
9つの都市が重なり眠る場所トロイ。シュリーマンが興味を示さなかったホメロス以外のトロイの遺跡たちを辿ってみます。

◾️第Ⅰ市(BC3000-2500)
トロイの中で最も古い最初の都市。紀元前3000年というからエジプトのクフ王のピラミッドより古い時代に建てられたもの。初期の青銅器時代に区分され、第Ⅵ市のような精巧な石積みと違って、まだまだ荒いレンガによる建物や城壁が作られていたと言います。直径約100mの円形都市で、発掘調査によって火災によって滅亡したと考えられている。

下の写真は第Ⅰ市の中、メガロンと呼ばれる建物跡の石積みとヒサルリクの田園風景が重なる、現在のトロイで一番印象的な風景でした。

◾️第Ⅱ市(BC2500-2200)
火災で滅んだ第Ⅰ市の上に再建されたのがこの第Ⅱ市。規模がほんのちょっと大きくなって直径110mほどとなりました。石灰岩と日干レンガを使った立派な城壁と見事なスロープが残っています。明確な都市計画に沿った街づくりがされたことが発掘調査によって明らかになっています。この第Ⅱ市からはろくろで作られた陶器や金属製の武具道具、アクセサリなどが発見されており、第Ⅱ市の時代に工芸技術が飛躍的に進歩したと考えられています。
そしてこの第Ⅱ市も火災により滅びました。

シュリーマンがこのヒサルリクの丘の発掘を始めて最初に発見した黄金のアクセサリ、後にいう「プリアモスの財宝」「ヘレネの宝石」を発見したのがこのスロープの脇だったと言われています。1mもの灰の下から黄金のアクセサリを見つけたシュリーマンはすぐ様、これが「ホメロスのトロイの財宝」であり、ここ、今でいう第Ⅱ市が「ホメロスのトロイ」であると決め付け、大喜びだったそうです。
のちに行われた考古学的調査の結果、実際にはここはもっと古い時代の第Ⅱ市の遺跡だったわけですが、この遺跡は当時の生活水準の高さや技術レベルの高さを現代に伝えていて、その水準には驚くばかりです。それら様子からすればシュリーマンがここが「ホメロスのトロイだ!」と思いたくなるのも、確かに無理もないのかもしれません。
このスロープの更に奥にはメガロン様式建物の遺跡があったというのだけど、参考文献である現地で買ったトロイの本の表現をそのまま使うと「シュリーマンが掘りまくったおかげでほとんどが破壊されてしまった」そうです。
第Ⅲ市、第Ⅳ市、第Ⅴ市の遺跡も同様に、シュリーマンが掘りまくったために、ほとんどが破壊されてしまったとされていて、遺跡や出土品もあまりないと言われています。ただ、都市としての第Ⅲ市から第Ⅴ市は、第Ⅱ市と比べて文明的に後退したとも言われ、出土されたものは第Ⅱ市で発見されたような黄金も、レベルの高い工芸品もなく、質素な陶器や青銅器ばかりだったと言います。これはその後に生まれるトロイの最盛期第Ⅵ市に向けての文明的な助走期間だったと言えるかもしれません。
第Ⅵ市、第Ⅶ市は先に紹介した通り。
◾️第Ⅷ市(BC700-350)
第Ⅶ市が滅びた後の約300年間、トロイには人は住まなかったと言われています。
そして紀元前700年ころになって、ギリシア人がこの地にヘレニズムの街「イリオン」を建設します。それが第Ⅷ市。
ギリシアの人々は、この場所がホメロスが語るトロイであると信じて、この場所を再興したと言います。「イリアス」や「オデュッセイア」を読んだ人々がトロイを求めてこの場所に街を作り聖地に仕立て上げた。女神アテナを祀る神聖な場所=聖地として街ができ、アテナ神に捧げる生贄の儀式が行われ、その祭壇や井戸の後がこの場所に残っていると言います。第Ⅷ市はホメロスのトロイの聖地巡礼の場所という性格が強かった。

◾️第Ⅸ市(BC350-AD400)
そしてこの時代は、文化的には第Ⅷ市とあまり変わらないが、街の規模も大きくなったこともあり第Ⅸ市として区別される(現在、紀元前85年にミトリダテス戦争を機にローマの都市に生まれ変わった時点を第Ⅷ市と第Ⅸ市との境という説もあるのだけど、ここでは手持ちの現地で仕入れた資料をもとに記述を続けます)。
ギリシア人は元々青銅器時代の遺構があった場所を取り壊してアテナ神殿や付随する列柱楼、記念門を建設して聖地を作り上げました。それはローマ人にも継承されてトロイのアテナ神殿はトロイの街が滅びるまで存続されたと言います。
今トロイの遺跡にはこのローマ時代に作られたアテナ神殿の遺構があちこちに、そして寂しげに散らばります。
神殿の天井部分の遺構。格子状に段々と深くなっている構造はローマのパンテオンの天井にも繋がっていきます。

コリント式、ドーリス式の円柱部分が無造作に転がる遺構。神殿そのものはコリント式円柱が使われ、列柱楼にはドーリス式が使われたんだろうな。。。と妄想が広がります。


紀元前85年にはトロイはローマの街となります。
半円形劇場や議事堂といった建物が第Ⅵ市の城壁の上に作られローマ都市としての色が強くなってきます。
ローマ人は自分たちの起源がトロイ人(トロイ戦争の生き残りの「アエネイアス」)だとしていたこともあり、この街にはいっそうのこだわりがあったと言います。カエサル(BC59-44)、アウグストゥス(BC31-AD14)の時代にトロイは大発展を遂げることになります。更に大帝コンスタンティヌス(BC324)は首都遷都の候補地としてトロイアを挙げていたといいます。もし海岸線が昔のままトロイの街のすぐ外にあったなら、東ローマ帝国の首都はコンスタンティノープルではなくトロイだったかもしれません。

トロイ戦争で最強の戦士と言われたアキレウス。かつてはトロイのどこかに、トロイでアキレス腱を射抜かれて命尽きたアキレウスの墓があり、マケドニアのアレクサンダー大王はトロイを訪れて、アキレウスの墓に献花したと言われています。
このトロイにはローマのユリウス・カエサルも訪れたといい、ホメロスのイーリアスを興味を持って読んだ人々は有名無名関係なくこの地を訪れたようです。
この第Ⅸ市を最後にトロイの街は歴史から姿を消すことになります。
理由は海岸線の後退により、この場所の「地の利」が失われたからだとされています。
優れた文明をいくつも育んで、トロイア戦争ではギリシア連合軍の攻撃を10年もの間耐え抜いたこの城塞都市は、このあと1400年もの間地中に眠ることとなるのでした。
◾️トロイの発掘
そして第Ⅸ市が衰退してトロイの街が世界から忘れ去られてから1400年後、トロイの街は思い起こされ、現実に存在した街として認知されることになります。ここシモイス平野の田園の中、ヒサルリクの丘に伝説のトロイが眠っていることを、最初に目をつけたのはイギリス人のカルヴァールト。1865年のこと。でもいろいろあってトロイを発見したと歴史に名を残したのはドイツ人のシュリーマン。

見渡す限りのどこにでもある田園風景のように見えるが、カルヴァールトやシュリーマンはヒッサルリクの丘が「ホメロスのトロイア」の地勢によく似ている!とぴんと来たというのだけど、実際にトロイの遺跡に立ち、周りを見れば見るほど、よくぞここを掘り当てたものだと関心してしまう。こののどかな景色を眺めながら、カルヴァールトやシュリーマンの「トロイを見つける」という執念も地面から伝わってくるようです。