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旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル言葉 1  ”見たいと思う現実しか見ていない”

カエサルの言葉~

「人間誰しもすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思うことしか見ていない」

 ”Fere libenter homines id quod volunt creduunt”

誰でも、都合の悪いこと(見たくない現実)には目をそむけてしまいます。無意識のうちに現実の都合の悪い部分を切り取って、自分の都合の良いように頭に記憶する。「人間」といはそういう傾向が強い生き物です。

日本には「くさいものには蓋をする」という言葉があるように、見て目の前の苦労が分かりきっているようなことは、見なかったことにする、または気づかなかったことにする。これが人間世界の本質です。


紀元前1世紀のローマにおいて、カエサルだけが見たくない現実を見据えていた唯一の人物でした。当時のローマの政治を取り仕切る元老院ですら、カエサルの見ていた現実を見ることができなかった。カエサルには見えて、元老院には見えなかった現実。それは元老院の限界、「共和政国家」としてのローマの限界であり、そのローマ存続のための「帝政」への移行でした。

「人間誰しもすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思うことしか見ていない」この言葉はルネサンス期はじめ、時代や国、地域を超えて、人間の本質を言い表す優れた言葉として取り上げられ紹介されてきたのです。

例外なく現代、自分も周りも、この言葉から逃れることはできません。

僕自身、ふと気がつくと「都合のよい現実」しか見ていないことはよくある。

 

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カエサル7 三頭政治

昔歴史の教科書に載っていた三頭政治(Triumviratus)という言葉。歴史を学校で学んだ(はずの)当時、全く意味を理解していなかった。歴史とは組紐が如く、もつれて繋がりをもって時が過ぎ、さまざまな小さな出来事が因果応報重なって大きな出来事へ流れていく。そんな醍醐味を学校で教えてくれたらいいのになと、今思います。

三頭政治とはなんだったか?を簡単に書くと、紀元前1世紀、元老院を中心とした寡頭政を敷いていたはずの共和政ローマで、実は特定の3人によって政治が動かされていた、というモノ。その3人とはポンペイウスクラッスス、そしてカエサル

ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, B.C.106-B.C.48)

軍事において、溢れるほどの実績と絶対的な力を持ち、逆にそのために元老院からは邪魔されてばかりで自由な活動ができない、そんな不満が満載。当時は自分が平定したオリエントの受益すら元老院に邪魔され、そうとうイライラしてたでしょう。

クラッスス(Marcus Licinius Crassus B.C.115-B.C.53)

ローマ屈指の大金持ちで借金王カエサルの債権者。だがその金がスッラの粛正で殺された貴族達の財産を格安でたたき買い集めた、実に薄汚いやり方で得た財産だったので、唸るほどの金があるが人望も実績もない。当時クラッススは何か功を挙げ名を残したいと考えていた。自分にはない人気をカエサルから借り、またカエサルへの膨大な債権を回収するためにも全力でカエサルを支援する立場にあった。

*このポンペイウスクラッススはローマでも有名な不仲二人でした。

カエサル(Gaius Iulius Caesar, B.C.100-B.C.44)

初めての執政官当選を狙うカエサルクラッススからの借金による数々のパフォーマンスによって民衆からの人気は絶大。しかし元老院からはマリウスの甥であること、カティリーナの陰謀で元老院を敵に回すなど、まだ本格的な危険視はされないまでも、マークはされていた。カエサルは執政官になることが目的ではなかったが、その先の壮大な構想のための入り口として執政官になることが必要だったのでした。

 

前者二人は力や金を持っているが結局は自分のために行動している。カエサルはそれが自分の野心や虚栄心が元にあったとしても、純粋に国家ローマを正常に、さらに良い国へという動機が根底にある。三頭政治は前二人の力と欲求を絡めて成立させた、カエサルが創造したものであることは間違いない。

 

なぜ三頭政治が必要だったのか?

まだローマがイタリア半島の中だけを統治していたのなら、従来通りの元老院中心の政治でも良かったかもしれない。でも紀元前1世紀当時のローマはすでに、地中海をすっぱり囲んでしまうほどの広大な領土を統治しなければならなかった。それに対して600人もの議員の意見をまとめなければさっぱり先に進めない元老院(寡頭政)体制はとっくに機能不全に陥っていたのでした。また一方で、既得権益が心地よかった元老院議員たちは自分達の既得権を脅かすような改革の芽は、今まで元老院最終勧告という形で徹底的に潰してきた。これによってローマの統治機能は非常に低いレベルまで落ちた状態でした。

ゆっくりと着実に進んでいた統治機能の衰退は、茹でガエルが如く国家ローマを滅ぼすことに直結するわけだけど、当時最高の識者と言われたキケロですらそれに気づけず元老院体制でローマは統治できるという幻想から抜けることができなかった。

ローマの統治を機能させ衰退を止めるために、たくさんの課題を少数の有力者がスピーディ、かつ客観的に判断して実行していく、それが三頭政治の本質でした。

 

三頭政治には記録がほとんどありません。

いつどのように始まったのか、どういう話し合いの結果、不仲のポンペイウスクラッススが手を組むことになったのか、何も記録が残っていない。なぜ記録が残っていないかといえば、過去何人も改革をしようと試みた者はいたけれど、その度に元老院議員が自分達の既得権を守るため「元老院最終勧告」を発令して、改革者は「国家を転覆させる反逆者」の濡れ衣を着せられ、潰されてきた。なので、三頭政治は少なくともカエサルが大きな力を蓄えるまでの間は、気づかれないように進める必要があったのです。秘密裏にそしてポンペイウスクラッススの不仲が隠れ蓑になって、この三頭政治は8年近くローマを動かしすことに成功しました。

その結果、記録があまり残ってない。今でこそ、三頭政治は、カエサルポンペイウスクラッススの三人が実質ローマの政治を支配したとわかっています。秘密裏に行われたため記録も少ないこの三頭政治は実に巧妙な統治方法であったし、当時の誰もこの3人が手を組むなど思ってもなかったおかげで三頭政治は静かに着実に進めることができたのでした。

B.C.60年にカエサルは執政官を務めた後、8年に及ぶガリア戦役を展開します。ローマから離れている間もカエサルは、三頭政治によってローマで起きていることを把握しコントロールしました。そしてカエサルは、クラッススが戦死する前、ポンペイウス元老院派に懐柔され三頭政治が崩壊する前にすでに、次のステップ=帝政へ進む準備をほぼ完成させていたのでした。

 

ルッカ会談(B.C. 56)が行われました。三頭政治がスタートして4年、カエサルガリア戦役を開始して3年になるこの年、当時の港町だったピサのすぐ近く、ルッカという街で三頭による今後のローマに関する会談が行われました。例によってどの場所で開かれたか、そこでどんなことが話されたのかの記録はなく、その会談の中身はその後の三頭の動きから推測するしかないようです。

僕はこのルッカ会談の痕跡を求めてルッカの街へいったのだけど、何もなかった。(下のリンクはその時の様子です)

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このルッカ会談を境に、三頭政治は徐々に公になっていきます。ローマが偉大な国家として生き延びるためには、ある一つの政体へ向かうしかない。これは三頭政治で証明され、おそらくカエサル三頭政治を通じて「帝政ローマ」の予備実験をしたのだろうと想像してしまいます。

 

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ローマ小話 朝のローマ散歩

ミラノ経由の飛行機でローマ入りした時、ローマのホテルに到着したのは夜の10時頃。この年は雨と雷と時差ボケとローマについた期待感と興奮でなかなか眠れず、その夜は一睡もできませんでした。

ずーっと続いていた雷と雨音の轟音が徐々に収まってきて、静けさに誘われるように、僕はじっとしてられずローマの街へ出かける準備を始めました。

まだ真っ暗なローマの街へと外に出ると、冷んやりと重たい空気が街を充満していて、全然寝てないのにさっぱり眠くない僕の頭は益々冴えてきました。

ホテルを出るとすぐの共和国広場は淡い照明に照らされ、雨を含んだ石畳の地面は気をつけて歩かないと滑って転びそうです。

だあれもいない夜明け前のローマ。オレンジ色に照らされる道に導かれて、向こうの方向を目指します。

オレンジに照らされる道を歩くとだんだんと空が明るくなってくる。分厚い雲が風に流されて、空の表情がころころ変わっていきます。

途中ひょいと右に入ると、最初のお目当てクィリナーレ(ラテン語:Quirinalis)の丘の広場に到着。ここはローマ7丘の一つ。

現在ここにはイタリア共和国大統領官邸があり、広場の中央にはエジプトのオベリスクが立ちます。ここはかつてローマが建国当初サビニ族が移住してきた場所とされていて、サビニ族が信仰した神クィリナリス(Quirinalis)にちなんでこの名前が付けられました。

サビニ族といえば、ローマがまだならず者の集まりだった時に妻を娶るためにサビニ族を襲撃した「サビニ女たちの略奪」、そしてそれが元ではじまった戦争を止めようとローマ軍とサビニ軍の間に命懸けでわって入ったローマの妻となったサビニ女たちの話を思い出します。サビニ人はこの戦いの後、クィリナーレの丘に定住することになるのでした。

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そんなクィリナーレを過ぎて僕は、朝のトレヴィの泉へ行くのです。この時、珍しい泉の姿を見ました。それは「清掃中」。

まだ観光客が動き出さない早朝に、泉の水を全て抜いて、清掃してるんです。トレヴィの泉は「ローマ」と聞いたらおそらく誰もが思い浮かべる定番観光地。そして泉を背にコインを投げ入れるのがお決まりの儀式です。そうやって投げられた大量のコインを掃除をしながら回収している作業に出くわしました。水を抜かれたトレヴィの泉も新鮮でしたが、この大量のコインはこの後どこへ行くんだろう?そして、願いを込めて投げ入れられたコインがこんなふうに処理されているとは、、、何か見てはいけないものを見てしまったような気持ちになってしまいました。。。いまならiPhoneでその様子の写真を撮りまくるのですが、このときは貴重なフィルムを使わないように、この手の写真は撮らなかったんです。今思えばとても勿体無い。。。

トレヴィの泉からカピトリーノの丘を目指します。

朝のコルドナータを登っていき、マリウスの戦勝記念碑の像を横目にミケランジェロがデザインした広場に入ります。セナトリオ宮殿の脇を抜けていき、目的の場所へ。

この時間のお目当てはこれ。

朝のフォロ・ロマーノの景色。昨夜の雨に濡れた古代ローマの首都の遺跡は、朝日を反射して透き通るようです。こんな姿には言葉もありません。

 

 

円形闘技場コロッセオも静かに朝日を受けています。今は周りはほとんど崩れた廃墟となっているのですが、きっとこの季節の朝の光とコロッセオの景色は2000年前から変わらずあったのでしょう。そして同じようにこの景色を見て心動かされたローマ人がきっといたでしょう。

 

この続きはまた後ほど。

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カエサル6 カティリーナの陰謀

紀元前63年のこの年、カエサルは37歳で最高神祀官(Pontifex Maximus)になります。「最高神祀官」はローマの宗教に関する最高責任者で、ローマの官職のなかで唯一定員がひとりだけ、しかも終身職で他の官職との兼務OKという特殊な位置付けがされている。カエサルはこの年、独自の選挙運動によって波いる重鎮を押し退けこの官職を手に入れます。そしてフォロ・ロマーノの中心にある最高神祀官の公邸に住み始めるのでした。

そしてこの年「カティリーナの陰謀」という事件が起こります。

カティリーナ(Lucius Sergius Catilina)という執政官になりたくて三回選挙に立候補して三回落選した元老院議員がいました。カティリーナは失望して、落選の理由を周囲の妨害や理不尽さに求めたがために、失望が深い恨みに変わり首都ローマの武力占領を謀ろううとするのでした。しかしこの人、スッラの元で頭角を表したものの、それほどの器もなく優秀でもないことが周知のことでした。結局はローマ転覆の計画もずさん、事前に情報も漏れ、カティリーナは何もことを起こす前に元老院最終勧告(国家叛逆)を受ける。反乱を企てた5名が処刑され、カティリーナの元に集まった3千人の反乱者がローマの鎮圧軍によって殺された。

これだけを書くと「カティリーナの陰謀」がなぜローマ史上有名であるのか不思議に思ってしまいます。カティリーナの器、未然に防がれた反乱。ローマ転覆を狙ったカティリーナに元老院最終勧告が発布されたとはいえ、結果は大事には至っていないこの事件になぜこれほど注目が集まるのか。

その答えはこの時、カティリーナの事件をとりまく名脇役たちによるところが大きい。当時繰り広げられた見事な論戦を、当人たち、また同時代の歴史家サルスティウスの手により記録され書物として発行されたことによって今に至るまでこの一件が語り継がれるのです。カティリーナを追いやり執政官となった弁護士キケロ、体力と気力で喋りまくる小カトー、そしてカエサル

 

元老院でこの三人が論戦を繰り広げる「カティリーナの弾劾」という場面があります。

キケロによって緊急招集された元老院議会で、クーデターを企てたカティリーナへの弾劾はキケロが口火を切り始まります。この時の弁論はいまでもヨーロッパの高校生が訳して勉強するそうで、弁護士キケロが執政官キケロとして「国家ローマを救うため」と気負った演説を展開、そしてキケロの弾劾に対してカエサル元老院最終勧告の理不尽さと矛盾をつく反論を繰り広げる。ローマ市民を裁判もなく処刑するのがローマなのかと、議場の空気を変える。しかし小カトーはそのカエサルの弁論を打ち消すような馬力で議場を押し切る。。この時の様子を克明に記したのが今でも本屋に並ぶ歴史家サルスティウスによる「カティリーナの陰謀」。

そして下の絵は後世の画家が、この時の様子を想像で描いたもの。右端にぽつんとうなだれているのがカティリーナ、左で両手を広げ演説をしているのがキケロだという。

Cicero Denounces Catiline (1888) Cesare Maccari 

カエサルは前年の執政官選挙でクラッススとともにカティリーナを推していた。カティリーナの素養を知る元老院議員たちはカティリーナにそんなクーデターの計画など立てられるはずがないとカエサルを黒幕だと疑っていた。本当のところは分からないけど僕はカエサルは関わってないと思う。カエサルが関わっていたらもっと用意周到にことを進めただろうから。。カエサルはもともと、一個人を問答無用で処刑までできてしまう「元老院最終勧告」に強い嫌悪感を持っていたので、今回の演説の動機の多くはそこにあったはず。

結果的に、キケロ、小カトーの主張が元老院を支配して、カティリーナの一派は処刑されることになります。それを弁護したカエサルは国家転覆を画策した人物を擁護したとして、しばらくの間ローマの街を出歩けなくなってしまったといいます。

サルスティウスの著作のほか、キケロ自身もこの時の弁論を記録させて、知り合いを通じて出版したといいます。これらによっておそらくこのクーデター未遂事件の本質以上に、歴史的に多く取り上げられてきたのだと思うわけです。

ここまでがカティリーナの陰謀の主な話。

 

僕は「カティリーナの陰謀」の一連の出来事の中、キケロの弁論より、カエサルの反論より、すごく重要でとてもカエサルらしいと思っている出来事があります。

カティリーナの陰謀についてキケロや小カトーが弁論している元老院議会の最中に、カエサルがメモをしたため従者に持たせて出しました。するとしばらくして従者が手紙をもってカエサルの元に戻ってきた。カエサルは一読すると折りたたんで仕舞います。この一部始終を見ていた小カトーが鬼の首とったが如く、カエサルを糾弾する。

「見ろ!カエサルは今外にいるカティリーナ一味と連絡をとっていた」と小カトー。

カエサルは「これはごく私的なものに過ぎない」何いってんの?と、取り合わない。

小カトーはその手紙を見せてみろ!とカエサルに迫ると、カエサルはあっさり渡します。その手紙を受け取った小カトーは顔を真っ赤にしておとなしくなってしまった。

その手紙はカエサルの一番の愛人からの恋文だった。しかもその人は小カトーの義理の姉。今までの緊迫した空気は小カトーに向けた元老院議員の大爆笑によって一気に変わります。

実はこの時を境にカエサルの「カティリーナ黒幕疑惑」はほぼ晴れたといわれているのです。と考えるとこれはカエサルの仕込みだったのかもしれません。

そうであったとしても、そうでなかったとしても、とてもカエサルらしい、そして注目すべき出来事です。

 

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カエサルと "借金”

海賊に囚われた時には50タラント(約50億円)もの身代金を従者に借金に走らせたり、按察官時代に行った二つの大事業を自費で行ったり、この時期、35歳にしてカエサルの借金は既に膨大な額でした。さらに生涯かけてカエサル天文学的な数字の借金をすることになります。しかしカエサルは借金(ラテン語 debituum)を悪とは考えません。

膨大な額の金を何に使っていたかといえば、街道の修復や公共広場の建設などの公共事業を行うため、また自分の軍団兵のため、また、たくさんの愛人に喜んでもらう贈り物を買うため等々。当時元老院議員たちはこぞってパラティノの丘に豪邸をもつことがステイタス。カエサルはこの手の「自分の財産を溜め込む」とか、「豪邸建てる」などといった、いわゆる私服を肥やす的なこととは無縁で、借りた金は右から左へ次々と活用していった。そう、活用していったんです。借金で自分の身代金を調達し、海賊に誘拐された人々の命を救い、ついでに海賊退治する。借金で公共事業行って重要な国のインフラを整備して民衆の支持を得る。借金でイベント開催して民衆を楽しませて、人気をとる。カエサルの借金=お金の活用は周到で緻密な計算に基づいている。

また、借金が巨額になると貸す側に逆に大きなプレッシャーがかかり、援助せざるを得なくなる。貸した側は、貸した金がふいにならないために、カエサルが破綻しないようにさらに援助をしたといいます。

 

カエサルとお金の使い方を象徴する、よく語られるエピソードがあります。

戦役中、カエサルは配下の軍団の大隊長たちから借金をします。そしてその金を末端の兵士一人一人にボーナスとして振舞う。すると兵士は感激して一層勇敢に戦い、大隊長たちもカエサルが負けては自分の金が戻らないと必死になって戦った、と。

 

カエサルにとって世の中に存在する全てのお金は「誰か個人のもの」という考え方はなかったようです。そしてカエサルはお金の活かし方を知っていた。

「うなるように金は使うが、カエサルは私腹を肥やすことにはまったく興味が無かった。」

ローマ人の物語に記されたこのフレーズがカエサルとお金、カエサルと借金に対する姿勢をずばり表現している。

さすがにこれをそのまま現代社会で真似をすることはできないけど、「お金」を別の事柄に置き換えると、現代を生きるいろいろな人生のヒントが見えてくる、そんな気がします。

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カエサル5 民衆派として立つ

立つカエサルはB.C.65、35歳の時に按察官(エデイリス / aedilis)に就任します。按察官とはローマの公共施設の管理や祭儀の管理を行う官職でした。

カエサルはこの年、この官職を利用してローマ街道の補修と剣闘士試合開催という二つの大事業を行います。しかも自費で、しかも借金で。

ひとつ目:ローマ街道の補修

「ローマ街道」とは今でいう高速道路で、3層構造で頑丈に基礎が固められ、その上に平らな石を敷き詰めたいわゆる舗装された高速道路。人や馬や荷車、更に軍団がスムーズにスピーディに行き来するための道で、ローマの経済と軍事を支える重要なインフラとしてローマの領土の隅々まで機能的に整備されていました。ちなみにこの非常に頑丈な基礎は、今でもそのままイタリアやヨーロッパの道路に使われているほどでローマの技術力の高さを示します。

 ローマ街道の基礎構造

さて、ローマ街道は国家ローマを人間に例えるなら血管網といったところ。そのローマ街道の中でも最も重要で古く「街道の女王」と呼ばれるのが「アッピア街道(Via Appia)」です。アッピア街道はB.C.312年に施設されたローマと、古くからギリシア、エジプト、オリエントへの玄関口として機能する都市ブリンディシ(イタリア語Brinndisi / ラテン語Brundisium)を結んでいて、名実ともに最重要な街道として知られていました。カエサルはB.C.65のこの年、大々的にこのアッピア街道をメンテナンスします。しかも自費で(借金で)。

 アッピア街道(白線)

二つ目:派手な剣闘士競技会主催

元々ローマでは剣闘試合は故人の追悼のために、紀元前3世紀頃に始まったと言われており、この年按察官となったカエサルは何年も前に亡くなった「父の追悼」という名目で640人もの剣闘士を集めて剣闘士競技会を提供しました。自費で。さらにその際、試合が派手に演出されるようにと剣闘士の装備、盾や鎧はカエサルが派手で見栄えのするものを揃えて剣闘士達に支給され、カエサルがプロデュースした競技会は盛大に開催され、市民を大いに楽しませたといいます。

剣闘士を描いたモザイク

 

按察官として行ったこの二つの事業は、前者は市民がとてもよく知る重要なインフラのメンテナンス、後者は市民に対する大規模な娯楽の提供、その両方を自費で(とはいっても借金によって)行ったことは、1年という按察官の任期の中で、民衆からのカエサルの人気を不動なものにしてしまった。

 

三つ目の公共事業

前出の二つに比べると規模は小さいけど、実はこの年もう一つ重要な公共事業を行っています。そして実はこの三つ目が最も重要だったように思うのです。

カエサルはスッラの時代に元老院派に破壊された、叔父マリウスの戦勝記念碑を16年ぶりに再建します。按察官の公務の守備範囲ということではあるのだけど、マリウスはいまだ国賊扱いのままとなっていました。「国賊の記念碑の再建」というカエサルの申し出に対して、元老院のお歴々は、民衆の支持を受けたカエサルを止めることはしなかった。いや、まだカエサルなど一介の若造と、止める必要すら感じなかったのかもしれません。でも実はこのマリウスの戦勝記念碑の再建がその後のカエサルを決定づけたと思えてなりません。この民衆派の英雄マリウスの戦勝記念碑を復活させたことで、ただの人気ではなく、カエサルが民衆派の指導者として庶民に認知されることになった。ただの人気だけでなく指導者として支持されることの意味は大きかったと思う。

 

カエサルが最初からどこまでシナリオを描いていたのかはわからない。でも、按察官という立場を利用したこれら公共事業によって、カエサル自ら、カエサル=民衆派(Populares)を明言することなく世間はそう認知することになりました。元老院には直接的な刺激を避け、ローマ庶民から「民衆派カエサル」としての強い支持を得ることに成功し、ローマの政界で戦っていくための強力な武器を手に入れた。

B.C.65年とはカエサルにとって、とても重要な年だったと思うわけです。

 

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空と雲と 空の帯

この日、空にマジックアワーが訪れました。

これは夕日とは反対側の東の空です。

最初、全体的に雲が多く空一面グレーでした。奥の方水平線のあたりだけが少しオレンジ色になってきたと思ったら、空を覆う影が現れました。

だんだん空の夕焼けっぽい範囲が広がっていき、奥に行くほど影はくっきり棒状に細く絞られていきます。なんか裾が広がっているようにも見える。

空全体が夕焼けに染まると、影の帯もより一層くっきりと。

影の帯に目がいってしまいがちですが、雲が纏う色のグラデーションもとても豊かで幻想的です。

後で知ったのですが、この黒い帯は富士山の影だったそうです。この影の反対側に富士山があって、富士山の上に陽が沈んだ。東京上空は比較的低層の雲に覆われていたことも含めいくつかの条件が重なって今回のような空の芸術が完成したわけです。

よく見ると1枚目から影の裾野の形が富士山っぽくも見えます。

でも、正直あの影が何か?メカニズムなんてどうでもいいんです。綺麗な空と雲。それだけで十分。

この日訪れたマジックアワー。この空がこの日仕事で疲れた心と頭をとても癒しくれました。

 

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