「執政官(Consul)」とは共和政ローマにおける最高官職。任期は1年、毎年2名の執政官がローマの政治を取り仕切っていました。
B.C.754年、王国ローマが誕生したときに建国の王ロムルスは国の政体を「王、元老院、平民集会」の3つにすることを決めました。ローマは王政から共和政へ、共和政から帝政へと移り変わりますが、政体のトップが「王」「執政官(Consul)」「皇帝」と移り変わっても、元老院と平民集会はそのまま残り、ローマ政治の三角関係は変わらず続いていくのです。この点はローマを建国したロムルスの政治センスを感じないではいられません。
紀元前59年、三頭政治を背景にカエサルは執政官(Consul)となりました。41歳にして初めてローマ政治の頂点に到達するわけです。ただカエサルにとってこの執政官としての1年は別に特別なことはなく、次のステップへの単なる通過点として淡々と、しかし着々と過ぎていったのでした。
カエサルが執政官として行った、主な重要改革は二つ。
一つ目は「アクタ・ディウルナ(Acta Diurna)」という、元老院議会の議事録を即日公表すること。これは地味だけど効果は絶大でした。さっき行われた議会で誰が何を言ったかすぐに公開されてしまうので、元老院議員達は迂闊な発言を控えることになる。
ちなみにこのアクタ・ディウルナは現代の新聞の起源となり、「ディウルナ」という言葉は「ジャーナリズム」の語源になりました。
二つ目は70年前、グラックス兄弟が行おうとして元老院に潰された農地改革。カエサルは護民官と市民集会を巧みに活用して、このグラックスの改革を「ユリウス農地法」として成立することに成功ます。平民農民にとっての70年越しの悲願がカエサルによって実現したのでした。
カエサルはその他多方面で活躍し、相方であるもうひとりの執政官の存在感をほぼ打ち消していたと言います。ローマ市民はある1年言い表すのに「〇〇とXXが執政官の年」と二人の執政官の名前で表現したのですが、このB.C.59年は「ユリウスとカエサルの年」と呼ぶほど、カエサルだけが執政官の仕事をした1年となったわけです。
執政官の任期はたった一年。その僅かな期間でできることは限られ、そこでどれだけのことをするかはその政治家の手腕次第。大した業績を残さず任期を終える執政官も多くいたでしょう。しかしローマの政治システムの優れたところは、執政官には次の役目が用意されるところ。執政官まで上り詰めた優秀な人材は、次の年、前執政官( pro -consul)として広大なローマのどこかの属州統治を任される。カエサルは自分の行き先をガリアと決めていました。ガリアとは現在のスイス、フランス、ベルギーといった今なら先進的で洗練されたうっとりするような地域ですが、紀元前1世紀当時は広大な沼地が広がる未開の田舎でした。そんなガリアを任地に選んだのはカエサルのこの先のローマの姿を見据えた選択でした。
カエサルは執政官任期の終わりに、北イタリア以降のガリア、南仏属州、イリリアの統治権、任期5年、4個軍団の総指揮権を元老院に認めさせます。
ガリアの現在の姿を見ればカエサルがガリアの地で何を成したかがわかります。
ガリア戦役が始まります。