
ここがまだ「ビザンチウム」と呼ばれていた頃、230年にローマ皇帝セプティミウス・ウェルスがこの場所にローマ戦車競技場を作りました。ギリシア語で「ヒッポドローム (hippodrome)」と呼ばれ、四頭立て馬車による戦車競技(いわゆる競馬)、剣闘試合のほか、反逆者の処刑、政治集会など、娯楽と政治的集会の舞台となってローマ社会の定番の施設として機能していました。完成から100年後、大帝コンスタンティヌス1世がこの街を「コンスタンティノープル」と改め「ローマの首都」と定めた時に、ヒポドゥロームは改修され、10万人もの観客を収容できる長さ450m,幅120mの巨大な競技場となったのでした。330年5月11日にはここで「コンスタンティノープル誕生の式典も行われました。

*四頭立て戦車
今はかつてのようにヒポドローム(Hippodrome)と呼ばれたりトルコ語でアト・メイダヌ(At Meydani)と呼ばれたり、スルタン・アフメット広場と呼ばれたりいくつかの呼び名を持っています。
かつてドミティアヌス戦車競技場だったローマのナヴォナ広場は、空から見るとその戦車競技場としての形がはっきりわかるのですが、ここヒポドゥロームその形はほとんど残っておらず、元戦車競技場のスピナ(中央仕切り島)に置かれていた当時の名残が残されているのみ。

*この写真はローマの戦車競技場「チルコ・マッシモ」の復元模型。オベリスクなどが立ち並ぶ中央に伸びる島がスピナです。
名残1:オベリスク
戦車競技場のスピナの定番「オベリスク」は390年に東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世がエジプトはカルナックのアモン神殿から運ばせたもので、今から3500年前にファラオ・トトメス3世のメソポタミアとの戦争に勝利した記念に作られたオベリスクです。オリジナルは高さ32.5m,重さ300tもありそのまま運ぶことができなかったために、長さ20mまでにカットしてここまで運ばれました。
3500年前にエジプトで作られたオベリスクを1600年前にこの場所に移設して現在に至る。歴史のスケールがおおきい。

↓このオベリスクの故郷カルナック神殿の記事です。
名残2:蛇の柱
ギリシアはデロス島のアポロン神殿から326年に大帝コンスタンティヌスが運ばせたのが、この「蛇の柱」。
もともとは紀元前479年、ギリシアの都市国家同盟がペルシアとのプラタイア戦役に勝利した時に作られた青銅製の記念柱です。三匹の蛇が天に向かって絡みつき、一番上では蛇の頭が直径2mの金の鍋を載せて支えるというものでした。コンスタンティノープルへ移送中に「金の鍋」は失われ、オスマントルコの時代に蛇の頭は破壊されてしまい、現在のような姿となっています。

これらいずれも当時から古代世界エジプトやギリシア・ローマの勝利の記念碑を新しい首都コンスタンティノープルに移設することで街の永続性を示そうとしたと言われています。
名残3:コンスタンティノープルの柱
「コンスタンティヌス・ポリフィロゲニトゥスの石柱」とも言われるこのオベリスクのような柱は、10世紀に皇帝コンスタンティヌス7世が建てたもので、今では、切石が積み上げられた荒削りなオベリスクの形が痛々しいのだけど、かつては青銅と真鍮で覆われた綺麗なオベリスクだったようです。13世紀第4次十字軍でコンスタンティノープルが占領されラテン帝国になった時に、青銅は剥がされ貨幣鋳造に使われてしまったという悲しい歴史があります。

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同じような境遇であるローマのナヴォナ広場は上空から見ると昔競技場だったことが窺えます。ヒポドゥロームはその姿はほとんどわかりません。
ヒポドゥロームでの戦車競技はローマ社会でのいわゆる「パンとサーカス」として市民に提供されたのだけど、7世紀をすぎると東ローマの国力は一気に衰え、戦車競技を提供することができなくなってしまいます。東地中海世界を覆っていた領土はオスマントルコなどの勢力に奪われ領土はどんどん狭くなっていく。そして、1204年の第4回十字軍によりコンスタンティノープルが占拠されるとまるでトドメが刺さったように、コンスタンティノープルを奪還したその後も衰退を止めることはできなかった。ヒポドゥロームは放置されるのですが、1453年オスマン・トルコの支配下になった後も、ヒポドゥロームは破壊されることなく、オスマン・トルコの式典の会場として使用されることもあったそうです。その後ヒポドゥロームは原型を失い、いくつかの「名残」を残して消えてしまいました。
この競技場の出走側には四頭の馬の見事な像がありました。青銅製の像に金メッキを施された彫像で、元々はギリシアかローマから、これもまた持ってきたものでした。そして1204年の第4回十字軍でヴェネツィアに持ち去られ、ヴェネツィアのサンマルコ寺院のファサードに置かれ「サンマルコの馬」呼ばれるようになります。現在は本物は内部に保管されて、寺院のファサードにはレプリカが置かれています。
このヒポドゥロームの名残もオベリスクはエジプトから、蛇の柱はギリシアの神殿から東ローマが持ち去ってきたもの。アヤソフィアの内部の装飾や円柱のほとんどが各地から持ち去ってきたもの。ローマ帝国末期から東ローマが興隆したこの時代、優れたもの美しいものはよそから奪い取ってくるということが普通に行われていました。かつてのギリシアやローマで創造された芸術は衰退して失われ、高水準の作品は自ら作り上げることはできなくなり、優れたものは各地から持ってくれば良い、という時代だったのでした。
東ローマは衰退を止められず1453年で幕を閉じ消えてしまいますが、ちょうどその頃にはどこかから美しいものを奪ってくるのではなく、自分自身で生み出すギリシア・ローマの芸術を復活させる「ルネサンス」という時代が産声を上げていたのです。
古代ギリシア人が起源となり古代ローマ人が育んだ「人間の芸術」は同じローマ人であったはずの東ローマによって、あるいはキリスト教によって一度衰退して、東ローマが衰えることに合わせるようにして、ルネサンスが始まっていく。終わりと始まりが折り重なり進んでいく、歴史とはそういうものですね。