cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

フォロ・ロマーノ 風景

フォロ・ロマーノの風景

ローマの景色はそれだけでも絵になりますが、カメラのファインダーから伝わってくる、長い長い歴史の深さは写す風景を一層深いものに仕上げてくれます。そんな気がします。

コロッセオからフォロ・ロマーノを眺める夫婦。

神殿の名残とティトゥス帝の凱旋門その下に広がる煉瓦の土台はアウグストゥスの言葉、「煉瓦の街を引き継いで大理石の街を残した」をよく表しています。

二つの神殿も今はほんの少し残るだけ。

朝日を受けるローマの遺跡は

その時間さえも忘れてしまいそう

かつての一等地、パラティノの丘は今でも一等地でした。

これはローマを象徴する一枚。

奥に見えるのはクリア・ユリア(元老院議場)の正面の壁。手前には現代⁉︎の石畳の道と街灯。その手前はルネサンスの建物。

時代と歴史を積み重ねてきた、ローマならでははの絵です。

 

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ローマ小話 ローマ建国の物語

紀元前753年4月21日、ローマが誕生しました(ということになっています)。

ローマ人のルーツはトロイの木馬の物語で知られるトロイア人(とローマ人が言っています)。あの有名な「トロイの木馬」として現代に伝わる物語がローマの始まり(ということになっています)。

トロイア陥落の物語

紀元前13世紀ころ、トロイアの王子パリスが女神たちにそそのかされてスパルタ王妃ヘレネに恋して誘拐したことに端を発したギリシアトロイアの長い戦争、これがトロイア戦役です。長期化した戦争の10年目に、英雄アキレウス(Ἀχιλλεύς)擁するギリシア軍は知将オデュッセウスによる奇策「トロイの木馬作戦」を発動しました。この奇抜な作戦によって難攻不落といわれたトロイアはついに陥落するのです。

*トロイの遺跡にあるトロイの木馬

ちなみにこのトロイア戦役を描いた叙事詩が「イリアス(Iλιάς)」、トロイア陥落後オデュッセウスが部下達を率いて、ギリシアに帰国するまでの長い冒険が描かれたのが叙事詩オデュッセイア(ΟΔΥΣΣΕΙΑ、オデッセイ)」です。共にギリシア最高の詩人と言われるホメロス(Oμηρος)が今から約3千年前の紀元前8世紀に残した名著ですが、現代の書店にも普通に並んでいます。

*EUROになる前のギリシアの小銭に刻まれたホメロス

話は戻って、「トロイの木馬」物語はトロイア陥落と共にここで終わるのですが、この物語には続きがあります。「ローマ建国の物語」がここから始まるのです。

■ローマ誕生前夜

そのはじまりは何とも取ってつけたような展開、いや、ドラチックに始まります。

トロイア陥落の、トロイア人は全滅かと誰もが思ったその時、トロイアから秘密の地下道を使って逃れた人たちがいました。その一団を率いた英雄はその名を「アエネイアス(Αἰνείας)」と言いました。元々トロイア王家の血筋で美の女神アフロディテを母に持つ(?)神の血を引く(と言われてる)トロイアの名門家系で、後にイタリアのアルバ・ロンガに繋がる一族。

トロイア陥落のその時に、老いた父を背負い、幼い我が子の手をひきながら一族郎党を連れてトロイア陥落の惨劇から逃げ延びたアエネイアスは、やがてラティウム(イタリア)へたどり着きます。そしてアエネイアスの末裔たちが今のローマより上流に都市国家アルバ・ロンガ(Alba longa)を作るのでした。

■伝説の雌狼

時は流れて紀元前8世紀のある日、アルバ・ロンガに軍神マルスの血を受け継いだ王位継承者となる双子の男の子が生まれます(神の血筋?もう何も感じない)。双子はロムルス(Romulus)とレムス(Remus)と名付けられますが、生まれてすぐにアルバ・ロンガの王位継承争いに巻き込まれ、双子はカゴに入れられてテヴェレ川に流されてしまいます。そして一匹の狼が川を流れる双子を見つける。ここで双子の赤ん坊の運命尽きた!と誰もが思ったその瞬間、この雌狼はテヴェレ川から優しく双子の籠を引き寄せ陸にあげると、この双子に自分の乳を含ませたのでした。そして雌狼はパラティノの丘の洞窟でこの双子を育てました。

これが「カピトリウムの雌狼」の話。この双子の命を救い育てた雌狼の姿は今でもローマのシンボルとして扱われているのです。

雌狼に命救われた兄弟はやがて豚飼いの夫婦に引き取られ成長していく。この後二人は成長し力をつけて自分達を川に流した反逆者に復讐を果たし、自分達が捨てられ助けられたテヴェレ川沿に新しい国を作ることにしました。しかしその途中で双子の間で争いが起こり、兄は弟を殺してしまいます。兄ロムルスは弟レムスを埋葬し、自分達が助けられ育てられたパラティノの丘で新しい国家をつくる決意をします。

■ローマ誕生

ロムルスはパラティノの丘を城壁で囲います。紀元前753年4月21日、神への儀式を執り行う事で初代ローマ王ロムルスが誕生し、ここに王国ローマが生まれましたとさ。

 

これがローマ誕生の物語です。以来1000年以上に渡り、毎年4月21日にはローマ建国を祝う祝祭が執り行われていたといいます。

 

神様が出てきて、人間の子供を育てる雌狼が出てきて、遠く離れたトロイア陥落と自分たちの出自を結びつける。。。一見無茶な話ではあるのですが、新しい場所で新しい国家を作り、これから発展させていく中で「自分たちが何者なのか」を定義することは国民のこころの拠り所としてとても重要な要素です。これがあるかないかは大きな差になります。ロムルスはこのことを理解していたのでしょう。

「いまは不遇な時期だけど、我々は神の血を引く、勇敢で素晴らしい文明を築いたトロイア人の子孫である」

こうしてローマは新たな船出に向かって、不安よりも大きな自信を得た。

それが正しいことは、この後につづくローマの歴史が証明しています。

そして、その時からざっと3000年たった今でも、ローマではこのローマ誕生物語が実しやかに語り継がれて、(半ば楽しく)信じられてるのです。素晴らしいことだと思う。

 

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パラティノの丘 フォロ・ロマーノ界隈 5

パラティノの丘(Palatinus/Palatino)

古代ローマ7つの丘の中で、神聖なカピトリウムの丘と並んで重要な丘パラティノ。ここはローマ発祥の場所とされます。

 フォロ・ロマーノの入り口あたりからはパラティノの丘は奥に緑に覆われた丘として見えます。この丘から地中海をすっぽり包む大帝国が始まったのだと思うと、今は荒涼とした廃墟でも、見える景色もまた変わってきます。

王政時代は王が住み、共和制期は元老院議員などの名門貴族が、帝政では皇帝が住んだ場所。ローマの歴史を通してこの丘の上には有力者の私邸が構えられ、帝政期には歴代皇帝の家がここに並んだ、ローマ市民の誰もが憧れる、いわばローマの超一等地なのです。

整地された平坦な丘の上の現在の姿は、かつての家々の跡が点在していました。ほとんど建物が残っておらず、フォロ・ロマーノの、廃墟ではあるけど壮大な姿とは対照的に、とても静かで控えめな印象をうけます。寂しいのだけど何かホッとする。ここはそういう場所です。きっとローマの最盛期であってもここはこんな風に、フォロ・ロマーノの喧騒とは対照的な静かな高級住宅街だったのでしょう。

パラティノの丘にはフォロ・ロマーノを見渡すことができる場所が2箇所ほどあります。その一つからフォロ・ロマーノを見下ろした時、その壮観な眺めに言葉を失いました。

アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、カピトリヌス(カンピドリオ)、カエリウス(チェリオ)、エスクィリウス(エスクリィーノ)、パラティヌス(パラティノ)、クイリナリス(クリリナーレ)、ウィミナリス(ヴィミナーレ)の、ローマの7つの丘(Septem Montes Romae)に囲まれ、それぞれの丘に部族が暮していました。そしてその7つの丘の真ん中の窪地に丘の上から降りて人が集うようになり、公共広場が生まれ、国家としての発展と共に豪華壮麗な建物が増えていきフォロ・ロマーノが形成されました。

2千年前、ここからの眺めは一体どんなだっただろう。この街の最盛期の姿をここから眺めてみたいと思わずにはいられませんでした。

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フォロ・ロマーノ 神殿 フォロ・ロマーノ界隈4

フォロ・ロマーノにはたくさんの神殿や公共建造物があります。神殿やその他公共施設の円柱や基壇が残るほか、地面には円柱の一部や、柱頭、梁など実に様々な構造物が転がっています。ほとんどが原型をとどめておらず、今でもわずかに残る神殿の円柱が、無造作に転がる大理石のレリーフが、往時を偲ばせてくれる。かつての姿は想像するしかありません。でも遺跡とはそういう想像力を掻き立ててくれる、特に神殿の廃墟というのはとてもクリエイティブな場所になるのです。そんな神殿の遺構を中心に。

■二つの神殿

フォロ・ロマーノの西、カピトリヌスの丘の麓に2つの神殿(の円柱)がわずかながら残っています。

右:ヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝の神殿(Templum Vespasiani et Titi)

父である皇帝ヴェスパシアヌス(在位69-79)を祀るため、ティトゥス帝(79-81)が79年に着工して、結局次皇帝ドミティアヌス(81-96)が父帝と兄帝を祀る神殿として完成させました。なので名前が「ヴェスパシアヌスティトゥス」となっています。

今は神殿のファサードの角とコリント式の円柱が3本残るのみ。

左:サトゥルヌスの神殿(Templum Saturni )

種まきと農耕の神サトゥルヌスを祀るローマ最古の神殿。共和政期にはサトゥルヌス神を祀ると同時に、ローマの国の公文書やさまざまな基準器、金銀など国庫が置かれていました。

現在見られるのは、8本のイオニア式円柱とファサードとペディメントの一部。王政末期(紀元前6世紀)に建てられて以降、破壊などにより建て替えられた3代目になります。2代目が3世紀末に火災により消失、ファサードの碑文にはそのことが書かれています。

 

サルトゥヌス神殿のそばに一本のコリント式円柱が立ちます。崩れた廃墟だらけのフォロ・ロマーノにあって、景観上、良いアクセントになっている。これは、

フォカスの記念柱(Colonna di Foca)

ほぼ廃墟のフォロ・ロマーノにあって、白亜のコリント式円柱が立つというのはとても目立つ存在です。フォカスの記念柱は601年に東ローマ帝国皇帝フォカスをたたえて建てられたもので、当時は円柱の上に金箔塗されたフォカスの像が立っていたといいます。

601年といえばコンスタンティヌスがローマを捨てて300年ほどが経ち、西ローマ帝国が滅んで130年ほど経ったころ。ローマも荒廃が進んでいたであろうこの時期には、この円柱もこのときに製作されたものではなくローマが栄えていた頃の遺産をどこかからかもぎとって移設したもの。ちょっと寂しい。

 

フォロ・ロマーノの重要な二つの遺構

左:アントニヌス・ピウス帝とファウスティーナの神殿(Templum Antonini et Faustinae)

五賢帝の四番目の皇帝アントニヌス・ピウスが141年、亡くなった皇后ファウスティーナを忍んで作った神殿で、アントニヌス・ピウスが亡くなった後、五賢帝五番目皇帝マルクス・アウレリウスアントニヌス・ピウスとファウスティーナを神として祀る神殿として完成させました。元々はコリント様式の神殿として誕生しましたが、今見られる姿はまた一味違います。

7-8世紀には神殿はサン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会として再利用されます。その後17世紀にはバロックの新たなファサードが重ねられ今見られるような姿になりました。早くから教会として利用されていたこともあり、フォロ・ロマーノの遺跡の中では保存状態がよい。また中世とルネサンスと古代が調和した貴重な遺産となっています。。ローマにはこんな折衷建築が所々に見られます。

中央:カエサルの神殿(Aedes Divi Iulii)

三角の屋根に覆われた部分はカエサル神殿の基壇部。紀元前44年3月15日カエサルは55歳で暗殺された後、上の写真の屋根で覆われた場所で火葬されました。

その後29年、カエサルの跡を継いだ初代皇帝アウグストゥスによって、カエサルは神格化され、この場所に神君カエサルを祀る神殿を建てたのでした。今は基壇部分が残るのみですが、ここはフォロ・ロマーノで一番人が訪れる場所。その理由はまた後の機会に。

 

カストーリ(ディオスクリ)神殿(Tempio dei Dioscuri)

この3本のコリントの円柱はB.C.449 に建てられたカストーリ(ディオスクリ)神殿のもの。カストルとポルクス紀元前5世紀に起きた追放された第7代ローマ王のタルクィニウスとローマとの戦争の最中、カストルとポルクスという双子の神がローマの勝利を約束した、という伝説に由来する神殿。何度も修復再建されており、この3本の円柱は第2代皇帝ティべリウスが建てたもの。

 

神殿ではないけれど。。

ヴェスタの巫女たちの家(Atrium Vestae)

パラティノの丘へ歩いていくと素敵な庭が現れる。

王政ローマの第2代王ヌマが始めた信仰は炎の神ヴェスタを祀るものでした。以来、フォロ・ロマーノのヴェスタ神殿には聖火が灯され続け、そのヴェスタ信仰を司り、聖火を絶やさぬよう炎の世話をし続けたのが「ヴェスタの巫女」。ヴェスタ神殿に隣接したここは聖火を絶やすことのないように

今は中庭の池とそれを囲んだ巫女の像がわずかに残るのみですが、この空間はとても心地よいのです。

 

次はパラティノの丘にのぼります。

 

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フォロ・ロマーノ 聖なる道と凱旋門〜フォロ・ロマーノ界隈3

ローマの街でよく耳にする「フォロ」はラテン語で「フォルム(Forum)」と言い「公共広場」を意味します。そしてForumは「フォーラム」として現代日本でもよく使われる言葉です。ということでフォロ・ロマーノとは「ローマ市民の公共広場」を指すのです。

下はフォロ・ロマーノ付近のローマ帝政期の地図(初めてローマで買ったガイドより)で、濃い緑色がローマ市民の公共広場(フォロ・ロマーノ)、水色が後で触れる皇帝たちの公共広場(フォリ・インペリアーリ)です。名前は「皇帝たちの」と付きますが、実際は皇帝たちが市民のために作った公共広場。

 

下は古代のローマ全体の模型(ローマ文明博物館 とても良くできている!)のフォロ・ロマーノ界隈。奥にコロッセオが見えます。

カンピドリオ広場を降りてフォリ・インペリアリ通りからフォロ・ロマーノに入る。するとこんな景色が広がります。

沢山の神殿やバシリカの基台や円柱のかけらが広がります。奥の緑の高台がローマ発祥の地パラティノの丘。

フォロ・ロマーノに入って、少し進むと360度視界が晴れてぐるりとフォロ・ロマーノを眺められる場所に出ます。

右手、西側奥はカピトリウム(カンピドリオの丘)。その手前に威風堂々とした凱旋門。これは第20代皇帝セプティミウスセヴェルスの凱旋門。そして周辺には原型を留めない無数の建物の跡。

左手東に視線を移すとこちらも原型を留めているものはなく、立っている構造物といえば微かに3つの円柱くらい。左手に古代ローマっぽくないけど教会らしき建物が見える。これはローマならではの実に特徴的な建物であることが後でわかります。

実は今何なく立っている場所は、「聖なる道」です。

Via Sacra(聖なる道)

古代ではローマで一番神聖なカピトリヌス(カンピドリオ)の丘の上へ続く道。ローマ軍が諸外国との戦いで勝利を納めた後に、将軍とその軍団が行う「凱旋式」では軍団が列を成してパレード行い、その最後には必ずここを通りカピトリーノの丘のユピテル神殿へと進んでいきました。そんなローマで最も神聖な場所へ続く道がこの"Via Sacra(聖なる道)"。

そして、「すべての道はローマに通ずる」という言葉の、

「すべての道」が行き着く先がこの"Via Sacra(聖なる道)"。

ローマ帝国全体に広がっていたローマ街道。それにつづく全ての道がこの一本の”Via Sacra”に繋がります。今もあちこち残るローマ街道のすべてのマイル・ストーンの起点がここにあると思うと鳥肌がたちます。。。一部にかつての舗装(敷石)がそのまま残って往時を忍ばせてくれます。

その昔ローマには36の凱旋門がありました。現在ではそのほとんどが破壊されてしまい、フォロ・ロマーノにあった5つの凱旋門も、現在その姿を見ることができるのは3つ。2つは土台部分を残して姿形がありません。

セプティミウス・セヴェルスの凱旋門(Arcus Septimii Severi)

現存するひとつ。皇帝セプティミウス・セヴェルスがパルティア戦争の勝利を記念して紀元203年に建てたもの。193年から199年にかけて行われたパルティア戦役では二人の息子カラカラとゲタも参加。その二人もこの凱旋門に名前が刻まれています。

フォロ・ロマーノの一番奥、カピトリヌスの丘の麓に位置して、人々はこの凱旋門を通り神聖な丘を登っていく、とても重要な役割を担っています。3つのアーチで構成されたデザインは100年後、フォロ・ロマーノの東の端に建てられたコンスタンティヌス帝の凱旋門に影響を与えました。

コンスタンティヌス凱旋門(Arcus Constantini)

セプティミウス・セヴェルスの凱旋門の対局、フォロ・ロマーノの東の端に位置するのがこのコンスタンティヌス帝はコンスタンティヌス凱旋門雄大コロッセオをバックに佇む姿は威風堂々、見事なものです。

4世紀ローマ帝国は分割統治されていて、コンスタンティヌスはその副帝に即位していました。すでに元老院や市民から信頼を失っていた正帝マクセンティウスとの戦いに勝利し、帝国唯一の皇帝に即位したのがコンスタンティヌス在位10年目の312年、この凱旋門はこの戦いの勝利の記念に、元老院ローマ市民が315年にコンスタンティヌスに寄進したものです。

均整のとれたフォルムはとても洗練されていて、後世フランスはパリのカルーゼルの凱旋門に影響を与えました。しかしこの凱旋門には大きな問題があります。凱旋門を飾る彫刻のほとんどが過去の五賢帝の時代の転用なのです。ハドリアヌストライアヌスマルクスアウレリウスの時代の凱旋門から優れた彫像やレリーフが剥がされここに設置された。当時製作された部分もわずかにあるが、明らかに転用されてきたものに比べ劣っていた。コンスタンティヌスはこの凱旋門を見て、ローマの現状を悟りローマを捨てることを決意したといいます。この15年後の330年、コンスタンティヌスは帝国の首都をローマからコンスタンティノープルに移すのでした。

 

ティトゥス凱旋門(Arcus Titi)

第10代皇帝ティトゥスが70年にエルサレムユダヤ人の反乱を平定した記念として、弟ディオクレティアヌス帝(第11代皇帝)が81年に建てたものです。

シンプルで均整の取れた優れたフォルムは以降の凱旋門のお手本となりました。パリのエトワール凱旋門ティトゥス帝の凱旋門におおきな影響を受けています。

 

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フォロ・ロマーノ 外縁 〜フォロ・ロマーノ界隈2

フォロ・ロマーノ/ Foro Romano 

カンピドリオ広場を抜けて、突然開けた視界に飛び込んできた僕がはじめて見たフォロ・ロマーノの姿。ローマ帝国の中心部、世界の首都(Caput Mundi)の姿です。

「レンガの街を受け継ぎ、大理石の街として残す」

初代皇帝アウグストゥスが公言したとおり、特に帝政に移行して以降(紀元前1世紀~)のフォロ・ロマーノは洗練された様々な公共建造物であふれ、「世界の首都」と呼ぶにふさわしい大都市となっていました。フォロ・ロマーノはそのローマの心臓部にあたります。

そして、今ここに見えるのはその廃墟です。

原型がわからないくらい崩れてしまっている姿からは「世界の首都」の見る影も微かですが、目の前に静かに横たわる遺跡群は訪れる者の想像力をかき立て、かつて地中海全域を統べた大都市の姿を思い描かせてくれるのです。

実際にローマ帝国が滅んだ後、ここは廃れ忘れ去られた時代もありました。

でも、ここはかつてローマ中枢を担う人たちが人が過ごし、ローマ市民権を持つ人も持たない人もどんな宗教の人も渾然と闊歩した場所。

次はそんなフォロ・ロマーノの中を歩きます。

 

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カンピドリオの丘 〜フォロ・ロマーノ界隈1

カンピドリオ(カピトリーノ)の丘 (Monte Campidoglio / Capitorino)は僕がローマで最初に訪れた場所です。当時郊外のホテルから無料送迎バスに乗って最初に降りたのがカンピドリオ広場の下。ここから丘の頂上に向かう美しい階段のような坂道、コルドナータ(Cordonata)を登っていくとミケランジェロがデザインしたカンピドリオ広場に到着します。当時夏真っ盛りで、大した距離ではないのに広場に着く頃には汗ビッショりになったことをよく覚えています。

カンピドリオ広場 (Piazza del Campidoglio) 

現在ローマ市庁舎があるこの広場はルネサンス期にミケランジェロによって設計されました。ここは建築史上はじめてのバロック様式の広場ともいわれています。広場は3つの宮殿に囲まれており、現在正面のセナトリオ宮殿は市庁舎として、両サイドの宮殿のうち向かって右コンセルヴァトーリ宮(Palazzo dei Conservstori)はカピトリーニ博物館(Musei Capitlini)として機能しています。

 

この広場はローマ劫略(Sacco di Roma 1527年)でローマが破壊し尽くされた約10年後、当時の教皇パウロ3世がミケランジェロに整備を託しました。ミケランジェロバロックの広場構成、幾何学の床模様といった芸術家の意志と、当時北方の新興国によるイタリアへの侵攻に対する抵抗をこの広場に込めたと言います。

この広場の中心付近にはイタリアの「POINT ZERO」があり、それは「すべての道はローマに通ず」の全ての道がたどる先がカンピドリオ広場であることを示しています。そしてそこに立つのは賢帝マルクス・アウレリウス五賢帝の中でも最も優れた哲人皇帝の騎馬像をローマの中心=世界の中心に据えて、再びローマが世界の首都(カプトゥ・ムンディ Caput Mundi)であるという意志を込めたのでした。

約2500年前、カンピドリオの丘が「カピトリヌス(Capitlinus)」と呼ばれていたころ、ローマを構成する7つの丘のうち、ローマ発祥の丘である「パラティノの丘(Palatinus)」と並んで信仰の中心として最も神聖な場所がこの「カピトリヌスの丘」でした。

カピトリヌスの丘はローマの3守護神が祀られるもっとも神聖な場所として存在し、紀元前509年にローマが王政から共和制に変わる時に、全能の主神ユピテル(Jupiter)、ユピテルの妻ユーノー(Juno)、ミネルヴァ(Minerva)を祀る神殿が建てられました。以来何度も破壊や焼失を経て、再建を繰り返しながらローマの信仰の中心として在り続けたのでした。

破壊荒廃と再建を繰り返していたカピトリヌス(カンピドリオ)の丘の上は、6世紀ローマの衰退、キリスト教化とともに荒れていき中世には神殿の基壇の上にキリスト教会が建てられたといいます。そしてルネサンス期に前述の通りミケランジェロによって、カンピドリオ広場として生まれ変わる。

幾何学模様の広場はバロックの建物によって囲まれ、古代ローマの名残はほとんど見られない。しかし広場中央にはローマ帝国五賢帝のひとりマルクス・アウレリウスの騎馬像(現代に伝わる唯一の皇帝騎馬像)が立ち、古代ローマの栄華と再びカプトゥ・ムンディ(世界の首都)として存在することがミケランジェロのメッセージとして残されている。

セナトリオ宮殿(現市庁舎)の脇を抜けると、そのわき道の円柱の上にローマ建国の伝説「カピトリーノの狼(Rómulo and Remo statue)」の像があります。

ローマは紀元前753年雌オオカミに育てられたロムルスとレムスの双子の兄弟によりパラティノの丘に建国された。というのがまことしやかに、半ば史実として語られるローマ建国の伝説です。(こういったヨーロッパで時々出てくる、半ば伝説と歴史が示す事実が渾然一体となったローマの街や歴史は、とても愉快でとても奥が深い)この像は、その雌の狼が幼いロムルスとレムスに授乳する姿を表している、ローマを象徴する彫像になります。

 

そして、そのまま細い道を進むと程なく視界が開け、目の覚めるような景色が飛び込んできます。かつてのカプトゥ・ムンディ(世界の首都)そのもの、古代ローマの中心フォロ・ロマーノがそこに現れるのです。

 

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