になります。正式には「聖母子と洗礼者ヨハネ」の作品となるため、ルーブルではこの表記になっているそうです。

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レオナルドがサンタ・マリア・ノヴェッラの王の間で描き始めた「モナリザ」を模写したり、その影響濃く示す作品をラファエロは残しています。

■マッダレーナ・ストロッツィの肖像 1506年 23歳

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レオナルド、ミケランジェロラファエロ。この三人が、このフレンツェに同時期に過ごしたことは奇跡のようなことです。ラファエロは父親くらい歳の離れたレオナルドを心底敬愛していました。一方でラファエロより7歳上だったミケランジェロはどちらかというとライバル的な関係にあり、毛嫌いしているレオナルドを敬愛しているラファエロとの関係も良くなかったとか。
5年間のフィレンツェでの生活でレオナルドとミケランジェロからとてつもなく多くのことを学び過ごした後、ラファエロローマ教皇ユリウス2世にの招きに応じてローマへ向かいます。ヴァチカンで「署名の間」のフレスコ画の成功によって、その名声はとても大きなものになりました。

作品そのものの影響力という意味では、レオナルドやミケランジェロにはおよばなかったものの、甘美な人物表現、より人間的な、しかし神々しさが滲み出るラファエロの表現はルネサンス3大巨匠の一角として生前から認められ、そしてラファエロルネサンスの次の時代、マニエリスムを切り開いた大きな功績を残すことになるのでした。

 

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