cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

小話 手のひらを太陽に

先月、とても気持ちよく晴れた日に熊本の阿蘇に出かけました。僕は年に何回か熊本での週末を過ごす時があって、その時、特に天気の良い日はじっとしてられなくなって、熊本のあちこちを巡ります。阿蘇周辺はその自然のエネルギーと人が共存する不思議な世界に惹かれて、吸い寄せられるようにきてしまうんです。

最近のお気に入りの阿蘇の過ごし方は、五山のひとつ杵島岳(1,326m)に登って、その山のてっぺんで草の上に寝っ転がってしばらくの間、何も考えずにぼーっと過ごすこと。

耳に入るのは、爽やかな風の音に混じって虫が飛び回る音、時々遠くを走るツーリングを楽しむバイクの音が聞こえるだけ。この高さは山の麓はとても暑かったけど、標高1000mちょっとのここは涼しくて柔らかい風が吹くとても気持ちのいい場所なのです。こんなところで寝っ転がれるというのはこの上ない贅沢です。もっとも他に寝っ転がっている人はいませんでしたが。大人になると、地面に寝っ転がって空を見上げるなんてことは普段することはないので、とても貴重な時間です。

僕はこの場所で体を大の字にして、伸びをして、深呼吸して、ぼーっとして過ごしました。

空を眺めながら少し太陽の光が眩しくて、手をかざしてみました。じっくり手のひら越しに太陽を隠して空を見るなんて、いったい何年ぶりだろう?

その時ちょっとした違和感を感じたんです。太陽に手をかざしてみるなんて子供の頃の記憶しかありません。子供の頃、太陽を手のひらで遮った時は、自分の手はもっと太陽の光が透けて見えたよな。今全然透けないな。なんでだろう?って手を裏返してみたり、角度を変えてみたりしてみたけど、子供の頃の記憶にあるような手の透かして見える太陽の光はなく、ほぼ完全に見えなくなってしまってます。

この時少し、寂しくなりました。手の皮が厚くなったのか、これが歳をとったということなのか、そもそもなんで太陽が透けなくなったのか、なんてことを寂しさと共に緩やかに考えながら過ごしていたのでした。

楽しい時間は、いつまでも続くわけではありません。釣りには終了時間がある。僕が熊本で過ごせる時間にも限りがある。どんなに好きな旅先でも、いつかはそこを去らなければならない。そして考えてみれば、人生そのものだって同じです。

それでも半世紀以上自由に生きてきて、まだこんなことを考えながら草の上に寝っ転がっていられる。これはずいぶん幸せなことなのだと思います。

 

そんなことを考えながらこの文章を書いていて、今日が8月6日だということに改めて気づきました。

今日は8月6日、広島に原爆が落とされた日。もうすぐ8月9日、長崎に原爆が落とされた日がやってきます。そこにいた多くの人の人生が、何の前触れもなく一瞬で断ち切られた日。

熊本でも先日の地震で、命を失った人がいる。怪我をした人がいる。住み慣れた家や街の風景を失った人がいる。

人生にはいろいろなことが起きる。それでも、誰もができるだけ穏やかに、自分の時間を生きられたらいいのにと思います。

 

あの杵島岳の風と音が届けばいのに。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

空と雲と 静かな一日

朝4時半に起きて空港に向かい、早朝の便で韓国から熊本へ飛びました。

飛行機は空の上に出て果てしない雲海を眼下に眺めて過ごします。

ちょっとうとうとしている間に、いつの間にか雲が切れて、海が広がっていました。

どこに向かって何を運んでいるのか、大海原をいく一隻の船。

対馬の先端。朝のまだ浅い光を反射する海に薄く張り付くような島の先端。

海でこんな模様を見つけました。

扇状に広がる波紋。遠くに船が写っているのを見ると、かなり大きな範囲で広がっているのがわかります。これは一体なんだったんだろう?

 

熊本の大地です。果てしなく続く田んぼがとても綺麗です。

 

この日も無事に終わり、空を見上げるとこんな雲の風景が広がっていました。

 

 

僕はこの震災が起きたとき、韓国にいたので地震発生時点のことはわからない。

僕の熊本の住処は幸運にもほとんど被害はなかったのだけど、僕の周囲の人々とそのご家族・親類で被害を被ったという人は多いようで、正直何の声もかけられない。熊本はついこの間、2016年の熊本地震から10年という節目を迎え、長かった復興の歩みを振り返ったばかり。そのわずか数ヶ月後に、再び震度7の揺れに襲われようとは誰も想像していなかっただろう。熊本の人々の落胆は計り知れない。

この夏の暑さは厳しい。被災された方々も、復旧にあたる方々も、災害支援のために県外から熊本に来られた方々も、どうか体調に気をつけて無事にお過ごしください。

 

今日も静かに1日が終わります。どうか穏やかな日が続きますように。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

エフェソス3 セルシウス図書館

クレテス通りの坂道を歩いていくと、向こうのほうに大理石の神殿のような大きなファサードが見えてきます。神殿のようなといっても、三角破風を持ったいわゆるギリシア・ローマ神殿とは違う特徴的な姿に期待感が高まります。あれはアレクサンドリア図書館、ペルガモン図書館には及ばないものの古代世界有数の蔵書数を誇ったと言われるエフェソスの図書館、セルシウス図書館のファサードなのです。

クレテス通りが終わると、この見事なファサードの全貌が現れます。

 

これがセルシウス図書館の姿。

古代ローマ人の特徴の一つは、他民族の優れた部分は取り入れ進化、昇華させていくことで、建築であれば古代ギリシアの神殿建築を取り入れながら古代ローマ風にアレンジして進化させていく。セルシウス図書館のファサードはローマ建築の行き着いた先の一つと言えるかもしれません。

*この写真は朝エフェソスを訪問した時のもので人がとても少なく静かに堪能できました。

セルシウス図書館はケルスス(Celsus)という名のエフェソスに貢献した政治家を記念してその息子アクィラによって建てられました。ラテン語読みで「ケルスス図書館」とも呼ばれますが、ここでは僕にとって親しみのある「セルシウス図書館」と呼ばせてもらいます。

セルシウス図書館は、紀元前2世紀前半の紀元110〜120年頃に完成しました。修復を重ねながら華麗な姿を現在までとどめているセルシウス図書館ですが、この古代ローマ建築屈指の特徴的なファサードが一体どんな風に生まれたのか、建築家が誰だったのか、僕はとても興味があるのだけど、記録は残っていません。古代ローマの建築家は日本の宮大工と同じで建物に建築家の名前が刻まれることは少ない。セルシウス図書館も誰がデザインしたのかは、後世の人々が知る由もないのだけど、この建築家について僕はこんな風に思う。きっと天才肌というよりは、粘り強く研究を重ねる職人肌だったのではないか。真面目でありながら、ちょっとだけ破天荒で伝統にはとらわれない、美意識は人一倍のこだわりを持つそんな人物だったような気がしてなりません。過去の建築様式や同時代の建築を見て、とことん研究して、ヴィトルヴィウスの建築十書もきっと熟読していたんだろう。そして今までにない、でも一目でローマ建築であることがわかるあのフォルムをこだわりと粘り強さで考案したんだと思うのです。そこに自分の名前はなくても、自分が作り上げたことを誇りに思っている。そんな人がセルシウス図書館を作り世に残したんだろうな。

 

この独創的なフォルムを少したどってみます。

 

古代ギリシア・ローマの建築様式は主に使われる円柱の柱頭のデザインで分類されます。伝統的に一つの様式で作られたギリシア建築に対し、ローマ建築ではコロッセオに代表されるように階層ごとに様式を分けるような幾つかの様式をミックスしたデザインが多くみられます。

セルシウス図書館はどんな様式かというと、1階部分はコンポジット様式。これは伝統的なコリント式(アカンサスの葉)とイオニア(うずまき)式が合わさったようなオーダーでローマ期に考案されたものです。

2階部分は伝統的なコリント様式。ギリシアの神殿の様式としては比較的に遅くに確立された様式で、ローマではもっとも好んで使われた様式です。

印象としてはより重厚なコンポジット様式を1階に使用することで、建物としてみた時に安定して見えるような工夫をしています。また1階に比べ2階の高さを低くすることで、正面に立ってこのファサードを見上げた時により奥行きを演出したり、外側と中央で柱の間隔を少し変えたり、水平方向の線は中央がほんのちょっと膨らみを持って構成されているといった、古代ギリシャから続く視覚補正も駆使して、美しく安定して見える工夫が盛り込まれています。

セルシウス図書館の一番の特徴は円柱を並べた空間の表現です。

一見すると1階も2階も8本の円柱がリズムよく並ぶ構造なのだけど、よく観察すると1階は円柱2本ずつセットの4つの空間があり、2階は両端1本ずつの円柱を独立させ、内側に円柱2本ずつの3つの空間があるのがわかります。おそらくこの変則的なリズムが見る人に独特な感覚を与えて、独創的な印象を作り上げているんじゃないかと思います。

また、2階の3つの空間上部を飾る破風は中央が三角、両サイドがアーチ型となっており、1階から2階へ、そして最上部の円柱と破風のつくるリズムがエレガントな印象を作り出しているのです。

 

ファサード内側に入って上を見上げると、その変則的なリズムの構造を実感できます。それと同時にファサードを飾るその細かな彫刻(意匠)に目を奪われてしまいます。

僕は多分一日中眺めて観察していられると思う。

 

2階中央破風には魔よけのメドューサが彫り込まれています。 ほぼ同時期に建てられたエフェソスのハドリアヌス神殿と同じく、このメデューサがこの建物を災厄から守ってくれるようにとの願いがここにありました。

 

セルシウス図書館には約1万2千巻の蔵書があったと言われており、その規模はアレクサンドリア図書館、ペルガモン図書館と比べたら少ないものの、当時有数の図書館として知られていました。

この頃の書物はエジプト産パピルスを使った巻物状のもので、図書館も筒状の巻物が書架に置かれ保存されていました。パピルスの書物は温度の変化や湿度に弱く、図書館も蔵書を安全に保管する工夫として、石の壁から少し離した場所に木の書架を置いてそこに1万2千の巻物を保存した。石壁から離したこの空間によって、外気からの温度変化を和らげ、パピルスの巻物を湿気から守ったといいます。

*完成当時のセルシウス図書館内部の想像図(A.I.との合作)

 

セルシウス図書館の完成から約100年余りあと、紀元後3世紀にエフェソスにゴート族が侵入し、街もセルシウス図書館も破壊されてしまった。またその後も地震や火災によってセルシウス図書館は元の姿をどんどん失って行きました。

近代になりオーストリア考古学研究所がセルシウス図書館のファサードの復元を試みました。その場に残された元々の石材を使って組み直していく作業(アナスティローシスという手法)はとてつもなく複雑でしたが、1978年に現在の姿にまで復元され一般公開されるようになりました。

2千年前にセルシウス図書館を建てた建築家とこの石を刻んで形にした多くの職人たち。そして一度崩れた建物をパズルを組み上げるようにして再現した20世紀の考古学チーム。この2千年の時を超えて一つの建築に関わったこの人たちの仕事があったおかげで、現代の僕たちが、ローマ建築屈指のファサードを本物として今見上げることができるのです。

 

でも、セルシウス図書館が2千年後まで語り継がれている理由はもう一つあります。

そこには一人の偉大な父と、その父を敬愛した息子の物語がありました。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

熊本小話 初夏の阿蘇

初夏の熊本。久しぶりに阿蘇に行ってみました。

僕は阿蘇のこの火山帯特有の雄大な地形が緑に覆われる姿が見たくて、気がついたらここにきていました。

 

草千里ここも元は噴火口。この時期は柔らかい緑に覆われてとても清々しい景色になります。

こちらは今でも噴煙を上げる噴火口。今はヘリコプター墜落事故の影響で火口見学はできないらしい。

僕の目的は阿蘇の噴火口ではありません。

草千里の近く杵島岳と言うちょっとした山があり、そこに登るのが僕の阿蘇パターンとなりました。

杵島岳は阿蘇五山のひとつ、標高1321mのそんなに高くない、こんもりした山です。しかし侮るなかれ、ひたすらの急斜面を登るのは結構きつい(普段運動不足の僕にとっては)。

でもぜいぜい言いながら一歩一歩太ももを持ち上げながら進んでいって、ふと後ろを振り返ると、こんな景色が目に飛び込んでくるのです。

下に見えるのはさっきまでいた草千里の姿。ここから見るとあそこが噴火口であったことがよくわかります。

 

そして左に視線を向けると、阿蘇の中岳や現役噴火口から休むことなくモクモクと出てくる水蒸気の姿が見えます。美しい緑もその火口付近になると近寄れない。

杵島岳は登るのはかなりキツイのだけど、登りきった時の達成感とそこから見える景色を一度味わってしまうと、今回のようにまた登りたくなる。途中何度も、もうだめだ〜と思うたびにあの景色を味わいたいと思い直して歩を進めるんです。それはまるで仕事と同じ。大変な思いをして、何度も諦めかけて、でも諦めずに達成した仕事は、世間で喝采され喜ばれる。これを一度味わうと、どんな困難があろうともこの先に待っているものには抗えず、辛くても困難でも頑張ってしまう。本当に同じだなって思いながら汗を拭く。

この足元にももと噴火口が見えます。それもいくつも。

杵島岳自体の阿蘇五山の一つ、火山でした。山頂には元噴火口があって、富士山と同じくお鉢巡りができるのです。この季節では噴火口全体が緑に覆われてとても清々しい。

そして雲がとても近い。

おはちの反対側へ回ると阿蘇山系の広大な大地を見ることができます。

杵島岳から見る景色の目玉、米塚です。

米塚もかつての火山。その形は小さな富士山。

この季節、この辺り一体が緑に覆われて、現役噴火口側とは対照的にとても爽やかな空間が広がります。

でも、僕の一番の目的はこれ。

杵島岳のてっぺんで草の上に寝っ転がって、何も考えずに空を見ること。

山頂は気持ちい風が吹いて、草をゆらす音がして、その草の上に僕が寝っ転がって空を見てる。なんて贅沢なんだろう。何もなければいつまでだってここで過ごせそうです。

 

とはいっても、いつまでもここにいるわけにいかず、渋々山を降ります。

下界はかなり気温が上がってきていました。でもウグイスや色々な鳥たちのさえずりがとても心地よい。天上界から現実世界へのゲートのような道です。

この2年間で阿蘇には4度来ました。初めて来たときは野焼きの後の黒く染まる世紀末の異世界のような景色でした。

cmn.hatenablog.com

 

2回目は一面にススキがそよぐ黄金色の世界でした。

cmn.hatenablog.com

 

3回目は大雨降られて雲でほとんど何も見えなかった阿蘇。

 

そして4回目は緑にあふれる爽やかな世界。

阿蘇のこの景色は自然なのだけど、人間と自然と動物が一体になって作り上げたものだと言われます。阿蘇の山々の地球のエネルギーが噴き出す荒々しくも優しい姿と、そこに暮らす人々と家畜たち。野を焼き、牧草を食べ初夏のこの緑の草原を作り、維持していると。

何かに引き寄せられて僕は阿蘇の山に来てしまうのです。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

熊本小話 初夏の熊本

7月、熊本は田植えの時期になる。僕が住んでいる関東の田んぼは5月のゴールデンウィークには田植えが終わるのに、ここ熊本では7月入った後に田んぼに水が入り、苗が植えられる。なんかこんな不思議な気分を味わうようになってから早いもので丸2年が経った。この時期にこの景色を見るのは早いもので3回目になる。

 

この日は朝早くから出かけて、熊本を散策。

田植えが終わったばかりの田んぼ、まだ小さな稲の苗が規則正しく整列しています。これがあっという間に成長していくんです。

緑が綺麗な棚田です。でもここに立ち寄った理由は棚田ではありません。

通潤橋。江戸時代の末期1833年(天保4年)〜1861年(文久元年)に布田保之助という人物が建てた石の橋です。今頃は時間によって橋のアーチの中央から豪快な放水がある。江戸時代こんな技術が日本にあったとは。こんな美意識あふれる誇り高き橋が日本にあったなんて、感動してしまいます。

以前書いた通潤橋の記事です↓。

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

 

通潤橋のある場所からそう遠くない場所で偶然見つけた、同じく石造りのアーチ橋。

これは霊台橋と呼ばれる、1847年(弘化4年)に種山石工の卯助・宇一・丈八3兄弟が中心となってかけられたと言う橋。通潤橋とほぼ同じ時代に同じような橋が建てられている。色々調べるとこの手の橋がこの辺りには他にもあるらしい。こんな石造りのアーチ橋の技術が花開いた地域だったようです。

 

そして熊本城。遠くから偶然少し姿が見えました。

完全復活は2050年、右下の方に少し水色のビニールシートが見える。まだ復興のための槌音が絶えません。元の姿になるのはまだまだ先だけど、後世にこのお城を残すためにも頑張って元の姿に戻して欲しい。

以前、熊本城を訪ねた時の記事です

cmn.hatenablog.com

 

普段は仕事と移動ばかりの熊本ですが、たまの週末、久しぶりに熊本を探索することができました。

 

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

エフェソス2 街の象徴クレテス通り

街の象徴というと、例えば、パリならエッフェル塔や凱旋門、ローマならコロッセオ、イスタンブルならアヤソフィアといったように何かを記念するモニュメントだったり、巨大な建築だったりすることが多いと思います。エフェソスではそれが少し違います。おそらくエフェソスという街を象徴するのはこのクレテス通りなんだと思います。

 

220mほどの坂道に大理石が敷かれ、その両脇には列柱と街に貢献した人々の彫像が並んでいました。坂の先に見え隠れするセルシウス図書館のファサードに向かって歩くととても景色のよい洗練された通りであることがわかります。通り沿いには商店街、泉、神殿、住宅街が並び、一般庶民の生活を感じることができる、その点からもエフェソスを一番よく表す場所であると言えます。

クレテス(Curetes)と言う名前はエフェソスの守護神アルテミスに仕えた古代の祭司団の名前と言われていて、実は近代になって付けられた名前らしい。古代から続く本来の名前はエンボロス(Emboros)通りだったというのですが、ここでは通りが良い「クレテス通り」とそのまま呼ぶことにします。

なぜ、ここクレテス通りがエフェソスを象徴する場所なのか。クレテス通りを歩いて行きます。

 

◾️ヘラクレスの門

坂の上のクレテス通りの起点に立つ、ギリシア神話に登場するヘラクレスが彫刻された2本の柱が立っています。

ヘラクレスの門はエフェソスの行政区域と商業区域を区切るために置かれていました。2本の柱の間隔のその狭さは行政区域への馬車や荷車の侵入を制限する役目があった。また当時この柱の上に、前回紹介したニケのレリーフがアーチ上に載っていたとも言われます。

見学ルートに沿って行政区から商業区へヘラクレスの門を抜けていきます。

 

現在のクレテス通りは大理石が敷かれた道の両脇に円柱と彫像の台座が見られます。この台座にはエフェソスの街に貢献した市民の像が置かれていましたが、現在に残っている彫像は一つだけです。

◾️医師の彫像

クレテス通りに置かれていた多くの彫像は、今は台座だけが残っている。その中で唯一彫像が残されているのがこの像。ヘラクレス門のすぐそばにある彫像で、エフェソスの医師アレクサンドロスの像と言われていて、この街での偉大な功績に敬意を表して作られたものだとか。

 

 

◾️トライアヌスの泉

ここには紀元後2世紀に市民によって建てられた、皇帝トライアヌスにささげる記念噴水がありました。

今ではなかなか原型を想像するのが難しいのだけど、2階建の神殿風建物で中央にトライアヌスの巨大な像が立ち、その足元から豊富な水が流れ出るという建物。

この場所からはかつてこの泉を飾った、アフロディテやディオニソスといった神々や歴代皇帝など、12の彫像も発見されています。

今では基壇とコンポジット・オーダーの柱頭、最上部に置かれたと思われる小さな破風が残るのみ。残された材料で復元された状態からは中々想像難しいのだけど、かつては12mもの高さそびえる2階建の立派な建物だったといいます。

 

この泉と建物は紀元後102-114年頃、皇帝トラヤヌスの治世に作られたもので、一市民であるティベリウス・クラウディウス・アリスティオン(Tiberius Claudius Aristion)とその妻によって建設されました。エフェソスに水を供給する全長39kmの及ぶ新しい水道が作られ、その完成を祝して新設された水道の終端に泉という形でこの記念碑が作られ、街と市民へ送られました。

 

◾️ハドリアヌス神殿

クレテス通りを行くとある建てものに引き寄せられます。

決して大きくない建物で、コリント様式の柱頭を備え、正面のシリア風アーチをミックスしたファサードは見事で、エフェソスを代表する優雅な建物です。

これは皇帝ハドリアヌスを讃え捧げるために建てられた「ハドリアヌス神殿」と呼ばれる建物です。「と呼ばれる」と書いたのは神殿のように呼ばれるけど、実際には神殿ではありません。

在位約20年の半分ほどの期間を帝国領土内を旅して周った皇帝ハドリアヌスは、紀元後128年にエフェソスに立ち寄ったという記録があります。その記念にエフェソスの市民プブリウス・クィンティリウス・ウァレンス・ウァリウス(Publius Quintilius Valens Varius)が私財を投じて建てたのがこのハドリアヌス神殿。

皇帝ハドリアヌスはギリシア文化への造詣深く、当時のギリシア系の都市を手厚く保護したと言われています。このハドリアヌス神殿は、ギリシア系都市だったエフェソスに対し大切に扱ったハドリアヌス帝への感謝の証として建てられたものでした。

 

ハドリアヌス神殿のフォルムは、正面にシリア風のアーチが使われています。これは皇帝ハドリアヌスがオスティアに作った別荘ヴィラ・アドリアーナでも用いられたアーチ様式で、これによってこの建物がハドリアヌス帝にまつわるものだということ連想できます。

また正面アーチ中央には幸運の女神テュケが、奥の半円破風にはメドューサが彫刻されています。

ギリシア神話に登場するメデューサは髪の毛がヘビで見たものを石に変えてしまう力を持っていた。そんな力にあやかってこの時代にはメデューサは「魔除け」として、いろいろな建物に刻まれていました。

ハドリアヌス神殿にも、アカンサスの葉と花に囲まれたメデューサが彫刻されています。

 

内側のフリーズ部の浮き彫り(ここにあるのはレプリカと思われる)。

エフェソスにまつわる神話の物語を4つの場面に分けて刻まれています。当然アテネのパルテノン神殿にあるフリーズと比べるとその彫刻の質は比べるまでもないのだけど、この素朴さが市民が建てた建物としてより愛着を感じることができるのです。

成功を収めた富裕な市民によって記念碑的な建物が建てられる。このハドリアヌス神殿のようなケースはローマ社会の風習としてありました。成功を手にした市民は、公共施設などを私費で建てて街とその市民に恩返しするのです。エフェソスはその風習がとても色濃く残っていて、一市民が建てたとされる建物や施設がエフェソスにはたくさんあります。

そしてこの市民が建てたハドリアヌス神殿は、こじんまりした大きさでありながら細部にこだわりが詰まったフォルムによって、「ローマ建築を代表する」とまで言われる建物となったのです。そしてこの神殿は市民からも愛されて4世紀ごとに修復が行われ、現在まで大切に残されてきたのでした。

 

◾️商店街のモザイク

クレテス通りの西端、通りに沿って一歩外に出ると商店街がありました。長屋のような建物で、同じような間口に仕切られ、その一つ一つが店として使われていたと言います。その玄関口を飾ったのがこのモザイク通廊。

また、商店街の裏手は丘の斜面にそってローマの住宅街が広がっていました。この時は見ることができなかったのだけど、フレスコ画やモザイク画に飾られた富裕者の邸宅の遺跡があります。

モザイク通りで見つけた十字架を彫った何か。エフェソスはキリスト教と関係が深く、時折遺跡の中にその痕跡がみられました。「クレテス通り」という呼び名も「クレテス」という聖職者に由来するという説もあるらしい。

エフェソスとキリスト教との関わりは別の機会に。

◾️公衆トイレ

古代ローマの都市は上下水道が完備された清潔な街でした。この当時ローマの各都市にはここにあるような公衆トイレが街にはありました。

その空間はとても優雅で、円柱が並び音楽も奏でられていたこともあったとか。単なるトイレとして機能する以上に社交の場として使われていたらしい。

長いベンチ式で隣との仕切りはなく、石のベンチにこんな穴がいくつも、等間隔で開いてここで用を足す。

この穴の下は結構深く下の方に下水が流れているという仕組みでした。

公衆トイレに円柱と音楽、古代ローマ社会ではトイレも社交場として利用していた。とは言え、トイレは一人で静かに考える場所としている僕にはちょっと合わない。

 

◾️市民が主役のクレテス通り

実は僕は最初にエフェソスに行った時、クレテス通りで見た皇帝の名前のついたとても小さな神殿を不思議に思ったんです。後からこれが市民が建てたことを知って、この街の見方が変わりました。それまでは「保存状態の良い古代ローマの都市遺跡」、その後は皇帝ではなく「市民が作り上げた誇り高き街」。ここにある建物は決して豪華でも壮麗でもないけれど、ここで暮らしたエフェソスの市民の愛情と誇りが詰まっている。大理石が敷かれたこのクレテス通りの両側に立ち並ぶ彫像は、神でも皇帝でも英雄でもないこの街に貢献した名もなき市民の像でした。

エフェソスは市民が作り、市民が愛し誇りに思えた街で、クレテス通りを歩くとその空気を今でも感じ取ることができるのです。

 

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

空と雲と 月と惑星

この日も無事1日が終わり、やれやれと外を歩くとなかなか表情豊かな雲が空に広がっていました。雲を愛でる会の会員である僕にとって、この不思議な形の雲が浮かぶ空はとてもたまらない姿なのです。

しばらくしてお日様が沈んでしまう頃に、空には雲はかけらも残っていませんでした。その代わりに空に浮かんでいたのは月。日が沈んだ後の地平に広がる黄色い空と漆黒の少し手前の紺色の空のグラデーションがとても綺麗です。そしてそこに僕が好きな三日月が浮かんでいます。


よく見ると、月は明るい星二つと一緒にいます。左下には飛行機が飛んでいます。月、星、飛行機の共演する雲ひとつない空はとても清々しい。



この日の星は木星と金星だったらしい。実は前の日にはさらに火星と天王星(だったかな)が一直線に並ぶ、そんな日だったそうです。惜しい。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com