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旅行の記憶と何気ない日常を

古代ローマ小話 ヴィトルヴィウスの建築書

ヴィトルヴィウスがローマンコンクリートの秘密を記したことを、僕はコロッセオ4で書きました。このヴィトルヴィウス(Marcus Vitrvius Pollio B.C.80頃-B.C.15頃)に関する記録はほとんどなく、何年に生まれ何年に亡くなったのか、どのような人生を過ごしたのか正確な情報はありません。しかしヴィトルヴィウスが残した人類最古の建築理論書「De architectura(直訳すると"建築について”)」は彼の名前を今に伝えます。この「De architectura」はB.C.30年ごろにまとめられ、皇帝アウグストゥスに献上されたと言われます。そしてこの建築理論書は、全10巻に分けて記されていることから「建築十書」とも呼ばれ、欧米では普通に現代の本屋に並ぶ名品です。色々な呼ばれ方をするみたいなのですが、ここでは「建築書」と呼ぶことにします。

建築書の内容は、建築に関する知識や歴史といった建築基礎に始まり、ギリシア神殿建築に関する詳細と、ローマ建築(公共建築や住居、水道など)やそれを実現するためのさまざまな技術とそのための科学、ローマ人が発明した構造、工法、材料、そして機械装置などの記述が網羅され、芸術と科学とエンジニアリング、都市計画が記されています。「建築家」という存在を単なる設計者ではなく、総合的な知識を備えたエンジニアであり芸術家であることを定義付け、建築がガウディの言う総合芸術であることを方向づけたのはヴィトルヴィウスだったのかもしれません。

建築書の十書のそれぞれタイトルは、

  • 第一書:都市計画、建築とその資格について
  • 第二書:建築材料(レンガ、石材、木材、ローマンコンクリートについて)
  • 第三書:ギリシア神殿建築(人体図、対称性など)
  • 第四書:ギリシア神殿建築(伝統的建築様式)
  • 第五書:ローマ公共建築(フォロ、バシリカ、半円劇場など)
  • 第六書:住居
  • 第七書:床や壁の装飾(漆喰、フレスコ、色)
  • 第八書:水の供給と水道橋
  • 第九書:建築に影響与える科学
  • 第十書:建設機械

 

ヴィトルヴィウスは前半、建築書の中で、主にギリシア建築のその意匠や構造の秘密を読み解き賞賛しながら、母国ローマで発明された構造や建設機械についても詳細に記しています。ギリシア神殿のドーリアイオニア、コリントといった建築オーダーの構造ルールを記して賞賛し、半円形劇場は音の伝わり方までデザインしていることを解説します。「ギリシア人すごい!」と記しながら、「ローマ人だってまけてないぜ」とローマ人の数々の発明は誇りを持って書き記されている。そして皇帝アウグストゥスに献上するために書いた部分は、なんだかぎこちない。ヴィトルヴィウスが執筆中の姿が目に浮かぶ。。。

皇帝への慣れない文章を眉間に皺を寄せながら書く、書いているんだけど自分じゃないようで気だるくて、なかなか筆が進まない。あくびをしながら書いていたかもしれない。一転して建築に関するあらゆる説明に関しては、ものすごい集中力とスピードで一気に書き進む。文章が頭に溢れるのに、手で文字を書くスピードが追いつかない。書き漏らした言葉を何度も相応しいと思う表現を当てはめては、入れ替えて、技術者として納得いく的確な説明ができるまで何度何度も書き直す。技術者が嬉々として技術を解説する、夢中で時間が経つのも忘れることもしばしばだっただろうな。建築書を眺めていると、見たこともない、記録もあまりないはずのヴィトルヴィウスのそんな姿が頭に浮かびます。

 

「建築書」はローマ崩壊後も継承されてきました。そして現代に「ヴィトルヴィウス」の名前が広く知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチによるところが大きい。

建築家でもあった万能の人レオナルドはルネサンス期に復刻された「建築書」に触れました。そしてその第三書の冒頭、ギリシア神殿建築の対称性とともに記された「人体の比率」に関する記述に感動して、自分の体を使って実際にその比率を確かめるように手稿に残しています。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に所蔵されるこの手稿は「ヴィトルヴィウス的人体図」として有名で、僕もヴィトルヴィウスの名前を知ったのはレオナルドのこの手稿がきっかけです。

 

建築とは総合芸術であり、神殿建築であってもそのバランスの中心は人体であって、人体のバランスが建築構造の基準となる。人が過ごす時の心地よさと機能を両立するのが建築家であり、さらにその場所、街や自然に溶け込みながら、美しく長く存在するのが理想の建物であると僕は思う。「僕は思う」と書いたけど、ヴィトルヴィウスはそんな理想の建築を実現するために十書を書き残し、それを実践してきた歴代の有名な建築家、また名もない建築家たちが残した作品を見て、僕がそれを感じ取っただけなのだろう。

ヴィトルヴィウスもまた、古代ギリシアの建築家、芸術家からそれらを感じ取ったひとりなのかも。。。

 

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小話 無言館

3月10日は僕の父の命日。今年はそれが日曜日だったこともあり、母と二人でお墓参りに、父母の実家のある長野県上田市へ行ってきました。コロナが終わり、人の移動が以前のように戻ってきたこともあって、移動の新幹線にはたくさんの旅行者が乗っていました。昨年はまだ、少し人出が戻ってきたような感じだったのが、今回はコロナ明けが定常化したことと、空前の円安によって溢れるほどの外国人観光客が新幹線を埋めている、溢れている、そんな感じでした。

父の実家は名湯別所温泉の近くにあり、その山の中腹に「無言館」なる美術館があるのを最近知りました。

無言館」は第2次世界大戦で戦死した美大生たちが残した作品を集めて展示する場所。正式名は「戦没者画学生慰霊美術館 無言館」と言うそうです。

父の実家から車で10分、山の上、木々に囲まれたとても景色の良い場所に無言館はありました。

建物はコンクリート打ち放しの近代建築、教会のような内部は十字形のホールとなっていて、とても落ち着いた雰囲気の中で作品を鑑賞することができます。

展示作品のジャンルはさまざまで、戦争とは無縁の、自由でのびのびとした作品ばかり。そんな瑞々しい作品が並ぶその片隅で、作者である画学生のほとんどが20代前半から30歳前後で戦場に散っていることが伝えられています。作品とともに、ご本人の写真や遺品が展示され、どんな学生によって描かれたかを知ることができるのでした。

芸術家としての将来に、希望を膨らませながら描いたであろう作品を前にすると、なぜこの若者たちが絵筆を銃に持ち替えなければならなかったのか、そしてなぜ命を絶たれねばならなかったのか理解に苦しみます。長い人生の中では、20〜30歳なんてまだ自分が何者かまったくわからない、30過ぎて40歳に至るころに色々なことがわかってきて人生の醍醐味や本当の楽しみを知るようになってくるのに、それが許されないなんて。自分自身の今までの人生を考えたり、うちの子供たちとこの作品を残した学生たちを重ねてみたり。。

この若者たちが命を絶ってから、わずか80年ほどしか経っていないのに、運命のこの違いはなんなんだろう。

 

ここは、夢を捨てることを強要され命断たれた若者とその家族の無念を感じる場所。戦争という狂気を忘れないための場所なのです。

 

無言館がある場所からは上田の清々しい景色を眺めることができる。

上田もすごい勢いで開発が進み、街は大きく進化しました。小さな視点では目まぐるしく変化する上田の街ですが、この場所から見る上田の景色、雄大な山々と田園の風景は大きく変わることはありません。こんな場所に無言館はあります。

無言館は、この場所で忘れてはいけないことを静かに示しつづけているのです。変わることのない景色とともに。

 

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コロッセオ4 その材料

72年にヴェスパシアヌス帝によって始められたコロッセオの建設工事は、その長男ティトゥス帝に継承され、80年にほぼ完成し落成式が行われました。その後、次男ドミティアヌス帝が行った工事は最上層の座席の整備と、天幕システムなので、実質的にコロッセオは72年〜80年のわずか9年で完成したことになります。

一概に比較は難しいものの、中世ヨーロッパのゴッシック教会建築などは百年、二百年はあたりまえ、五百年かけてようやく完成したものがザラにあることを考えると、このコロッセオの巨大さで9年ほどで完成というのは驚異的な早さです。

それにはコロッセオに用いられた材料にその秘密があるようです。

◾️トラバーチン

コロッセオの主な石材は「トラバーチン」という石材が多く使われています。トラバーチンは石灰岩の仲間。温泉が近い場所で産出されるといい、トルコのパムッカレに見られる白い石灰棚と同じ、鍾乳洞を形成する鍾乳石と同じ白い石。

*トルコはパムッカレの石灰棚

加工がしやすく、軽く、高い強度を持つのが特徴の石材で、ローマ近郊のティヴォリ(Tivori)が当時から有名な産出地です。「トラバーチン」という名前はこの産地「Tivori」のラテン語名Tiburに由来します。コロッセオの基本構造はこのトラバーチンで構成されたので、ローマ近隣の産地から、潤沢に良質な石材が供給されたというのは工期が短かった大きな理由の一つとなります。

◾️ローマンコンクリート

コロッセオのもう一つの重要な構成材料はコンクリートです。古代ローマで用いられたコンクリートは「ローマンコンクリート」と呼ばれ、コロッセオだけでなく多くのローマ建築に用いられました。コロッセオでは、トラバーチンで組まれた構造の間を埋めるようにローマンコンクリートが使われ、内部天井の形成や大半の座席部分などが形作られたのでした。

現代のコンクリートは耐久年数が30年〜100年と言われる一方で、ローマンコンクリートは2000年の耐久性を誇ります。ローマ人は当時からローマンコンクリートの耐久性の高さを認識して、多くのローマ建築に使用しました。その代表格はパンテオン(詳しくは後ほど)。

ローマの建築技術者ヴィトルヴィウス(Vitrvius)は紀元前30年頃に皇帝アウグストゥスに捧げた著書「建築論(De Architectura)」でローマンコンクリートを紹介しています。この「建築書(De Architectura)」はルネサンス期に再発見され編纂されて、現在に至るまで重要な建築教書として読まれています。そこでヴィトルヴィウスは、ローマンコンクリートには「恐るべき効果を生む粉を混ぜ込んでいる」と記述しています。

現代のコンクリートはセメント+砂+砂利+水で構成され、耐久性は30〜100年程度といわれます。ローマンコンクリートはそこに「恐るべき効果を生む粉=火山灰」を加え、水は海水を使用したと言います。コンクリートの劣化の原因は内部にできる気泡に水分が入り侵食されることによる。この火山灰を入れることにより、この気泡が水が侵入できないほど小さくなり、とても密度高く固化する。この効果により水の浸食を妨ぐことで、鉄筋などの補強もなしに地震や侵食にも負けない2000年という驚異的な耐久性を実現しているといいます。

コロッセオの外郭が失われたところを観察すると、トラバーチンによる柱やアーチのその間が石材ではない材料で埋められていることがわかります。内部構造の天井や観客席部分もローマンコンクリートで構成されていました。トラバーチンはティボリで火山灰はポンペイでヴェスビオ火山の火山灰がふんだんに入手可能な環境でした。

 

コロッセオは良質なトラバーチンとローマンコンクリートによって建設されました。

特にローマンコンクリートの技術は二千年前に考案され、その耐久性の高さはコロッセオパンテオンなどローマ建築の現在の姿が証明してくれます。コロッセオは単なる石造りの建造物ではなくローマンコンクリートを効果的に組み合わせることであれだけの巨大建造物を短期で完成させ、さらに二千年もの間存在させてきたということなのです。

 

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古代ローマ小話 パンとサーカス

パンとサーカス」という言葉、この耳に残るフレーズは一度聴いたら忘れません。そして「パンとサーカスによってローマ帝国は滅んだ」と、この言葉は堕落の象徴のように世の中に広まっていると思われる。実際僕も以前はそう思っていたし、おそらく今でもこの言葉を知っている人の大半がそんなふうに記憶しているんじゃないかと思います。

ラテン語で「Panem et circenses」。この「パンとサーカス」という言葉は、古代ローマの風刺詩人ユウェナリスという人物によって生まれました。ユウェナリスが生きたのは60〜130年。皇帝ネロの時代に生まれ、コロッセオの落成式が行われた時は20歳、その後五賢帝ハドリアヌス帝の時代に70歳で没している。幼少期にはローマは大混乱していたけれど、10代に差し掛かる頃には皇帝ヴェスパシアヌスコロッセオを建設始め、その後五賢帝のネルヴァ、トライアヌスハドリアヌスという皇帝が統治した時代を経て人生の幕を閉じるという、ローマ史の中でも最も安定した平和な時代に生きた人物ということになる。「パンとサーカス」は戦争の心配少ないパクス(平和)の中で生まれた風刺の一部。世相を表すとか事実を伝えるというものとは一線を画し、例えばカエサルを知るための重要な資料となった敵方キケロの手紙のようなものとは大きく異なるわけで、ユウェナリスはそう書いてはいても実際とは違う。あくまで「風刺」としての言葉でした。

しかし、言葉としての「パンとサーカス」は強力でした。とてもシンプルで軽妙、かつ覚えやすい。一度聴いたら忘れないくらいこの言葉には力があります。「平和な時代の風刺」という背景事情は抜きにして、そのフレーズのインパクトと、その後理由はさておき「ローマ帝国が滅んだ」という後世におきた史実が変な風に絡み合って、最後は「パンとサーカスによってローマ帝国は滅亡した」、ローマ帝国は国が施した無料のパンと無料の娯楽によって堕落したローマ人が、働く意欲をなくしたことで滅んだ、となる。なるほど。。。

 

実際の「パンとサーカス」はどんなものであったのかというと、、、

 

「パン」に相当するものは確かにタダで配られた。でもタダで配られたのは市民一人一人が死なないために最低限必要な量の小麦(パンの材料)でした。ローマでは小麦法という法律が制定され、ローマ市民が餓死するようなことがないように、生きるための最低量の小麦が配られていました。でも、飢え死にしないための最低量なので、働らかずに楽しく暮らすことはとてもできません。なのでこの配給があったローマ人がみんな働かなくなって、ぐうたらするようなことにはなりえない。

一方でこの小麦の最低量支給によって、帝政期ローマの時代は他の時代と比べても餓死者が格段に少なかったと言います。

 古代ローマのパン(ポンペイフレスコ画による)

 

「サーカス(Circenses)」も当時無料で提供されら。当時の娯楽としての「競技」を指し、コロッセオのような円形闘技場やチルコマッシモのような競技場などで開催される剣闘試合や猛獣対決、戦車競技などのことを指します。ローマでは昔から、権力者は戦勝や祝い事、有力者の追悼があると、自費で競技会を開いて市民に提供してきました。カエサルも非常に効果的に自費(借金)によるイベントを派手に開催していました。これは純粋に戦争が終わり平和になったことを市民知らせる役目だったり、権力者の人気取りの側面もあった。そしてもう一つ、権力者がこのサーカスを市民に提供する意味は、世論を知るためでもあったと言います。

 200年ころの剣闘士のモザイク画

いずれにせよ、権力者あるいは国として市民に娯楽を提供するものをサーカスと呼んだ。それを提供する場所は円形闘技場などのインフラです。コロッセオは巨大ではあるけれど収容できるのは5万人。首都100万人のローマで全員が参加できたかわからないし、そもそもイベントの好みの問題もあるだろうから、無料だとしても全員が観にくるとは限らない。当時の市民にとってのメジャーな娯楽といえば、剣闘士が命をかけた試合、猛獣との戦いだったわけですが、今からするとこれらは残忍な見せ物ではあるものの、当時の感覚からすると、今で言う「格闘技イベント」という感じだったかもしれません。いまでも格闘技を見にいく人、サッカーを見にいく人、いろいろな好みがあるように「無料であっても見に行かない」という市民も大勢いたでしょうし、そもそもこれらで市民が堕落するのかどうかは疑問です。

 

僕は20代のころから古代ローマを深く知るようになって、この「パンとサーカス」という言葉の怪しさを感じるようになりました。

パンとサーカス」という言葉の意味が変に誇張されて広がった一番の理由は、「パンとサーカス」という言葉の力、軽妙で脳に残りやすいフレーズによるところが大きいと思われる。その後のローマ滅亡という史実から、後世の評論家たちが短絡的な理解に絡めて「パンとサーカス」という言葉を使ったために、中身はともかくその言葉の力によって間違った解釈が広まってしまった。と、こんな構図と考えられます。

 

実際のローマ世界の滅亡は「パンとサーカスで市民が堕落したから」というわけはなく、もっと複雑でさまざまな出来事が長い時間をかけて絡み合った結果によるもの。その情報が何によるものか、何を意図するものかよく吟味しなければ物事の本質には辿り着けませんという非常に顕著な例のように思えます。

もちろんこのことは「パンとサーカス」に限らず何事においても、という話ですね。

 

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空と雲と 月と輪

昨日の夜、外に出て空を見上げるとこんな光景が頭上にありました。

天頂に位置する月はほぼ満月、うっすらそれを遮る雲。その雲に、月の光が淡い光の輪を作っていました。

余計なことは何も考えずに、ぼーっと幻想的な光の輪を眺めました。とても癒されます。

月の光が差し込んで雲の層に入ると、雲は屈折率をもってる水だから光の屈折っていう身近な物理現象によってこんな光の輪が見える。以前投稿した22度Haloという現象と同じです。虹も同じ原理で見えるんです。

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これは今日の夜明け空。リズムの良い面白い雲がありました。

 

こちらは今日の夕暮れ。薄い雲が幾重にも重なって、いろいろな模様を織りなします。その向こうの夕日が空を染めるんです。

またこんな景色に出会えますように。。。

 

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コロッセオ3 その構造

2000年前のローマ市民になったつもりでコロッセオの中に入ります。

とはいえ、2000年の時の流れは想像力では隠しきれず、かつてはピカピカだったであろう壁面はすっかり風化して、通路にはどこに使われていたのかもわからない石材が無造作に転がる、なかなかの廃墟でした。

表面上の古さは隠しようがないけれど、その基本構造である何重にもなるアーチ構造の連なりは2000年前からそのままの姿です。

そしていくつかアーチの層をくぐると、一気に視界が開け、観客席と闘技場(アリーナ)が現れます。

 

この景色は壮観です。

今はほとんどが崩れ落ちてしまっていますが、観客席の名残がぐるっと1周、360度にわたってあります。勾配をもって配置される観客席は、現代のスタジアムのお手本であり、上に行くほど勾配がキツくなる作りになっています。地上にいる僕に全周の観客席が覆い被さってくるような錯覚を覚えます。

実際に剣闘士はこちら側(フォロ・ロマーノと反対側)から闘技場に入場し、間近にいる皇帝に一礼したといいます。廃墟ではあっても、5万の観衆を飲み込んだ観客席です。ここに立つと試合前の剣闘士の緊張感が伝わってきそうです。

 

2層目に上がります。

全体の楕円のフォルムに沿って、通路も美しく円弧を描き、その両側を規則的なアーチがその構造を支えています。ここはコロッセオ現役当時は観客席に覆われて今のように空が見えることはありませんでした。この一角に昔は現役当時のコロッセオの再現模型が展示されているんです(いまもあるのだろうか)。

 

 

◾️観客席

コロッセオは無料で剣闘試合などを観戦できましたが、市民の階層によって入場できる席位置が決まっていました。闘技スペースに一番近い最下層には大里石の座席が設けられ元老院議員(貴族階級)が観戦していました。その上の層には騎士階級(経済界・富裕層)、さらにその上が職人や商人など上級市民とされた人々の席、その上は一般市民席。最上層には立ち見席が5千人分用意され、コロッセオは全部で5万人もの市民を収容できる大スタジアムでした。

人の動きを決める導線もよく考慮された設計がされていて、効率的に配置された出入り口と階段によって、何か起これば15分で5万人全てがコロッセオの外に出られる構造だったといいます。

 

◾️ARENA

学生時代、コロッセオの写真をみて腑に落ちない場所がこの競技場(アリーナ)でした。

こんなスカスカの場所でどうやって剣闘試合が行われたのか?、と。

楕円形をした競技場は縦79m横46m。いまは石材剥き出しで溝だらけ、地下2階くらいの6m深さがある下部構造剥き出しの姿はからはとても剣闘試合は想像できません。

コロッセオ現役当時は、地上レベルは地下構造の躯体上に「木の板」が敷き詰められ床となり、その上に砂が敷かれ、木の床を覆っていました。砂のことをラテン語で"ARENA(アレーナ)"といい、現在の「アリーナ」の語源となっています。

反対(南東)側にはコロッセオの外へ通ずる出入り口が見えます。こちらは「葬儀の門」と呼ばれ、剣闘試合で負けた剣闘士や猛獣たちが運び出される出口でした。

 

80年に行われた落成式の時にはこのアレーナに水を張り「模擬海戦」が行われました。

コロッセオには今も確認できる水道設備があります。もともとコロッセオは先帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)の人工湖があった場所に作られていたので、この人口湖のための水道施設によってアリーナに水を引き込み、船を走らせて模擬海戦が行われたと考えられ、その時の様子を見た人がその興奮を書き残した記録がいくつも見つかっているとか。さっきまでの地面があっという間に水で満たされ、大きな船が何艘も登場した挙げ句、戦いを始めた様はコロッセオにいたローマ市民は度肝を抜かれたでしょう。

技術的にはローマ水道は豊富な水が流れていたでしょうから、アリーナを満たす程度の水の心配はいらない。でも板張りの床に水を張る、あれだけの地下空間があっての水張りも、ローマ人の技術者のことなのでよほど緻密に計算して、水漏れなどさせずにこの模擬海戦を執り行ったことが想像できます。

 

◾️舞台装置

アレーナの床は今はなく、当時のアレーナの様子は想像しづらい。地下に深く掘られ囲われたスペースは、猛獣の檻や剣闘士の控え室があり、また剣闘試合をより「エンターテインメント」にするための様々な仕組みが凝らされていました。

 

いま想像するのはなかなか難しいのですが、下の絵のような感じで、地下の構造体の間は木組みの構造体で埋められていました。そこには人力のエレベータ施設と、猛獣の檻、剣闘士の控室があり、それぞれエレベータに乗り地上のアレーナ表面へ躍り出るための仕組みが配置されていました。

アリーナにはこの人力エレベータ施設と床面からの登場口がいくつもあったと言われ、エレベータだけでも100近くが地下に隠れていたとか。剣闘試合の演出に沿って、どこからでも主役、脇役、敵役が登場できるようにコロッセオの地下は壮大な舞台装置と化していました。

ローマ市民にとっての剣闘試合は単なる殺し合いではなく、壮大な舞台装置によって演出されるエンターテインメントでした。それにローマ市民は熱狂する。命をかけた戦いは残酷で凄惨な場面もあったと思いますが、その本質は今で言えばスポーツ観戦に熱狂することと変わりないということですね。

 

◾️天幕

ローマの夏の暑さは厳しので、夏にはローマからローマっ子はいなくなり、観光客ばかりになる、と聞いたことがあります。確かに夏のローマはとても暑かった。所々にある泉で何度も水分補給しなければ、歩き回れないほどでした。

2000年前も夏の暑さは同じだったようで、コロッセオが現役のときは、観客席の上部には日よけのための「天幕」を張る仕組みがありました。コロッセオの外壁最上部に木製の支柱を立てそこにロープを張ってその上に船の帆の素材の天幕を貼ったと言われています。今は当時の外壁の最上層にこの天幕を張るための支柱を立てる土台が見られるのみ。

 

◾️ここまでやるか

コロッセオの構造は、アーチ構造を多用することと効果的な材料の選択によって建物そのものの強度や採光や人の導線が確保されています。さらに、日除の天幕システムや剣闘試合を演出するアリーナの地下構造、人力エレベータ、地上へのアプローチなどのエンターテインメント性の実現は現代のスタジアム顔負けで、「ここまでやるか」という仕組みが満載でした。

ローマのコロッセオはその外観の意匠的な特徴だけでなく、それまでにローマ各地に作られた円形闘技場の技術やノウハウなど全てがつぎ込まれた、100万人が生活する首都に相応しいローマ世界最高の円形闘技場でした。

 

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コロッセオ2 そのデザイン

コロッセオを実際に間近でみると、その巨大さの割に重々しさや野暮ったさが感じられません。あれだけ見上げるような巨大な建物であっても、見た目の印象は重厚というよりむしろ軽やかですらあります。

 

◾️デザインの妙

その理由は大きく2つに分かれる(と僕は思う)。

一つ目:楕円のフォルム

円形闘技場(Amphitheatrum)は、ギリシアの半円形劇場をもとにローマ人が発明した建築です。日本語では「円形闘技場」といいますが、実際は円ではなく、美しい楕円形をしています。ラテン語の「Amphitheatrum」は直訳すれば「観客席に囲まれた劇場」なので、「円形闘技場」とは日本独自の、実際とはちょっと外れた呼び名なので注意が必要。

上から見るとよくわかる楕円形のフォルムのために、外からコロッセオを眺めるときはその場所によってその大きさの印象が変わります。場所によって最大(楕円長径)約188mの建物にも、最小(楕円短径)約157mの建物にも見える。これは日常的にコロッセオを目にする人々にそのサイズに対して、大きいような、それほど大きくないような、曖昧な印象を与えることになります。

 

二つ目:アーチと柱

外観上、コロッセオは4層構造となっており、その高さは48mにも及びます。地上1層目から3層目までは、水道橋のようなリズムのよいアーチの連続と、その間にある円柱の存在によって、巨大であってもその印象は軽やかです。さらにその上には、アーチの3層構造に蓋をするが如く、シンプルで機能的な4層目を戴冠します。4層目にはアーチの1/2の周期で四角い小さな窓が開き、天幕用の支柱の土台が外観のデザインに絶妙なアクセントを加えています。

今はコロッセオの外壁の半分くらいが崩壊してしまってますが、完成当時は1~3層はそれぞれ80のアーチと円柱がコロッセオ全周を取り巻いていました。また2層目、3層目のアーチには、これも今は失われていますが、ひとつひとつのアーチの中に、下の絵のように彫像が飾られていました。4層目に見られる針のような支柱は、観客席を覆う、日除の天幕を張るためのものでした。

◾️飾り円柱

デザイン的にアーチをつなぐ、コロッセオの円柱は本物ではなく、外壁面に浮き彫りにされた「飾り円柱」です。コロッセオの飾り円柱は各層ごとにギリシアの3つの伝統様式、神殿に用いられる様式が使い分けられています。

1層目はドーリア式と呼ばれる様式で、アテネパルテノン神殿に用いられているシンプルで重厚なタイプで「安定感」を演出します。コロッセオの最下層の1層目に使用するに相応しい。

2層目はイオニア式。少し小ぶりの神殿に用いられる様式で、軽やかな印象を与えます。黄金比に習った螺旋の渦巻きをもった柱頭が特徴的で2層目にぴったり。

3層目はコリント式。華やかに装飾された柱頭が特徴で、ローマの街で一番多く見かけるタイプは3層目に相応しい。

3つの特徴のある様式をうまく配置して、水平方向の軽やかさと、垂直方向の安定感を演出しています。

(4層目にもコリント式の柱っぽい浮き彫りが申し訳程度に施されていますが、衣装的な影響がほぼないため割愛しました)

*軽井沢で楽焼きした、オリジナル湯呑み

同じ建物の中に3種類の様式円柱を並べるとか、偽の浮き彫り円柱「飾り円柱」も、ギリシア人であればまず採用することはありません。ギリシア人は、建物を神様たちにも見てもらうために、人には見えない細部まで妥協せずに作り込む。彫刻も然りです。芸術作品としての観点からは、ローマ人による様式折衷や偽物の飾り円柱というのはちょっと邪道といえるかもしてませんが、ローマ人はそんなことお構いなしに、いろいろな解釈で新しいものを作り上げていきます。円形闘技場自体がそうであるように、コロッセオのこの外観もローマ人ならではの発明と言えそうです。

◾️黄昏

コロッセオは326年にコンスタンティヌス帝によって剣闘士の試合が禁止されて以降、一気に荒廃していきます。大観衆に包まれた剣闘士の戦いが行われなくなった後は、主にローマの新しい街の建物建設のための石切場と化してしまうのです。結果、その現在のコロッセオは外周の約半分がほぼ失われ(下図参照)、ふた周りくらい小さくなって内部構造剥き出しの可哀想な姿になってしまった。

その本来の機能を終えたコロッセオはローマの石材調達場所として利用され続けました。コロッセオを作っている石材「トラバーチン」は良質な石材として、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院始め、今でもローマを覆う多くのルネサンス建築のために使われました。18世紀にローマ法王によって、コロッセオの保存を宣言されるまでの千年以上にわたり、石材調達場として利用されました。

現在のコロッセオ、外壁の石材を奪われてしまった部分の境界には、レンガで崩れないように補修され、その姿はとても痛々しい。

 

さらに完全に外周部が失われたところは内部構造が剥き出しになっていて、見るに耐えません。でも、反対側のほぼ建設当時の姿が残っている側と、反対側の内部剥き出し状態の姿によって、コロッセオの構造がとてもよくわかる。とてもよい教材であるという取り方もできなくはありません。

それにしても、この千年以上も石材奪われてきたのに、これだけ巨大な状態が保たれているということからもコロッセオがいかに大きいかが想像できると思います。。。

古代ローマギリシアの遺跡は、その崩れかけた様子が、見る者の想像力を掻き立ててくれるのです。廃墟であるからその価値がある、と言えます。でもコロッセオの場合はそれが当てはまらない、不思議なんですがそんな気がするんですね。コロッセオは帝国ローマの象徴的な存在で、それを崩したのは時間ではなく、どちらかと言えばキリスト教コロッセオの姿はそのローマ絶頂期の名残とその後にローマが辿った運命そのもの。

コロッセオの周りを歩きながら眺めるときは、古代ローマへの畏怖の念と、ローマの運命に対しての哀愁も入り混じった感情になりますね。

 

円形闘技場(Amphitheatrum)はイタリア半島だけでも163の街に建設され、アフリカ、中東、ヨーロッパ全土にわたって多くの都市に当たり前のように建設された当時とても身近な公共施設でした。その中でローマのコロッセオはその規模、その機能、バランスの取れた意匠面においてローマ世界の円形闘技場の頂点に位置します。

完成から二千年も経ち、大きく崩れた今ですらそのオーラは強く、首都ローマでその存在感を放っているのです。

 

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