cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ちょっとローマ史6 粛清〜共和期

グラックス兄弟の改革と不条理な死を経て、ローマは完全に元老院派と一般市民との間に強烈な溝が生まれ、同じローマ市民の間に大きな対立構造が出来上がってしまいます。深刻な問題となっていた農民たちの失業はローマ軍団の弱体化に直結し、それを敏感に感じ取った周辺国がローマに戦いを仕掛け、ローマはことごとく破れるという事態が続いていきます。これを打開しようとした二人の人物は結局お互いへの粛清という形で終わり、ローマは身内同士の殺し合いが横行する凄惨な社会に陥ってしまうのです。その中心人物となるのは軍事の秀才だが政治に疎いマリウスと真面目すぎるスッラ。

 

ガイウス・マリウス(Gaius Marius  B.C.157 - B.C.86)

名前の通り、家門名をもたない平民出身で叩き上げの軍人であったマリウスは、ヌミディアとのユグルタ戦役(B.C.116 - B.C.106)で功績を上げて出世していきます。

B.C.107 マリウスは執政官になると、大胆な軍政改革を行いローマ軍団を再生します。ローマ建国以来ローマ市民の義務(直接税)であった兵役を、志願制に変え、軍人を職業とします。軍人としての給与支給や武器装備も元老院が支給、さらに退役後の処遇を整備するなど軍人として身分が保障され、職業として認知、定着するようにしたのでした。この改革は功を奏してローマ軍団は見事に立ち直り、ローマの失業問題も解消されるのです。さらにこの改革は軍団構成や軍旗(銀鷲旗)の制定などその後帝世期まで続くローマ軍団の基本形となりました。

マリウスは軍政改革によってローマの失業問題と軍の弱体化という二つの問題を同時に解決。これは優れた改革と思われましたが、「職業としての軍人」という改革は当時、戦争のない平時にはその軍人が失業状態になるという皮肉な状況を生み出してしまった。また共和政ローマの中では見事な改革だが、その同盟国にとっては不満を増長することになり、政治に疎いマリウスならではの不備が元でいろいろな混乱が起き、マリウスの足元をすくう事態へと発展していくのです。

マリウスは軍人であって政治家ではありませんでした。

 

同盟者戦役(B.C.91 - B.C.89)とユリウス市民権法

マリウスの軍制改革はローマ市民にとっては、素晴らしい改革だったものの、その周辺の同盟諸国からすると、自分達はまたしても置いてけぼり、それまでに溜まっていたローマ本国への不満が爆発し、同盟者戦役というローマと同盟国との間で、いわば仲間割れの争いを引き起こします。お互いの手の内を知り尽くした完全な身内同士の戦いが泥沼化します。それを打開したのは一つの法律でした。

同盟国市民もローマ市民権を自由に取得できるようにするとした「ユリウス市民権法」が制定されることで同盟者戦役は和解します。この戦役を収束させるために成立した「ユリウス市民権法」ですが、ローマにとってはB.C.367に制定されたリキニウス法に匹敵する、画期的でかつ、その後の国家ローマの性格を決定づける重要な法律でした。

 

ルキウス・コルネリウス・スッラ(Lucius Cornelius Sulla Felix B.C.138 - B.C.78)

マリウスより20歳ほど年下で、元々マリウスの部下としてユグルタ戦役を戦った人物。名門コルネリウス一門に属する家柄でありながら、とても貧しい生活を強いられていたといいます。同盟者戦役で功績を上げ、B.C.88に執政官に当選します。スッラは政治家としても軍人としても優れた人物であったと言います。スッラはローマの混乱を元老院の機能不全が原因と考え、元老院を強化して以前のような従来の共和政を復活させるという強い信念を持っていました。

スッラが執政官になると同時にこのスッラとマリウスの対立は激化し、市民を巻き込んだ凄惨な方向へと進んでしまうのです。

 

粛清合戦

マリウスのローマ占拠

スッラの執政官就任を機に、ローマの街を舞台にマリウス派とスッラ派が激突。その時、数で優位だったローマ市民中心のマリウス派が優勢となり、スッラ派は首都を逃れます。スッラは軍を整えて再びローマにもどり、マリウスを追い出して首都を制圧し、スッラはマリウスとその一派を「国賊」に認定した。この頃、ポントス王ミトリダテスのギリシアを巻き込んだ不穏な情勢から、スッラは東方制圧に乗り出す。

すると今度はマリウスが、スッラの留守に自軍を率いてローマを制圧、「国賊」にされた70歳のマリウスは、怨念の赴くままに僅か5日の間に元老院議員50名、騎士階級1000人を粛正しました。これらの人々を奴隷を使って殺害し、ことが済むとその奴隷たちも殺された。ローマの街には死体が溢れました。マリウスは明けてB.C.86年に執政官に選出されますが、怨念を晴らした老将はその年に亡くなったのでした。

スッラの逆襲

B.C.82年ポントス王ミトリダテスとの東方戦役に勝利してイタリア半島に戻ったスッラは各地でマリウス派を撃破してローマに迫る。首都ローマでも徹底的にマリウス派の、というかスッラを支持しなかったものたちを徹底的に殺戮しました。マリウスの墓は暴かれ、マリウスの数々の戦勝記念碑は破壊され、マリウスの血を引くものは虐殺されました。いわゆる民衆派に属するものは名簿に記し、その数は元老院議員80名、騎士階級1600名が記載されたといいます。更に懸賞金付き密告制度を使ってまで隈なくマリウス派を探し出し、裁判もなく財産没収され殺されたと言います。

 

スッラの勝利と混乱の収集

スッラは一通りの殺戮を終えた後、終身独裁官に就任します。

スッラは数々の改革法案を提出し様々な問題の解決に当たったのでした。それは祖国ローマを正したい、という純粋な思いによるもの。そして一通りの改革の道筋をつけたB.C.80年スッラは自ら独裁官を解任する。スッラにはローマを正しく導くのは元老院体制だという強い信念があった。マリウスとの抗争で混乱したローマにいち早く秩序を取り戻すもっとも効率的なやり方として、「独裁官就任」を選択した。で、やることをやったあとは独裁官から降りる。それがスッラが目指した元老院によるローマの統治だから。

元々貧しい生活だったスッラは、権力をもっても私腹を肥やすことはなく、引退後は質素な別荘で気ままに過ごしたといいます。最終的にスッラは勝利して引退した訳だけど、スッラ自身はそれは「幸運だった」と回想している。スッラの名前の最後にある「Felix」は「幸運に恵まれた者」を意味します。

 

マリウスとスッラ、共に混迷のローマを立ち直らせようと言う使命に駆られ行動しました。反元老院を掲げて軍団からローマを再興しようとしたマリウス、逆にスッラは元老院の権威を復活強化してローマを立て直そうと考えた。

同胞を大々的に粛清したイメージがつきまとうスッラですが、その根底には純粋な愛国心と政治信念からの行動でした。混迷のローマはこうして、たくさんの人々を犠牲にしながら一つの方向へと向っていくのでした。

 

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com