ハンニバル戦記とも言われるローマとカルタゴの戦争「ポエニ戦役」は他人の領地に入ってきたカルタゴを「あっちに行け」とローマが加勢したことから始まったのに、振り返ってみれば、130年にもわたるローマとカルタゴの全面戦争、ローマの完全勝利でカルタゴの滅亡という結末で終了しました。そう、領土拡大でもなく、カルタゴを最初から滅ぼそうとして始めたわけでもないのに、終わって気づいたら地中海全てをローマは手に入れてしまった。
ローマに負けたカルタゴの天才ハンニバルは、こう語っていたといいます。
「いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることはできない。国外には敵を持たずとも、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に、肉体の成長に従いていけなかったが故の内臓疾患に苦しまされることがあるのと似ている。」
(リヴィウス著「ローマ史」より〜ローマ人の物語Ⅲの冒頭にある一文)
ローマの内臓疾患
ローマはカルタゴとの戦いで思わぬほど急拡大を遂げてしまった。超大国として変化してくスピードに国内の実態がついていけなかったための歪みが、ローマを襲うことになります。
戦争に勝ったことで領土が拡張して国が豊かになると思いきや、逆のことが起こります。その歪みはローマ軍の屋台骨である平民(農民)を襲うのです。
領土が拡大することで、安い小麦が大量に輸入されるようになりイタリア本土の小麦農家がどんどん貧しくなります。また戦争で得た奴隷を労働力にした金持ちによる大規模農園が増加した結果、自作農民がどんどん貧しくなり失業して、ローマ市民の間での貧富の激しい格差が大きな社会的歪みとなるのでした。
また、ポエニ戦役でローマ市民と分け隔てなく共に戦った非ローマ市民たち、彼らは戦役後、戦利品分配の不平等や、そもそもローマ市民権がないことによる不平等からここでも貧富の格差と不満が大きく膨らんでいくのでした。
金持ち側からすると、自分達はどんどんさらに金持ちになるローマの現状は決して居心地が悪いものではなく、それが故に元老院はこの問題を直視しなかった。平民(農民)の失業問題はその屋台骨となっている軍事面の弱体化に直結するのですが、当時地中海の覇者となって、脅威となる外敵があまりいなかったためそれも、国家としての大きな問題とはならない。この問題に対して多くの貴族、元老院議員は既得権を守りたいためこの社会問題を放置していたのでした。
ポエニ戦役が終わって13年、急拡大したために大きく歪んだローマ社会に新たな力が現れることになります。
グラックス兄弟は母方の祖父はハンニバルを倒した英雄スキピオ・アフリカヌス、父は平民階級でありながら2度執政官を勤めた人物。とても裕福な家庭に生まれ育ったのがこのグラックス兄弟でした。
兄:ティベリウス・グラックス(Tiberius Sempronius Gracchus / B.C.163-B.C. 133)
ポエニ戦役はじめローマの勝利のために戦ったローマ市民が失業に追い込まれている現実を見て、30歳の時に行動を起こします。「なぜ平民だけが苦しまねばならないのか?」。ティベリウスはB.C.133年に護民官となり農地改革に乗り出します。それまで農地は国有地を平民たちに平等に貸出す形をとっていたのですが、それを裏金を使って不正に大量取得して大規模農園を経営する金持ちが絶えなかった。そこで不正に取得された土地を洗い出し平民へ再貸出する、というのがティベリウスの農地改革でした。
このティベリウスの農地改革は、至極真っ当でありながら、既得権を享受している貴族階級を刺激して、元老院の猛反対を受けることになる。一方で平民市民からは熱狂的に支持される状態となります。既得権を奪われることを阻止したい元老院は、この平民のティベリウスへの熱狂を「独裁」に結びつけて、反逆行為にすり替えようとした。大規模農園を持たない元老院議員もこれにより、「共和制を潰そうとするティベリウス」となり、ティベリウス派(平民)と反ティベリウス派(貴族)がローマ市街で激突し、ティベリウス本人とティベリウス派の多くが惨殺されてしまう事件が起きてしまったのです。
結局このティベリウスの農地改革はティベリウスが殺されることにより頓挫してしまいました。ローマへの忠誠心の下、平民の権利を回復しようとしたティベリウスは、共和制打倒も独裁者への野望も微塵も持っていなかったにもかかわらず、元老院に勝手にそういうレッテルを貼られ、最後は殺害されるという結末になってしまう。これはティベリウスの祖父でありポエニ戦役の英雄スキピオ・アフリカヌスも同じような目にあっている。そして、この後も平民はじめ多くのローマ市民のために行動する者たちが、少なからず同じ憂き目に遭うことになるのです。
このことは時代や国・社会の大小関係なく同じようなことが起きていることを思うと、やはり人間の本質は変わらないのだ、と僕はうんざりするのです。
弟:ガイウス・グラックス(Gaius Sempronius Gracchus / B.C.154-B.C. 121)
兄と同じく30歳で護民官に就任。兄の農地改革の再開はじめ、多くの改革をおこなっていきます。兄の代から家門名「センプロニウス」の名前がついたたくさんの法を提案します。そしてガイウスはローマ経済圏にいるローマ市民以外の人々も含めて改革を行わないと同様の問題が本国ローマ外でも起こることに気づき、「ローマ市民権を拡大する」法案を元老院に提出します。これはもともと建国の王ロムルスの時代からのローマがとってきた方法で、国家ローマとしては至極普通に思えるものでしたが、結局これも元老院の既得権を脅かす法案として、貴族たちから猛反対を受ける。
ここで再び元老院は「ガイウスは共和制を壊し、独裁者になろうとしている」とレッテルを貼り、排除しようとします。
「元老院最終勧告(Senātūs cōnsultum ultimum)」これを突きつけられた者は国家の反逆者と認定され、裁判なしで処刑することも許される、名前のとおり最終勧告です。元老院はガイウスに対して元老院最終勧告を出し、ガイウスを追い詰めます。ガイウスは最後は自害することになったのですが、元老院はさらにガイウス派とみなされた数千人を処刑してしまうのです。
B.C.133年のティベリウス殺害事件から、実質的にローマは建国以来初めての内乱期に入ります。
元老院は国家の問題の本質を見ることなく既得権を守るために、同胞であるローマ人を処刑する愚を犯してしまいました。しかも市民の多くが求めた改革を進める若者を、愚かな欲のために殺してしまった。この時すでに元老院はおかしくなってしまっていた。ハンニバルが予言した「肉体の成長に従いていけなかったが故の内臓疾患」は元老院そのものでした。
更に、ローマ人の物語Ⅲでマキアヴェッリのこんな言葉が紹介されます。
「武器を持たない予言者は失敗を避けられない」
おかしくなった元老院と対峙するには武器が必要でした。しかしグラックス兄弟は護民官として改革を唱えたが、武器を持たなかったために元老院によって殺されてしまった。グラックス兄弟が手がけた多くの改革は白紙にもどり、ローマ社会の問題は「武器をもった予言者」が登場するその時まで、そのまま放置されることになるのです。
参考文献
ほか