
東ローマ帝国は
地中海世界を受け継いだあと衰退を続けて14世紀末にはほとんど全ての領土を失って、1453年には首都コンスタンティノープルだけがその国土という状態になっていました。国力はすっかり衰えたあとも、それでもコンスタンティノープルという有利な地勢によって東方正教会の総本山として機能し、生きながらえていた。
オスマントルコは
アナトリアで誕生した後、ぐんぐん勢力を拡大して旧ローマ世界を脅かしていました。現代のトルコ、ギリシア、エジプトやカルタゴなどのアフリカ北部はすでにオスマントルコの支配下にあり、オスマントルコにとっての悲願でもあったコンスタンティノープルの攻略に迫ります。過去5回の包囲戦失敗の後、6回目にして万全な体制を繰り広げたのはマホメッド2世。マホメッド2世はオスマントルコに生まれながら、ユリウス・カエサルやアレクサンダー大王の生涯に異様な興味を示し、オスマントルコの皇帝となって以降は「征服者」の称号で呼ばれるようになります。そのマホメッド2世はオスマントルコの悲願であった「あの街(コンスタンティノープル)」の攻略の準備を着々と進めていました。

*フランス貴族ブロキエールがオスマン帝国への旅を記した「海外への旅」に掲載したコンスタンティノープル包囲戦の細密画
オスマントルコの布陣
ボスポラス海峡を挟むように二つの要塞アナドルヒサル、ルメリヒサルを配置、ボスポラス海峡を通行に圧力をかけコンスタンティノープルへの資材供給を制限してその力を削ぎ、マルマラ海とボスポラス海峡をオスマントルコの艦船で埋め尽くし、さらに船を陸上輸送する奇策によって東ローマ側が万全に海上封したと思っていた金角湾にオスマントルコの艦隊展開して、金角湾もコンスタンティノープルの西側の陸地もオスマントルコ軍に溢れる状態。テオドシウス2世の城壁の外にはオスマントルコ皇帝の精鋭部隊「イエニチェリ」2万を核とした総勢10万もの軍団を布陣します。さらにそこから最新鋭の巨大な大砲による砲撃が数週間に渡って続けられました。
東ローマ防衛の実態
東ローマ帝国はローマ教皇に援軍を要請するのだけど、ローマ教皇がそれに応える気配はない。結局コンスタンティノープルで居住地をあてがわれ地中海貿易での利益を享受していたジェノバとヴェネツィアだけが艦船と兵隊を派遣して東ローマの守りにつく。コンスタンティノープル側の兵力は援軍合わせても7000人程度。これは領土がコンスタンティノープルの街だけになって、強固な城壁と海に守られているとはいえ、決して十分な戦力とはいえません。一方で、オスマントルコ側の戦力は陸と海合わせて16万人とも言われ、とても比較にならない戦力差でした。
コンスタンティノープル市民
ローマ教皇からの援軍はなく、圧倒的に少ない兵力で街を守らなければならない状況で、オスマントルコの大量の軍団が海と陸に配置されるのを目の当たりにし、さらには巨大な大砲による砲撃が何週間も続いているという状況にコンスタンティノープルの市民達は、神にも見放され、もうこの時点で自分たちの命運尽きたと思ったかもしれない。
防衛につかねばならない兵士以外の住人は、絶望に暮れて祈りに走ります。聖母マリアのイコンを掲げて街を練り歩き、最後はアヤソフィアに集まり祈りを捧げる。「大帝コンスタンティヌスと同じ名前の皇帝の治世で東ローマ帝国は滅びる」という預言が囁かれ、濃霧の朝には「イエス・キリストも聖母マリアもこの霧に紛れてコンスタンティノープルを見捨てて去っていった」だとか、実際に些細な出来事が絶望に結びつけられていく中で、アヤソフィアで祈ることで、「大ドームの上に大天使ミカエルが現れ敵を東の地へ追いやってくれる」という言い伝えを信じる市民が徐々にアヤソフィアに集まってくるのでした。
最後の夜
5月28日の夜、東ローマ帝国の皇帝コンスタンティノス11世はアヤソフィアの中で最後の演説を行います。降伏するのではなく最後までコンスタンティノープルとその住人たちと運命を共にする、と。
狼煙
5月29日未明に、テオドシウス2世の城壁から狼煙が上がります。これはオスマントルコ軍が動き出したことを知らせる東ローマの狼煙でした。まずオスマントルコの非正規軍(外国人部隊)が城壁へと進軍します。その背後には抜刀姿の2万人のイエニチェリがずらりと並びます。イエニチェリは東ローマ軍を威圧するために抜刀しているのではなく、恐れをなして引き返してくる自軍の兵士を切り付けるため。第一陣として進軍した非正規軍の外国人兵士は引き返した同胞がイエニチェリに切り付けられるのを見て、行くも戻るも地獄と悟るのでした。
やがて、オスマントルコの正規軍も投入され城壁突破に向けた拍車がかかります。トルコ人の正規軍が城壁へと進軍しても砲撃はお構いなしに続き、大砲で城壁を崩すと一緒にトルコ軍の兵士もその犠牲になるのですが、大量のトルコ軍はそんなことお構いなしに戦闘は続くのでした。
東ローマ軍はヴェネツィア軍もジェノバ軍も一丸となって必死に城壁に留まり、オスマントルコ軍の侵入を防ぎます。やがてイエニチェリ本体も戦闘に加わり戦場は熾烈を極めます。イエニチェリの猛攻になんとか持ち堪えていた東ローマの連合軍でしたが、その要であったジェノバ人の兵隊長が敵の放った矢に倒れたことで、戦況が大きく変わります。勇猛果敢に戦いながら各方面に指示を出していた兵隊長を失って混乱に陥った東ローマ軍をイエニチェリは見逃さなかった。イエニチェリが一気に城壁に突撃し、コンスタンティノープルの街に傾れ込みました。
さっきまで城壁に並んでいた東ローマの軍旗やジェノヴァ、ヴェネツィアの旗は次々に堕ちて、オスマントルコの三日月の旗が上がる。それを見てオスマントルコ軍の城壁突破を悟った多くの住民はアヤソフィアを目指します。「大天使ミカエルが現れ敵を追いやる」言い伝えを信じる人々でアヤソフィアは溢れていました。
オスマントルコ軍によるテオドシウス2世の城壁突破は、今度はオスマントルコ軍の狼煙によってオスマントルコの海側の艦船に知らされます。すると東ローマ軍との戦闘をやめ、一斉にコンスタンティノープルの街へ上陸を試みるのでした。これに対してコンスタンティノープルの住人は状況からこの街の陥落を悟り、抵抗することなく海側の城壁の門を解放したと言います。オスマントルコの海軍はコンスタンティノープルを軍事的に制圧するためではなく、富の争奪合戦に出遅れることなく加わるために上陸を急いだ。トルコ兵はコンスタンティノープル陥落後に3日の間であれば、奪ったすべてを自分のものにすることを許されていたからでした。城壁側と海側からも16万人ものオスマントルコ軍が大挙して街の中に傾れ込み、略奪の限りを尽くしました。トルコ兵は興味のあるものだけ奪います。イコンは破られ、十字架などは宝石などだけえぐり取られて捨てられました。
陥落をさとった住人のほとんどが抵抗することなく、捕虜となる道を選んだと言います。アヤソフィアにこもり祈った大勢の市民も無抵抗のまま捕虜として全員が連れ出されることになります。陥落後にトルコ兵の半月刀で斬り殺されたのは4千人と言われ、この時のコンスタンティノープル市民は4万なので、大都市陥落時の犠牲者数にしてはとても少ないと言われています。これはトルコ兵が城壁突破直後に、誰彼構わず斬りつけたものの、市民が無抵抗であることがわかったため、以降は捕虜にしていったためでした。
オスマントルコ軍が略奪に明け暮れている間、生き残ったジェノバ人とヴェネツィア人は自分達の船で故郷に向かって出航したと言います。
それぞれの君主
東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は
戦況混乱の中、紅の大マントを捨て、帝位を示す一切のものを外した上で、敵の大群に中に切り込み散ったと言います。その亡骸は見つかっていない。
マホメッド2世は
正午過ぎに身支度を整え、自ら征服した街コンスタンティノープルに入城しました。略奪に夢中の自軍の兵士たち横目に街を進み、アヤソフィアを目指します。そしてアヤソフィアに到着するとマホメッド2世は馬をおりてアヤソフィアの中に入り、東ローマ最高の建築をしばらく愛でるように眺めると、すぐさまこのアヤソフィアをモスクにする指示を出すのでした。コンスタンティノープルは「イスタンブル」と改名し、オスマントルコの首都として現代まで続いています。
こうして、過去20回もの包囲戦にも耐えて難攻不落と言われたコンスタンティノープルはついに陥落し、東ローマ帝国は滅亡したのです。1453年5月29日は紀元前753年から約2200年続いた古代ローマ直系の国家が消えてなくなった日となるのでした。