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東ローマの終焉2 十字軍

僕の学校での歴史授業で教わったのは「十字軍はイスラム教徒に奪われた聖地エルサレムを奪還するために1096年に結成された」。十字軍が1096(じゅうじくむ)年に結成されたという語呂合わせのおかげでちゃんと記憶されています。

東ローマの歴史、特に東ローマの終焉と十字軍は深い関わりがあり、今回十字軍について綴りたいと思います。東ローマにとっての十字軍とは「希望の光」であり、「絶望の軍団」でもありました。

◾️十字軍の起こり

キリスト教世界が1054年に「大シスマ(相互破門)」によってカトリック(ローマ)と正教会(コンスタンティノープル)に分裂する一方で、この頃イスラム教国家セルジュク朝トルコが支配地域を西側へ拡大、現在のトルコがあるアナトリア半島を支配下に収めると、東ローマはイスラム勢力の脅威の最前線の状態となるのでした。

1095年東ローマ皇帝はローマ・カトリックの教皇にイスラム勢力に対抗するための支援を打診、その結果1096年に結成されたのが第1回十字軍でした。

キリスト教から見ると、第1回十字軍は7世紀にイスラム教徒に奪われた「聖地エルサレム」奪還することを目的として結成されました。実際の十字軍による遠征ではアナトリアのイスラム勢力に勝利して、1099年に最大の目的である「エルサレムの奪還」に成功します。

◾️十字軍成功による影響

この第1回十字軍遠征の成功はキリスト教、イスラム教双方に大きな変化をもたらします。

イスラム教にとって第1回十字軍は不意打ちに近く、何もできずに街を明け渡したも同然でした。さらにそこで十字軍はイスラム教徒に対して虐殺と略奪の残虐非道の限りを尽くし、イスラム教徒はキリスト教徒に対して怨念と復讐心を強く抱き、イスラム教世界は一致団結へと向かうのでした。

キリスト教にとって、第1回十字軍の遠征の成功によって、東ローマとカトリックに間の宗教的また政治的な軋轢が再び浮き彫りとなり、第2回、第3回の十字軍では表向きの建前とは別に、徐々に十字軍の主体であったカトリック側の「東ローマ軽視」と対立が明らかになっていきます。

 

イスラム世界の団結とキリスト教側の東ローマ軽視によって、第2回以降の十字軍の遠征は第1回とは様子が随分と変わっていくのです。

第2回十字軍(1147-1148年)は当時のフランス王とドイツ王を指導者に遠征したが、結束したイスラム勢力に敗れ失敗に終わる。

1187年にジハード(聖戦)を展開したイスラム勢力によって90年ぶりにエルサレムはイスラム教徒の支配下となり、キリスト教側は聖地を失うことになる。

第3回十字軍(1189-1192年)はイングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世と神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世という錚々たる指導者による遠征を行うが結果的に聖地エルサレム奪還はできずに終わる。

*イングランド獅子心王リチャード1世

◾️そして事変が起こる

第4回十字軍(1202-1204年)では、エルサレムではなく当時イスラムの本拠であったエジプトへの遠征を行うために結成されました。ところが十字軍はエジプトではなくキリスト教徒の聖地の一つであるはずのコンスタンティノープルを攻撃して占領し、略奪や虐殺など第一回十字軍がイスラム教徒に対して行なったと同じことを、東方正教会の首都で同胞であるはずのキリスト教徒に対して行うという悲劇的な行動を引き起こしてしまった。コンスタンティノープルはカトリック系キリスト教徒によって陥落し、いったん東ローマ帝国は潰え、コンスタンティノープルを首都にした「ラテン帝国」なるカトリック国家が誕生することになるのでした。

◾️第4回十字軍とは何だったのか?

この一連の騒動の中心となるのがヴェネツィア共和国で、当時すでに海洋国家として全地中海を行き来するための航海技術と強力な海軍を持っていたため、カトリック教会側はヴェネツィアに十字軍の軍団の輸送と兵站供給を依頼するのですが、十字軍はその代金を支払える状態になく、巨額な借金をベネツィアに負う状況となります。

当時のヴェネツィアのドージェ(元首)エンリコ・ダンドロは、ローマ教皇に対して代金を支払えない代わりに、十字軍を使って当時ヴェネツィアのライバル都市だった同じアドリア海の都市ザラ(現クロアチア)の攻略を行うことを要求し、実行してしまう。

*ティントレットによる、ザラを攻略する十字軍の様子

この時十字軍は同じキリスト教の同胞に対しての虐殺と略奪に手を染めたのでした。ヴェネツィアは十字軍を使って地中海の覇権を確保するために同じキリスト教のライバル都市を潰してしまった。一時はこのことによって第4回十字軍に対して破門の裁定が下るのですが、ヴェネツィアに頼らざるを得ないカトリック教会側は、間もなく破門を解いてしまいます。

更にヴェネツィアはコンスタンティノープルの帝位継承問題に介入し、支援して皇帝の座につかせた皇帝は更に別の皇帝候補に殺害されて、約束した報奨金を得られなかったエンリコ・ダンドロは十字軍を率いてコンスタンティノープルを攻撃します。東ローマも抵抗を試みるが、強力なヴェネツィア海軍に率いられた十字軍が相手では歯が立たず、ヴェネツィアによってコンスタンティノープルは占拠され、3日間に及んで激しい破壊と略奪が行なわれました。

*ドラクロワによる「コンスタンティノープルに乱入する十字軍」

十字軍によってコンスタンティノープル市民に対して虐殺、略奪、暴行、奴隷化が行われその対象は修道女や修道士も例外ではありませんでした。

教会、聖堂、財宝、古代文書、聖遺物までも徹底的に奪い破壊するという行為が行われます。聖遺物としては、イエスの十字架の欠片、聖母のベール、聖人の骨などがローマ・パリ・ヴェネツィアへ持ち去られ、アヤソフィアなどからは黄金の祭壇、象牙細工、モザイク、美術品などが剥がされ、溶かされ、船で西欧へ運ばれたと言います。この時最も有名なのは、現在ヴェネツィアのサンマルコ寺院にある「4頭馬のブロンズ像」。他にも古代ギリシア・ローマ以来の神殿、文献、彫刻は破壊され失なわれてしまいます。

これによって東ローマ帝国は消滅、コンスタンティノープルには十字軍によって「ラテン帝国」なるカトリックの新しい国が作られてしまった。しかし新しくできたラテン帝国は内紛が収まらずに50年ほどで崩壊し、亡命によって難を逃れた東ローマの人々によって1261年に東ローマは復活するのですが、東ローマ帝国としてのこの第4回十字軍による被害は甚大で、すでに人口も文化も経済も衰退を止めることはできなくなります。

 

イスラム勢力からキリスト教徒を守るため、聖地エルサレムを奪還するために結成されたはずの十字軍が、同胞である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、キリスト教徒である市民に対して虐殺と略奪という暴挙を重ねたというこの出来事はキリスト教世界全体にとっても衝撃的な出来事でした。

十字軍に同行した修道士が残した当時の記録がそれを物語ます。

「どれほど多くの罪がキリスト教の名のもとに犯されたことか。
我々は異教徒ではなく、キリストの兄弟を殺し、聖堂を踏みにじった。」

これが第4回十字軍でした。

 

◾️絶望の軍団

東ローマにとってみれば、藁にもすがる思いで打診したイスラム勢力に対抗するための支援要請に、カトリック側は「十字軍」を結成することで応えた。この時十字軍は東ローマにとって「希望の光」だっただろう。ところが4回目の十字軍では、イスラム勢力に対抗するどころか自分達東ローマを壊滅させる「絶望の軍団」でしかなかった。

◾️権益のための軍団

ヴェネツィアにとっては、自分たちの権益を拡大、確実にする十字軍でした。

ライバル都市ザラを壊滅させ、コンスタンティノープルを征服して東ローマ帝国の裕福な戦利品やキリスト教の貴重な聖遺物を得て、更に地中海貿易の権利や港湾都市などを支配下に収める、地中海の覇者としての地位を確かなものにするための軍団となったわけです。

*エンリコ・ダンドロの肖像

◾️分断のための軍団

この第4回十字軍がキリスト教世界に与えた衝撃は大きく、またこの出来事によってカトリック教会と東方正教会の関係は以後約1000年にわたって修復不能に陥ることになるのでした。

 

十字軍はこの後公式には第8回まで(諸説あり)、その他様々な十字軍が発生したのだけど、当初の目的であった「エルサレムの奪還」を果たせたのはほんのわずかな期間だけ、そもそもそれぞれの十字軍の目的が純粋に聖地奪還だったのか、確証が持てない状況であったかもしれません。十字軍に参加した兵士たちの中でその方向性に疑問を持ち、途中離脱したものも多かったといい、対イスラム勢力との戦い以前に権益を孕んだその姿、行動によって、自らのキリスト教世界に及ぼした影響の方がはるかに大きかったかもしれません。

 

いずれにしてもこの第4回十字軍遠征が、東ローマ滅亡を決定的なものにしてしまいました。約400年後の終焉に向けて、坂道を転がるリンゴのように落ちていく東ローマを拾い上げる者はこの先現れることもなく、1453年5月29日の滅亡へと東ローマとコンスタンティノープルは進んできます。

 

もし第4回十字軍によってもたらされた功があるとすれば、それはコンスタンティノープルから聖遺物・財宝・技術者・学者が西欧に流出したことによって、後のルネサンスが生まれる土壌が作られたことかもしれません。

 

 

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