
Basilica di San Pietro / サン・ピエトロ大聖堂
テベレ川から見るサン・ピエトロ大聖堂はとても大きく優雅に見えます。
カトリックの総本山として古くから巡礼者が訪れて、また永遠の都ローマでミケランジェロやベルニーニなどの天才たちが作り上げた空間を一目見ようと世界中から多くの観光客が押し寄せるサン・ピエトロ大聖堂とはそういう場所です。そして高さ120m,奥行き211m,横幅156mの大きさはキリスト教会としては世界最大の大聖堂なのです。

◾️起源
紀元後64年「ローマの大火(ローマを襲った大規模な火事)」が起こります。時のローマ皇帝ネロは「この大火の原因はキリスト教徒にあり」と濡れ衣を着せ、大勢のキリスト教徒を残虐に処刑する出来事がありました(これによってネロは2000年に渡り暴君の筆頭であり続ける)。この大量処刑の場所が、皇帝ネロの競技場であり、現在サン・ピエトロ大聖堂がある場所なのです。この時、十二使徒の筆頭ペテロがこの場所で殉教しました。最もイエスから信頼され「天国の鍵」を託されたペテロはイエスと同じ罰は受けられないと自ら「逆さ十字」にかけられ殉教したと言われています。

![]()
当時はまだ新興宗教だったキリスト教にとっては受難の時代でした。ペテロが殉教した場所に小さな墓が建てられて、その後法王アナクレトゥスによって簡素な礼拝堂が建てられたと言います。これが今に続くサン・ピエトロ大聖堂の起源となります。
それから約260年後の324年、キリスト教を公認した大帝コンスタンティヌスは、 ペテロが殉教したこの場所にペテロにささげる聖堂、サン・ピエトロ聖堂の建設を開始します。バシリカ様式の聖堂はコンステンティヌスの息子コンスタンティウスによって引き継がれ349年に完成します。今とは全く違う姿でした。その後も歴代法王によって少しずつ大きくなっていった最初のサン・ピエトロ大聖堂は1000年にわたり存在したのでした。

*最初のサン・ピエトロ大聖堂
◾️復活
しかし千年もの時間を経て、サン・ピエトロ大聖堂はすっかり老朽化して廃墟のようになってしまった。ルネサンス期のローマ教皇たちはその再興を図ります。1505年に教皇ユリウス2世は新大聖堂のための設計コンペを行った結果、ブラマンテの案が採用され、サン・ピエトロ大聖堂の改築が始まるのでした。

*ネロの競技場と最初のサン・ピエトロ大聖堂と現在のサン・ピエトロ大聖堂の位置関係
新古典主義の聖堂としてギリシア十字(縦横同じ長さの十字架)で設計されたブラマンテ案は工事が始まるも構造設計的な欠陥もあり難航します。そしてブラマンテの死と共に工事は中断されて、その後にラファエロ初め数名の芸術家にこの工事を引き継ぎますが遅々として進まず、最後に切り札のように法王が指名したのが71歳のミケランジェロ。ミケランジェロはこのサン・ピエトロ大聖堂の復活の仕事を請け負います。晩年の17年間という時間を、無給で、大聖堂復活のために尽くしました。最後クーポラ建設を残したところでミケランジェロは1564年に亡くなってしまいます。しかし、その後引き継いだ建築家たちはミケランジェロのプランを忠実に実行し、1593年クーポラは完成して、ミケランジェロの設計によるサン・ピエトロ大聖堂が完成しました。

◾️変容
ミケランジェロの大聖堂はギリシア十字(縦横同じ長さ)でした。今のサン・ピエトロ大聖堂とはまだ少し違う形をしていました。17世紀に入って大聖堂はラテン十字に改築されることになります。このとき設計コンペで優勝したのが建築家カルロ・マデルノ。マデルノによって礼拝堂が付け加えられ、ミケランジェロのプランと違和感がないように東側に身廊が延長され、さらに現在見られるファサードが付け加えられます。巨大なコリント式の円柱が並び、九つのバルコニーを持ったファサードの上には、イエスとヨハネ、そしてペテロを除いた11人の使徒の像が並びます。

この時の工事は「ティヴォリのトラヴァーチン(石灰華の石材)を全部吸収した末に完成した」と言われるほどの大規模なものだったと言います。
マデルノは1629年に亡くなり、その後工事を引き継いだのはべルニーニでした。ベルニーニは内部をバロックに仕上げ、十字の中央にある天蓋や、それ取り囲む巨大な彫像などが加え、ほぼ現在見られる姿となりました。