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アヤソフィア0 生い立ち

アヤソフィア / Ayasofya

「アヤソフィア(トルコ語)」は東ローマ帝国の時代に建設され、もともとはギリシア語で「ハギア・ソフィア(聖なる叡知)」と呼ばれていました。その名前の通り、当時の建築技術の叡智を集めて建設されたビザンチン建築の最高傑作とされる見事な、そして美しい建物です。

「アヤソフィア(聖なる知恵)」とは、アヤイリニ(聖なる安らぎ)、アヤディナミス(聖なる力)とともにキリスト教世界においては神を形容する言葉のひとつだそうです。

その建物は「人類が作り上げた奇跡的傑作」、「建築史上最大のモニュメント」と最高の言葉でたたえられ、建築において、また信仰において、もっとも神聖な場所とされていました。そしてその美しさおかげで、帝国ローマの終わり、オスマントルコ支配下となった後でもイスラムのモスクとして利用され、破壊されることなく現在までその姿をとどめています。また、その姿はイスラム教のモスク建築の基本ともなるのでした。

激動の歴史を生き延びた貴重な遺産。アヤ・ソフィアは僕が死ぬまでにこの目で見たかった建物の一つなんです。

 

現在のアヤソフィアはこの場所に作られた3番目の聖堂で、その前に二つのアヤソフィアが存在しました。そんなアヤソフィアの歴史を辿ってみます。

 

◾️第1のアヤソフィア 360年2月15日完成

312年、コンスタンティヌスが大帝となるため西の正帝マクセンティヌスとの戦いで勝利した裏側にはこんな伝説がありました。

沈みかけた太陽の上に、輝く十字架とHoc Vincs(これによって制服せよ)という文字をコンスタンティヌスは見た。さらにその夜同じ印とともにキリストの幻がが現れて、この印を軍の旗印とせよ、と告げられた。

これに従いキリストを象徴する「X」「P」を軍旗に掲げ、実際に戦いに勝利したコンスタンティヌスはローマを統一して、分割統治に終止符を打ち、ローマ唯一の皇帝となります。326年、コンスタンティヌスは自分を勝利に導いたキリストのための聖堂の建設を始め、360年に息子のコンスタンティウス2世が完成させた。これがギリシア語で「大寺院」を意味する「メガロ・エックレスィア」、第一のアヤソフィアです。

当時木造の屋根と、大理石の円柱を持つ「メガロ・エックレスィア」は404年6月20日東ローマの上流階級とキリスト教を信じる市民との間に起こった騒動の中で火が放たれ焼失してしまいました。

 

◾️第2のアヤソフィア 415年10月10日完成

そのすぐ後、404年から415年にかけて、熱心なキリスト教徒であった皇帝テオドシウス2世は、建築家ルッフィノス命じて第2のアヤソフィアを作らせました。第1のアヤソフィアと同じ規模の大聖堂として建設され、その名残となるポルティコの土台、円柱の基台や梁が現在のアヤソフィアの入り口に残されています。

しかし、第二のアヤソフィアは、完成から約100年後の532年、ユスティニアヌス帝の治世で起こった「ニカの乱」で反皇帝勢力により破壊されてします。

ニカの乱はユスティニアヌスの圧政に不満を抱いた市民による反乱で、第二のアヤソフィアだけでなくコンスタンティノープルの大半が破壊され、最後は3万人の市民が虐殺されて終わるという悲惨な出来事となりました。

 

◾️第3のアヤソフィア 537年12月27日完成

ニカの反乱の終結後、皇帝ユスティニアヌスが「過去にも未来にもない新しい聖堂を」と誕生したのが、現在も残るアヤソフィア。

建設を命じられたのは建築家というよりは数学者だったと言われるアンテミオスとイシドロス。彼らは命を受けて4ヶ月で図面を完成し、532年から537年の約5年10ヶ月という驚異的なスピードで奇跡の建物を完成させました。建設時には1万人の職人を五千人ずつ、100人の親方を50人ずつ2組に分け、聖堂の両面から競うように工事を進めさせ、常に競争させるように建設を進めたという記録が残っており、これが工期を短く建設された一因と言われています。

完成したアヤソフィアは、栄華を極めたソロモン王がエルサレムに建てた神殿に優ると評され、ユスティニアヌスはその完成式典で「おお!ソロモンよ!余はそなたを越えたり!」と叫んだと言われています。

当時は今見られるようなイスラム教の4本のミナレットはなく、中央のドームのてっぺんにはキリスト教の十字架が掲げられていました。

557年の受難 地震による被害

完成からわずか30年でコンスタンティノープルは地震に見舞われ、この時アヤソフィアの構造には亀裂が入り、ドームが崩落するという大きな被害が発生しました。ドームの修復、建物の耐震性強化がなされます。その後も989年、1346年にも地震被害を受け耐震構造を強化していきます。その結果、その後も何度か起きる震災ではほとんど被害がなかったと言います。ドームの修復の様子は、アヤソフィアの中央でドーム天井を下から眺めた時にその歪みとして認識することができます。

726年の受難(誕生から194年)

神々を彫刻をとおして表現したローマ人。彼らがキリスト教徒となったとき特に東方正教会で宗教画「イコン」が生まれ、アヤソフィアはモザイクによる美しいイコンであふれていました。

しかし旧約聖書が偶像崇拝を禁止していたことから、726年、偶像破壊運動(イコノクラスム)の時代がおとずれます。華麗なモザイクは偶像破壊の対象となり、アヤソフィアも例外なく被害を受ける。アヤソフィアにあふれたモザイク画は破壊されて、質素な十字架にとって変わったと言います。843年に聖像崇敬が復権すると、皇帝の名により再びアヤソフィア内部は美しいモザイクで埋め尽くされたと言います。

 

1204年の受難(誕生から672年)

この頃、勢力を拡大しつつあったイスラム教徒に対して、キリスト教世界は「十字軍」という形で対抗しました。エルサレムを奪還すべく1096年に始まった遠征は、この時には4回目の十字軍遠征となったのでした。

しかし、第4次十字軍はその矛先を同胞であるはずのギリシア正教にむけた。1204年ベネツィア軍を中心とした十字軍は当時最も裕福だった街コンスタンティノープルを占領し、大規模な殺戮と略奪をおこなった。

このときにアヤソフィアからはおびただしい数の財宝が持ち出され、黄金のモザイクも剥ぎ取られた。創建以来もっとも激しいダメージを受けたと言います。

 

1453年の受難と延命(誕生から922年)

難攻不落と言われたコンスタンティノープルはついにイスラム教徒のオスマントルコ帝国により陥落し、東ローマ(ビザンチン)帝国は歴史から姿を消しました。

この時、オスマントルコのスルタン・マホメット2世はアヤソフィアの中で立ちすくみ、すぐさまモスクへの改修を支持します。そしてこのアヤソフィアからの略奪行為を一切禁止したのでした。

モスクに改修されたアヤソフィアのドームの上は、キリスト教の十字架は取り去られイスラム教の三日月に入れ替わっていました。

この日、アヤソフィアはキリスト教会としての916年間の歳月を終えました。と、同時にイスラム教のモスクとして大切に使用され現代までその姿を残すこととなるのでした。

人類の至宝であるアヤソフィアが「キリスト教会」であった時代に、カトリックと東方正教という違いはあれど、同じキリスト教徒によって甚大な被害をもたらされ、異教徒であるイスラム教徒に救われたというのは、とても皮肉です。

それにしても1204年の略奪の中心となったのはヴェネツィア人。1687年にアテネのパルテノン神殿を破壊したのもヴェネツィア人。。。。(この話はまた後ほど)。

 

1934年のこと(誕生から1402年)

近代トルコ建国の父アタテュルク(ムスタファ・ケマル)により、オスマントルコは終止符を打ち、トルコ共和国が生まれます。アヤソフィアはモスクとしての役割を終え、大規模な修復が行われたあとに博物館として生まれ変わり、現在にいたっています。

 

 
年代 期間 用途 管理
537~1453年 916年間 キリスト教会 ビザンチン帝国、ラテン帝国
1453~1934年 481年間 モスク オスマントルコ帝国
1934年~  66年 博物館 トルコ共和国

 

アヤソフィアが537年に完成してから916年の間にビザンチン帝国ではさまざまな建築技術が考案されたのですが、とうとうアヤソフィアを超えるビザンチン建築は生まれなかったといいます。

また、オスマントルコの壮大なモスク群はアヤソフィアの様式を受け継いでいる。この建物が後世に与えた影響は計り知れません。

これほどまでに歴史と運命に翻弄されながら、現在までその華麗な姿をとどめ続けた建物はほかに見つけられません。

 

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