cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

東ローマの終焉3 二つの要塞

13世紀頃にはまだ、東ローマ帝国はギリシア全体とアナトリア半島(現在のトルコのアジア側)の半分ほどを領有していましたが、第4回十字軍によって壊滅的な被害を受けた東ローマは衰退する一方でした。西側のキリスト教世界全体もオスマントルコの勢いを止めることができず、15世紀に入る頃には東ローマ帝国の領土はほとんど首都コンスタンティノープルが東ローマ帝国全領土というほどに縮小します。

 

オスマントルコは1391年から4回コンスタンティノープルの包囲戦を仕掛けますが、それぞれ失敗に終わります。もともと二方を海に囲まれ、陸側はテオドシウス2世の強固な城壁に囲まれたコンスタンティノープルは難攻不落として知られ、過去に何度も包囲されながら耐え抜いたあの街を攻め落とすのは並大抵のことではないと、攻める側も責められる側も認識していました。

 

ボスポラス海峡の中間地点のあたり、幅が最も狭い場所の両端に向かい合うように建つオスマントルコの要塞があります。アナドルヒサル(Anadoluhisarı)とルメリヒサル(Rumerihisari)です。

*ボスポラス海峡 向こうの橋のあたりに向かい合うように2つの要塞があります。

アジアの要塞

オスマントルコ皇帝バヤズィット1世の時にオスマントルコは東ローマの首都コンスタンティノープルをボスポラス海峡を挟んで対峙するところまで迫り、難攻不落のコンスタンティノープル攻略を試みます。1391年に1回目のコンスタンティノープル包囲戦が行われますが撤退。この直後にまず、アナドルヒサル(Anadoluhisarı)を建設します。スルタン・バヤズィット1世は1394年から1395年にかけてボスポラス海峡の最も狭い場所のアジア側にこの要塞を建設し、コンスタンティノープル攻略の前線基地としました。

その後3回のコンスタンティノープル包囲戦が展開されましたが、それぞれ失敗に終わりコンスタンティノープルは生き延びました。

*その後建てられた邸宅などに囲まれた現在のアナドルヒサル

 

ローマの要塞

バヤズィット1世の孫にあたるスルタン・マホメット2世はコンスタンティノープル攻略のために黒海から輸送される物資を断つことの重要性に気付き、アナドルヒサルの対岸に要塞を築きます。それが「ルメリヒサル(Rumerihisari)」。「ルメリ」は「ローマ人の土地」を意味しており、文字通りコンスタンティノープルのすぐそばのヨーロッパ側のローマ人の土地の丘の地形に沿った形で建設されました。マホメッド2世は1452年、二千人の職人を一気に投入してわずか4ヶ月ほどで完成させてしまった。

ローマ側の建築物から石材を奪い取りながら進めたルメリヒサル建設に際して、マホメッド2世は東ローマから抗議を受けます。それを「ボスポラス海峡に出没する海賊対策である」と軽く一蹴して進めます。それが偽りだと思ったとしても東ローマ側は何もできません。

ルメリヒサルが完成すると、案の定海賊対策ではなくボスポラス海峡を通る船に通行税を課すようになります。そしてそれに従わない船は、ヨーロッパ側のルメリヒサルとアナドルヒサルの両側から砲火を浴びることになるのでした。

東ローマ側からするとボスポラス海峡の最も狭いところで両側からの砲弾を掻い潜ることは困難で、通行税を逃れてここを通り抜けることを断念させるに十分な環境となってしまった。

今は丘に沿ったキレイな要塞として観光名所として残っているのですが、実際にボスポラス海峡を行くと、両岸から挟まれ、狙われている当時の威圧感と恐怖を感じることができます。

東ローマは、

この二つの要塞が完成した事によって、相当なプレッシャーを受けると同時にドナウ川、黒海からの物資が自由に入ってこないようになり、以前のような籠城戦ができない環境が作られてしまいました。

マホメッド2世は

静かに、そして着々とコンスタンティノープルを手中に収める準備を整えていったのでした。

難攻不落と言われたコンスタンティノープルは、マホメッド2世の登場によってその運命を大きく動かされることになるのでした。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com