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古代ローマ小話 暴君ではなかった暴君たち

コロッセオの落成式が行われたのが紀元後80年。そこに至るまでには様々な紆余曲折がローマにはありました。

カエサル帝政ローマをグランドデザインして、その後を継いだアウグストゥスローマ帝国とパクスロマーナを完成させ、アウグストゥスカエサルの期待以上の才覚によって、皇帝として、そして神として祀られるほどの功績を残しました。紀元後14年、76歳でアウグストゥスが亡くなってからのローマは、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロという歴史上「悪帝」と烙印押された四人の皇帝の治世を経て、極めつけは1年の間に三人の皇帝が暗殺により入れ替わるという時代でした。次に安定した平和なローマを復活する皇帝ヴェスパシアヌスが即位するのが69年だから、55年もの間、ローマは長いこと混乱混迷を続けたことになります。

カエサルは帝政をデザインするにあたっては、「優秀な皇帝」は想定せず、「悪帝であっても統治が機能する」ことを前提にした。実際、アウグストゥスのあとに続く皇帝たちは、カエサルアウグストゥスには遠く及ばず、後世の評論家たちから「悪帝」として評価されてしまう者たちです。カエサルと比較されてしまうことには同情せざるをえない皇帝たちだけど、そんな悪帝とされてしまう皇帝たちでも国が成り立っていく仕組みがローマの帝政だったというのはさすがと言わざるをえません。

カエサルはこんな言葉を残しています(意訳です)。

「どんなに最悪な結果となった事柄も、始められた当初は善意によるものだった」

これは歴代皇帝たちにも当てはまります。これから紹介する三人の悪帝、暴君と言われた皇帝たちも最初から暴君だったのではなく、それぞれとても高い志を持っていたのです。

 

第2代皇帝 「暴君」ティベリウス(TIBERIVS CAESAR AVGVSTVS)

54歳の時にアウグストゥスから帝位を継承して、アウグストゥスのような立派な、良き皇帝であることを目指した。皇帝になる前の手腕は、同時代人にも後世の歴史家からも評価が高い。しかし皇帝となると、ほどなく取り巻く者たちの人間性に嫌気がさし、どんどん政治から、人間から遠ざかっていきます。ティベリウスの人嫌いはついに首都ローマで過ごすことをやめるほどで、68歳の時にナポリ近郊の地中海に浮かぶカプリ島の山の上、眺望素晴らしい崖の突端に別荘を建て、10年間そこから政務をこなしていたと言います。今で言うリモートワークの先駆けと言っていいかも知れません。ティベリウスの人嫌いは相当なものだったとか。

皇帝になる前も皇帝となったあともティベリウスの政治は、思慮深く国内外の問題に対処していたと評価されている。一方で対立する元老院を骨抜きにしたリモート統治や一部反対派に対する粛清が行われたことによって時空レベルで一部の歴史家から「恐怖政治を行った悪帝」のレッテルが貼られたのでした。これは記録を残す側に元老院派が多かったためであって公平な歴史判断ではなさそうです。

ティベリウスが過ごしたカプリの別荘は、人里離れた断崖絶壁の上に立つといい、地中海を見下ろす眺望素晴らしく、人を寄せ付けない場所にあるそうです。僕も引退したらこう言うところに住みたい。もしティベリウスが暴君であるなら、こんな場所に十年も隠遁するだろうか?と疑問に思ってしまいます。ティベリウスは悪帝に仕立て上げられてしまった人だと僕は感じます。

 

第4代皇帝 「暴君」ネロ (NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS)

もしかすると世界的にカエサルより知名度が高い皇帝かもしれません。しかも「暴君ネロ」として。

しかしこのネロも実は皇帝になりたての頃はとても志高い人でした。前帝カリグラが暗殺され、ネロが皇帝となったのは16歳、皇帝に即位する頃は聡明な哲学者 セネカを家庭教師に、多くを学び指南を受け、立派な皇帝となるべく励んでいました。しかしネロもまた、権力に群がる周囲の人間たち(元老院議員)や身内によっておかしくなっていきます。皇帝の周辺は実母や兄弟ふくめて権力を掠め取ろうと策謀渦巻く。元老院もネロの権力を利権のために悪用図る。

そんな世界に嫌気がさし、やがてネロは政治よりも演劇や楽器の演奏と言った芸能の世界に深く肩入れ(逃避)し、そのうち皇帝自身がアーティストとして、俳優として出演をするようになる。上手い下手はともかく、皇帝自らが芸能活動をするようになってしまうのでした。この時点では「暴君」というより「変人皇帝」という方がしっくりくる。先生であった賢人セネカもネロのもとから追放され、ネロの異常さは加速していく。

皇帝の御乱心によってローマ社会が悪化する中で、「ローマの大火」という大事件が起こります。これはローマの街の大半を焼き尽くした大火事でした。ローマ街が燃えさかる様を高台から観ながら、それを陣頭指揮をとって沈静化しなければいけないはずのネロは、リュート(ギターのような当時の楽器)を弾き、歌いながらローマが燃え盛る様子を眺めていたと言われています。

*カラバッジオ作「リュート奏者」(Caravaggio "Der Lautenspieler" )

そして、このローマの大火の原因を当時新興宗教だったキリスト教徒を犯人にしたて、キリスト教徒の大量処刑(虐殺)を執行する。後世、ヨーロッパ社会はキリスト教世界になった。ネロが暴君として広く定着したのはキリスト教徒への大迫害を行った最初の皇帝だからだと言われてます。

最後はネロは元老院によって「国家の敵」とされて、自刃します。

最後の言葉は「これで一人の芸術家が死ぬ」。

皇帝としてこの言葉はあまりにも滑稽なのだけど、最初は高い志をもって良い国を作ろうとした若き皇帝が、自分の人生への皮肉を込めた悲しい言葉のようでもあり、なんとも悲しい。

 

第11代 「記録抹殺」ドミティアヌス(TITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS AVGVSTVS) 

コロッセオを建てた皇帝ヴェスパシアヌスの次男。前帝ティトゥス(長男)がポンペイを襲ったヴェスビオ火山噴火をはじめ次々と起こる災害の対策に奔走して、わずか在位2年で早死にしてしまったために、急遽皇帝となりました。皇帝就任時30歳だったドミティアヌスはそれまでさしたる軍事経験も統治の経験もなし。しかしドミティアヌスの目指す皇帝像は国家の安全保障を重点におく、非常に真っ当なものでした。対ゲルマニアの防壁を建設し、兵士を給料UPしローマの国防をより強化して蛮族の侵入を未然に防ぎ国の安全保障を盤石なものにしていきました。ローマには現ナヴォナ広場であるドミティアヌス競技場始め、ドミティアヌスの名前を冠した公共建造物が帝国各地に結構ある。普段の立ち居振る舞いもエレガントに皇帝らしく、を心掛けた。非常に良き皇帝に見えるのだけど、ドミティアヌスは紀元96年、在位11年目に暗殺され、その後元老院からは「記録抹殺刑」として罰せられることになるのでした。

ドミティアヌスはその治世で、告発者を多用して元老院の反皇帝派を徹底的に排除したのでした。元老院議員たちはこれに反発。最後は皇后付きの奴隷に暗殺されてしまった。

 

後世に暴君、悪帝とされた皇帝たちは、即位当初は暴君ではなく、それぞれ良き皇帝であることに努力していました。そんな彼らを「暴君」「悪帝」に変えてしまったのは、実はその周りの官僚や元老院議員、そして権力欲剥き出しの身内だったと言えるかもしれない。

 

もうひとつ。記録は必ずしも正確でも公平でもない。それを書いた人物の思想や立ち位置で、いかようにも印象は変わる。これは歴史資料もビジネスシーンでの日常も同じ、正しく判断するために、情報は気をつけて取り扱わなければなりません。

 

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