cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

エフェソス1 市民が作った街の中枢

早速、二千年前の街に入ります。ここは公衆浴場や音楽堂、市庁舎やアゴラといった公共施設が集まる場所。エフェソスの政治の中心であり、市民の憩いの場でもありました。

 

◾️ヴァリウス浴場

エフェソスの遺跡見学でまず最初に現れるのがヴァリウス浴場。見学順で言うと最初なのだけど、実際には街の一番端にある

2世紀後半にフラウィウス・ダミアヌスという裕福な弁論家(ソフィスト)が建設、あるいは大規模な寄進をしたと言われています。浴場には冷水浴、温水浴、熱水浴の各浴場があり、休憩所や読書室を完備した公共浴場でした。4世紀には裕福なキリスト教徒であったスコラスティキアという女性によって改修されました。

 

ヴァリウスの浴場の左手には、こんな筒状の焼き物が大量に積み上げられています。これは古代の水道管。古代ローマの都市は上下水道が完備されており、エフェソスにも街の地下にはこんな水道管が埋め込まれて、各施設や広場の泉水、家庭に水を供給していたのです。この水道管が人口25万の生活を陰で支えていたのです。

そしてこの水道管の後ろ側はアゴラ(公共広場)だった場所です。

アゴラ(Agora)は古代ローマ風にいうとフォルム(Forum)であり、公共の広場を意味します。市民の広場として使用されていた公営アゴラの周りには市庁舎はじめ公共施設が集まっています。アゴラはヘレニズム期に形成され、その周辺の施設群によって政治、宗教、経済の中心として機能し、街の中枢の役割を果たしていました。

バシリカは、当時長さ165mの列柱廊に屋根がついたような、細長い建物でした。公共アゴラの北側の端に位置して、かつては様々な商品取引がここで行われていて、時には裁判所としても機能していたと言います。現在は円柱の一部が並んでいて当時のバシリカの姿を想像することができます。

バシリカの列柱の中でわずかに柱頭まで残っている円柱が三つあります。バシリカの円柱の並びに立っているのですが、なぜか様式が混ざって、イオニア式とコリント式の円柱が交互に並んでいる。なぜこうなっているのかは謎のまま。

 

 

◾️半円形劇場

アゴラの向かい、バシリカの道を挟んだ隣に現れるのは、ちょっと小ぶりの1500人を収容する半円形劇場。正式名称はボレテリオン / Bouleuterionですが、オデオン(音楽堂)と紹介されることが多い。この施設は紀元後2世紀にエフェソスの富豪だったP.ヴェディウス・アントニヌスとその妻によって建設され、街に寄贈されました。

22段の階段式の観客席が設けられた劇場の舞台側にはコリント式の円柱が並んでいたと言います。

ここでは劇や音楽会はもちろん、市議会、法律の審議、公開討論が行われ、活用されていました。

このオデオンを寄贈したエフェソスの富豪P.ヴェディウス・アントニヌスは他にも、女神アルテミスと時の皇帝アントニヌス・ピウスにささげるヴェディウス浴場や、体育施設も作っている。この人はエフェソスの修復を熱心に行ったことでも知られていました。

 

◾️市庁舎

音楽堂の西の隣にあるのがプリタニオン/ Prytaneionと呼ばれるエフェソスの市庁舎(の遺跡)です。市庁舎と呼ばれていますが、実際は行政庁舎のほかに迎賓館として使われていました。紀元前3世紀のヘレニズム期に作られ、紀元前1世紀のアウグストゥスの治世に改築されたと言います。プリュタネイオンは行政の庁舎であり市長や行政官の執務が行われたり、外国使節の歓迎場所として使われたり、公的な晩餐会の場、宗教儀式が行われていた、迎賓館であり、神殿でもありました。

プリュタネイオンの中央には炉があり、そこでは数百年にわたってエフェソスの「神聖なる炎」「永遠の火」が灯され続けたのでした。

このボレテリオン(オデオン)とプリタ二オン(市庁舎)はセットでエフェソスの行政のみならず、外交、信仰の中心であり、エフェソスを永遠に導くための心臓部のような場所として建設され機能していました。

この界隈に建てられた建物を建てたのは「裕福な弁論家」だったり、「裕福なキリスト教徒」だったり、「エフェソスの富豪」だったりします。古代ローマの社会では裕福なものがその街に公共設備を寄贈するのが当たり前に行われていたのですが、エフェソスには裕福になった市民が街に送った建物、公共施設がこの後もたくさん出てきます。

 

遺跡を先へ進みます。

音楽堂とバシリカの間には通路があります。この日は見学者が多く、大混雑。

 

緩やかな下り坂になっている通りを進んでいくとドミティアヌス広場へ到着します。緩やかな下坂と思ってきた道を振り返ってみると、意外とそこそこな斜面だったことにちょっとだけ驚きます。

 

この場所にはエフェソスを象徴するような石の台座があるのです。ドミティアヌス広場に入る手前、道の脇に置かれた彫像の台座のようなもの。

こちら面には再生のシンボル蛇が、

もう1方の面には羊を従えた狩猟、商売、旅人の神エルメスが浮き彫りにされている。おそらくローマ属州の時代に作られたものと思われるのだけど、エフェソスという街の再生の力、商業都市としての誇りに商の神エルメスの浮き彫りを施した。市民の心意気が感じられるものです。

◾️ドミティアヌス神殿

ドミティアヌスはあのコロッセオを建てたヴェスパシアヌス帝を父にもち、紀元後89〜96年に15年間皇帝としてローマ帝国を治めました。公共事業に力を注いだ皇帝だったため、帝国各地にその功績と共にその名が刻まれていた皇帝でした。ここエフェソスのドミティアヌス神殿はエフェソスの市民が皇帝ドミティアヌスを讃えるために、皇帝にお願いして自分達の手で建てたものでした。皇帝の許可を得て、街の有力者たちを中心に資金を出し合い建てたもので、神殿の内部には高さ7mのドミティアヌスの像も立っていたといいます。

しかし治世後半に恐怖政治に転じ、最後は側近に暗殺されてドミティアヌス帝は人生を終えます。そして彼の死後に、元老院はドミティアヌス帝を「記録抹殺刑」に処すのです。その結果、各地に残されたドミティアヌスの彫像は破壊され、「ドミティアヌス」の名はあらゆるところから削り取られ、建物は破壊されたりもしたのでした。。

エフェソスのドミティアヌス神殿でも同様に「ドミティアヌス」の文字は削り取られ、7mの巨像も破壊された。当時はこの神殿の名前もドミティアヌスの父でありコロッセオを建設した「ヴェスパシアヌス帝の神殿」と呼ばれるようになります。

 

ドミティアヌス神殿は2層構造になっていて、1層目は倉庫や商店、2層目が神殿として使われたといい、神殿と言いながらも商業都市エフェソスならではの建物であったと思います。

◾️ニケのレリーフ

ドミティアヌス広場で発掘された、勝利の女神「ニケ」のレリーフ。

一説によれば、クレテス通りの入り口にあるヘラクレスの門にかかっていたアーチの部分だと言われていて、ヘラクレスの門を通る人々に自分達の街が勝利の女神と共にあることを印象付けていたと言います。

その現在にけのレリーフが置かれた場所の向かいにあるのが、メミウスの記念碑です。

 

◾️メミウスの記念碑

ガイウス・メミウスとは紀元前1世紀、共和政ローマの独裁官であった、あのルキウス・コルネリウス・スッラの孫に当たる人物。スッラといえば、カエサルがまだ少年の頃に独裁官として処罰者名簿を作り、自分に刃向かう民衆派の人々を処罰者名簿と呼ばれた粛清リストを作って、容赦無く冷酷に粛清を行い、フォロロマーノに処罰した人々の首を並べた人物。冷酷で残虐非道な独裁者というイメージが強いのだけど、ここエフェソスでは、当時ペルシアの支配からエフェソスを救った人物としてスッラは扱われ、その後親子3代にわたってエフェソスの街の発展に貢献してきたと言われているのです。このスッラとエフェソスの関わりについては、また別の機会に。

スッラの孫であるメミウスは祖父であるスッラと自分達を讃える記念碑を自分で建てたました。それが「メミウスの記念碑」です。

ここまでのエフェソスでは行政や信仰の中心である市庁舎やオデオンを経て、ドミティアヌス神殿やメミウスの記念碑といった、エフェソスの成り立ちを象徴するような建物に触れてきました。

この後、ヘラクレスの門をくぐってエフェソスの中心へと足を運びます。

 

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