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ちょっとローマ史7 三人の時代へ〜共和政期

B.C.78年スッラが死んだあと、スッラが完成させた改革はことごとく崩壊していきます。終身独裁官であったスッラは自らが考えて準備していた改革を導入させたところであっさり終身独裁官の職を降りて政界を引退してしまった。スッラが行った改革は元老院復権元老院による国家運営だった。しかしこの時すでにローマが統べる領土は地中海全域に広がっており、様々なことをスピーディーに判断・決定して対処しなければならない。逆にスッラが行ったことは元老院強化と称して元老院議員数を300から600人としたことで、何も決めることができず時間だけが過ぎ問題は解決しないという事態が続く。スッラが行った改革とはローマの現実にそぐわなかった、だからスッラの改革はことごとく崩壊していった、ということなのです。

再びローマは機能不全に陥ります。

するとまた周辺諸国が騒ついて、地中海は海賊が横行するようになり、ローマとその同盟国は戦いに明け暮れることになります。

そこに登場するのがポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus B.C.106 - B.C.48)。

スッラの軍に参加して数々の軍功を挙げて、25歳の若さで凱旋将軍になり、その後も地中海の海賊一掃、オリエントの制圧とその軍事面での成功からローマにおいての人気と実力は突出していました。ローマでは彼のことを「マーニュス(Magnus=偉大な)」という最高の尊称で呼ばれることになるのです。

もう一人、クラッスス(Marcus Licinius Crassus, B.C.115 - B.C.53)という人物が台頭します。クラッススはスッラのマリウス派粛正の急先鋒として働きました。クラッススはその粛清されたマリウス派の財産を格安で買取、莫大な資産を手に入れた。その過程はとても誉められたものではないけど、この人物ものちにローマにとって重要な役割を担うことになるのです。絶大な人気を誇るポンペイウスに対して、卑屈な手で私財を増やしたクラッススは民衆からの人気はいまいち、ポンペイウスの人気に負けたくないクラッススには「軍功」は必要でした。

そんな時、「スパルタクスの乱(B.C.73 )」が起こります。イタリア南部で起きたスパルタクスを主導者とする剣闘士や奴隷たちの反乱で、その規模は10万人を超えたといいます。これに対してクラッススは私財を投じて編成した自前の軍を率いて鎮圧に向かいます。最初はスパルタクスが優勢に戦いを進めていたのだけど、数は多く剣闘士であっても訓練された軍隊に敵わず、最後はクラッススの軍に屈することになる。ところが、最後取り逃した6000人のスパルタクス軍をポンペイウスが制圧して、元老院で「反乱を終わらせたのは自分である」と報告した。これによりクラッススは反乱鎮圧の功を奪われ、「スパルタクスの乱」を鎮圧した将軍ではあったものの、凱旋式は小規模で行われることになったのでした。

このこともありローマではポンペイウスクラッススの不仲は公然の事実として扱われることになるのでした。

B.C.70 そんな犬猿の仲の二人クラッススポンペイウスが執政官に就任します。この先も20年近くこの二人がローマの政界に君臨することになるのです。

 

そして、もうひとり目立たず密かに政治の中心に食い込み始めた人物がいます。ガイウス・ユリウス・カエサルです。このときはまだ30代前半。実はこのころ、カエサルポンペイウス接触します。はっきりした記録はないものの、その後の状況からして間違いないと言われています。

ポンペイウスの絶大な人気と実績に元老院は「独裁」を警戒し始める。そんな元老院が当時最大の問題だった地中海の海賊一掃、オリエント制圧をポンペイウスに任せることを渋ると、それを制してポンペイウスの派遣に賛成したのがカエサルでした。

ポンペイウスは期待通りに海賊を一掃し、オリエントを平定して凱旋します。

 

人気と実力のポンペイウス、資金力のクラッスス、そこに少しずつユリウス・カエサルが関わりはじめ、世の中に気づかれないまま、時代は実質この三人が舵取りをするようになっていきます。

三頭政治。ローマは三人の時代へと向うのでした。

 

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