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カエサル19 首都の変化

ガリア戦役開始当初は密かに、秘密裏に行われた三頭政治も戦役3年目あたりからは周知の事実となりました。元老院派の議員たちはいつの間にやら自分たちの知らないところで国政が動いていたことに怒りと焦りを覚えたでしょう。そしてガリア戦役が終わるまでローマに戻ることのないカエサルの足を引っ張ろうにも、派手な戦果と民衆の絶大なる人気によって、足を引っ張るどころか毎年ガリアでの成果に大々的な祝祭を首都ローマで開催することになる。三頭に対抗したい元老院派は毎年悔しい思いをしなければならなかったわけです。

しかし、ガリア戦役中に亡くなった二人の人物、その死によって徐々に潮目が変わっていく。一人はポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリア。そしてもう一人は三頭のひとりでありカエサルパトロンクラッスス

カエサルの娘ユリアは、三頭政治を盤石とするための政略結婚だったのだけど、ポンペイウスとユリアの結婚生活はとても幸せなものだったといいます。ポンペイウスのユリアへの溺愛は「ポンペイウスは公務を放棄した」と言われるほどでした。B.C.54年にユリアは亡くなりました。ポンペイウスの落胆ぶりはものすごく、元老院派はその機を逃さずポンペイウスを引き込むよう画策します。当初はカエサルへの義理を通したポンペイウスも結局、虚栄心に勝てずカエサルを裏切ることになるのです。

カエサルの最大のパトロンクラッススは三頭のなかでも人望も実績もない。クラッスス自身もカエサルポンペイウスに比べて大きく見劣りする自分がわかっていた。この二人に負けないのは財力だけ。クラッススは軍功を求めてB.C.55、自費で整えた軍団を率いてパルティア(現シリア〜イラン、イラク)へ向かったのでした。この時期、ローマに攻勢かけてきたわけでもないパルティアを攻める不合理と、最高司令官としての資質も経験も不足なクラッススが率いた軍団は、パルティアに負ける。3万以上いた軍団のうち2万は戦死、1万は捕虜としてパルティアの辺境で終身労働して果てる。ローマに帰ることができたのは、わずか五百人ほどだったとか。B.C.53クラッススはパルティア軍の手に落ちて生涯を終えます。この3万のローマ兵も、もしカエサルに率いられていたら勝利を重ねてローマに凱旋できただろうに、クラッススが率いてしまったがために3万人の人生が大きく狂ってしまった(これは現代の会社組織でも似たようなことがあちこちで起こる)。

こうして、三頭政治は崩れていきました。

ポンペイウスは鎹となっていた妻でカエサルの娘ユリアの死をきっかけに元老院派に取り入られ、クラッススに至っては功を焦ったあげく無茶な作戦を展開してローマ兵を犠牲にしながら命を落とした。

ガリア戦役が終わる頃には、三頭を崩して勢いづく元老院派が攻勢に出る。

しかし、カエサルはそれを見越していたかのように体勢はすでに整っていた。ガリアの戦功で市民を熱狂的に味方につけ、ガリアに政治的経済的な後ろ盾を持ち、そして8年間の戦役をともに戦い抜いた最強の軍団をもった。そうポンペイウスクラッススに補ってもらっていた機能を自身に備えていたのです。

ガリアを平定したのち、今度は元老院派とカエサルの攻防が始まります。しかしこの攻防もこの時点、準備段階ですでに勝敗は決していたと言ってもいいでしょう。

 

ローマは再び内戦の様相を呈していくのです。

 

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