B.C.55年7月ガリア戦役の最中にカエサルは母を亡くし、翌B.C.54年8月に娘を亡くします。ガリア戦役の最中、カエサルはローマに戻ることもできず、カエサルは二人の死に目に遭うことも、弔ってあげることもできなかった。公私を明確に切り分けていたカエサルは二人の死について、ガリア戦記には何も書き記していない。その他この二人の死についてカエサルがどう感じ何を思ったか、記録がなく知る術はありません。
「ローマ婦人の鑑」となった母アウレリア(Aurelia B.C.120 - B.C.54)
B.C.55年最初のブリタニア遠征の終了後にカエサルは母アウレリア の死の知らせを聞いたと思われる。アウレリアは名門アウレリウス一門の中でも学者の一家としても有名なアウレリウス・コッタ家の出身で、高い教養を持ち、天才カエサルを守り育てた母親として後にグラックス兄弟の母コルネリア(スキピオ・アフリカヌスの娘)と共に「ローマ婦人の鑑」として並び称される人物。
貧乏なユリウス家の家計を取り仕切り、ギリシア人の家庭教師はつけられない代わりに、ギリシアの最高学府で学んだ優秀なガリア人を家庭教師に招いたり、幼少からカエサルを一生支えることになる奴隷の子をつけて一緒に教育させたり、と将来を見据えた教育環境を整えた。アウレリアはB.C.84年、カエサルが16歳の時に夫を亡くした後も数ある再婚話を全て断り家長となったカエサルを影で支え続けました。カエサル18歳でスッラの「処罰者名簿」にカエサルの名前が載った時はあらゆる手を尽くして息子の命を守り、留学させ、たくさんの経験を促し、民衆派としての道を歩ませた。帝国ローマを、後世のヨーロッパ世界を築き上げた稀代の英雄は、この母アウレリアによる最高傑作と言っていいでしょう。
アウレリアはカエサルが幼い頃から母として溢れるほどの愛情を注ぎます。男にとって子供の頃の母親の愛情というのはおそらく、その後死ぬまでつづく性格形成に大きく関わります。カエサルの「どんな窮地に立たされても機嫌の良さを損ねることがない」という特徴などはこの母の影響が大きいといいます。
カエサルはこの聡明な母の影響を強く受け、成長しました。性格も教養も立ち居振る舞いも母アウレリアによって形作られたと言って良い。当時のローマの他の家庭と比較しても、とても母子の絆が強く親密な親子関係だった。その母が亡くなった時のカエサルの心の内はどうだったのか、知る由がない。ちょっと残念。
僕の母は高校卒業して地元の銀行に就職し、父と結婚したあとに上京した。東京で主婦をしながら通信制大学に通い教員免許を取る。アポロ11号の月面着陸の中継の時をちょうど通学のタイミングだったため、大学の学食で見たとよく言っていた。アポロ11号の月面着陸は1969年7月20日だから、生まれてまもない僕はとなりのおばさんに預けられていた。教員免許をとった母は僕が幼稚園に入園するタイミングで幼稚園の教員となって、そこからかれこれ20年以上幼児教育の世界で働いていた。いろいろなことに興味を持ち、首を突っ込んではいろいろなコミュニティーに参加する、どこにでも出かけて誰彼構わず話しかけ、仲良くなってしまう、バイタリティ溢れる人だ。高齢になった今でも、地元の小学校の見守り隊やコーラスグループ、ボランティア活動によく出かけている。先日は母に誘われてフジコ・ヘミングのコンサートに行ってきた。
昔のことでよく覚えているのは僕が悩んだり凹んだり、精神的に負の極致にいると、全く別の見方考え方で前向きなプラス思考の解を示してくれた。その論法は毎回魔法のようだった。もちろん現実はその通りには運ばないときもあるのだけど、完全なマイナス思考に陥ってしまった時、その度に「そんな考え方があるのか!」という目から鱗の一つの答えを示してくれた。僕が幼い頃から社会人になったばかりのころ、まだまだ人生経験浅く答えを一人で見出せない頃に、常に「別の見方」「別の考え方」を示してくれた。これは今も僕の思考パターンの大きな礎となっている。
僕は幼稚園のころから母が働いていて、いわゆる鍵っ子、預かりっ子として育ったが、当時寂しいとか、悲しいとか不安に思ったことは一度もなかった。ひとつは僕自身の性格によるものもあると思うが、今思えば、それまでの間にたっぷり愛情注がれて過ごしたんだろう。実体験として子供の思考に母親の影響たるや絶大なものがあると思う。
だからカエサルの母アウレリアがいかに偉大だったか、少しわかるような気がする。
父カエサルを支えた娘ユリア(Julia B.C.82-B.C.54)
カエサルとコルネリアの間に生まれた娘ユリア。父カエサルは軍務や政務でほとんど留守であった中、母コルネリアと祖母アウレリアによって育てられました。
B.C.59年に三頭政治でカエサルと双璧をなすポンペイウスに嫁いだ。ユリアには別の婚約者がいたが、それを破棄してのポンペイウスとの結婚は、カエサルによる三頭政治を強固にするための政略結婚であることは明らかでした。カエサルの母、祖母のアウレリアに育てられたユリアの女性としての魅力は素晴らしく、過去の歴史家たちによれば「美と徳を持ったやさしい女性」、その花嫁を迎えたポンペイウスはユリアに夢中になったといいます。20以上もの歳の差がある夫婦となったのだけど、周囲が「ポンペイウスは公務を放棄した」と思うほどユリアを大切にして、政略結婚とは思えないほど仲睦まじい夫婦となったといいます。
ユリアはB.C.54 8月出産中に亡くなった。
愛妻を失ったポンペイウスの悲しみは相当なものだった。ポンペイウスは夫婦の思い出の詰まったアルバの別荘にユリアを葬りたかったが、ユリアを慕う大勢のローマ市民によりマルス広場にある歴代の偉人たちの墓所に埋葬されることになったのでした。これはローマ人にとってはとても名誉なことで、当時であれば国最高位の人物への待遇。このことはユリアという人がポンペイウスの妻として、カエサルの娘として如何に振る舞っていたかが窺い知れます。
娘を政略結婚させる、というのは当時であれば普通の事柄だったのかもしれません。ただ客観的にみて不幸に思える政略結婚を、その役割を十分に果たしながら幸せな結婚にしたユリアは魅力的で聡明な女性でした。
ユリアの死後、ポンペイウスの落胆は激しく、元老院派はそれにつけこんで三頭からの引き剥がしを画策します。ポンペイウスの武士道によって、この時点では寝返ることはなかったものの、かすがいとなっていたユリアの存在は大きく、ユリアの死後、三頭崩壊が少しずつ進んでいくことになるのです。