cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

空と雲と 何度目の秋だろう

いい季節になってきた。と思ったらここ数日はすごく暑い。

熊本では、今稲刈りの時期でもあります。関東ではもうとっくに終わっている稲刈りを今頃やってるんですよね。この田んぼのご主人だと思うのだけど、木陰に座って呑気に田んぼを眺めてると思ったら、どうも無人の稲刈り機が勝手に稲刈りをしているようで、その様子を眺めている。技術の進化というのは目まぐるしく、どんどん人は必要なくなっていくんじゃ無いかと思ってしまいます。

こんな季節になると、空の様子も変わってきます。モクモクした積乱雲の夏の空と違って、高い位置に柔らかいシルクの布のような雲が秋口や、春先に現れやすくなる雲の特徴で、僕はこのタイプの雲と空も大好きなのです。

鳥の羽のような、とても複雑な雲。

おんなじようなところにあるのに、規則的に波打つ雲と、真っ直ぐに伸びる雲。どうやったらこんな形になるんだろう。

櫛で髪の毛をとかしたような雲。


こちらは、自宅に戻ってから見た夕暮れ時の空。何層も雲が連なって斜陽を遮ります。

信号は青だ。

いけ!ということだ。

 

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パムッカレ 綿の城

*10/12に誤って編集前の書きかけものを公開してしまっていたようです。すみません。10/18update分が完成稿になります。

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エフェソスからひたすら東の内陸へ200km、約2時間のバスの旅を経てパムッカレが近づいてきました。エフェソスからパムッカレまでの道は比較的緑の多い地帯で、水路と広大な畑が広がった緑豊かな景色が続きます。

そしてある時、遠くの方の景色の異変に気づくのです。

緑の畑の向こうの荒涼とした山の中腹が不自然に白い。まるで白く雪が積もったように見えるところがある。バスの中からカメラのズームを目一杯にして、それが何なのかまだわからない。それが目的地であるパムッカレの石灰棚だと気づくまでにはしばらく時間が必要でした。

 

見る見るうちに白い部分が近づいて、この辺まで来てようやく、これがパムッカレの石灰の白であることを確信する。こんな風にパムッカレは今まで見たことのないとても不思議な姿で僕たちを迎えてくれました。これからあの丘の上に登ります。

 

「パムッカレ(Pamukkale)」とは「綿の城」という意味のトルコ語で、パムッカレの真白な石灰で覆われた姿と、長い長い時間をかけて作られた水をたたえる、天然の石灰棚の景観から付けられた名前です。

ここにははるか昔から温泉が湧き出ていて、そこには豊富な石灰成分が含まれています。温泉水が地表に湧き出て、この丘に流れ出ていく時に、数十万年という気の遠くなるような長い年月をかけてこの「綿の城」は作り上げられたと考えられています。

自然が作り上げた造形はとても不思議で見事です。なぜこんなに白いのか、どうやってこんなに奇妙できれいな形になっていくのかが気になってきます。

温泉地であっても、いくつかの条件が揃わなければ、綿の城はできません。

石灰成分を豊富に含んだ温泉水が湧き出ていることと、その温泉が流れ出る位置とそれが流れていくこの丘の傾斜の度合いや地形にも条件があるらしい。

地下では温泉水に溶け込んでいた石灰成分が、地表に湧き出て二酸化炭素を放出することで、炭酸カルシウムとなって析出する。その白い石灰が地表のちょっとした凹凸や水の流れ落ちる縁に堆積し、小さな堤防を作る。堤防には水が溜まり、その縁にはさらに石灰が堆積する。そうして半円形のプールが成長し、やがて幾つものプールが斜面を覆うように広がっていく。こんな風にこの綿の城は途方もない時間をかけて出来上がり、そして今でも湧き出る温泉によって綿の城は少しずつ成長を続けているのです。

白は堆積する炭酸カルシウムのとても細かい結晶によって光が散乱するためで、温泉から析出される白い石灰岩はトラバーチンと呼ばれ、古くから建築資材として活用されてきました。短絡的ではあるけれど、この石灰棚そのものがトラバーチンでできている。妙に納得してしまいました。

 

石灰棚の上から丘の下の方を覗き込む。石灰は丘の斜面を下のほうまで白く染めていて、丘の上から見たその様子は遠くから見た印象と同じで、本当に雪が積もったようでした。

 

90年代前半までは、どうもこの天然の石灰棚に入ることが出来たらしいのだけど、現在は石灰棚の保護のため立ち入りは禁止されています。

でも、大勢の観光客の欲求に応えるため、中に入って浸かれる人工棚が用意されています。天然の石灰棚から坂道に沿って段々に人工の温泉の入った人工の石灰棚が続きます。

僕も人工の石灰棚を体験しようとこの列に混じる。ここは裸足で行くのだけど、石灰の表面が細かくデコボコしていて、これがけっこう痛い。石灰棚を形成している炭酸カルシウムの細かい結晶によるものを実体験した感じです。

そんな思いをしながら人工的に作られた石灰棚で温泉水に浸かってみたものの、ちょっとここには僕が求めるものはないとわかって引き返すことにしました。今思うとあの場所は、日本でいう足湯と思えば良かったのかもしれません。

そんなわけで僕はすぐに引き返しました。天然の石灰棚を鑑賞するために。

 

石灰棚の始まりは、この温泉の注ぎ口です。

この温泉は、昔から万病に効くとされ、また肌によい「美人の湯」としても有名だったと言われています。

 

温泉水は勢いよく流れ出ているのだけど、1970年代から急速な観光地として開発が進んで、当時急に多くの温泉ホテルが出来上がったおかげで、石灰棚よりホテルに温泉を供給するほうが多くなっていたそうです。それによってかつては満々と温泉水を張っていた石灰棚の景観も下の写真のように、その大部分の棚が涸れた状態となってしまってました。見事な石灰棚の景観なだけに、水のないパムッカレにはちょっと物悲しさを感じてしまいます。

でも現在は、真白な石灰棚を維持するためには棚に温泉が流れ、石灰の層が更新されることが重要であることがわかって、石灰棚への温泉流量がしっかり管理されているらしい。

 

温泉の湯をたたえる棚の様子は遥か昔から続くこの場所の、白い綿の城を作った過程をかすかに教えてくれる。そして途方もない時間がこの石灰棚を作り出して、やがて丘の斜面を真白く覆ってしまったんだということも僕に教えてくれたのでした。

僕がこの自然の造形に驚き、人工の石灰棚から早々に引き返してきたように、古代の人々もまた、このパムッカレの不思議な景色と温泉に引き寄せられてきたのでしょう。人々はこの丘の上に街を築いて、やがて都市へ発展させていった。自然が数十万年の時間をかけて作り上げた白い綿の城、そのすぐそばに人が住み人の歴史を刻み始めたのです。

地球がつくった綿の城を見た後は、次はそれに惹かれて集まった人々が作った古代都市へと向かいましょう。

 

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小話 見える世界

山の中の池。波紋広がる水面に周囲の木々の緑が反射しています。

一見すると何だかわからない、CGみたいに人工的に作られた絵かとも見えますが、自然を写した写真です。風景も切り取り方によって、見え方がまるで変わります。

こっちの方が何であるか、もうちょっと分かりますね。さっきの風景をもうちょっと引き気味に写したものです。いくつも重なる波紋の上に木々の緑が反射して複雑な模様を作っている。

昔から人が見た景色が絵になって、写実的な絵から、印象派的なその瞬間や時間や空間を表現する絵が現れ、またキュビズムのような表現が現れたり、またそれが何なのかわからない、ひたすら五感に訴える現代美術が現れて、というように絵画という芸術も枝分かれ進化を続けてきた。なかなか一言で「現代美術」と括ってしまうのは乱暴なのだけど、僕は現代美術の表現というのはとても分かりづらく、説明聞いてもわからない異質なものと捉えてきました。

でも、その中には何だかわからないけど、とても気になってしまうものがあったりして、現代美術という世界も何だか面白い。何だかわからないけど惹かれる、という人間の感性というものは謎が多くて面白い。で、僕は写実的な古典的な絵と何だかわからない(場合がある)現代美術は対極にある全く別のものと思っていました。でも、上の水面の写真のように、目に映ったものをどう切り取るかによって、綺麗な風景写真になったり、一見すると何だかよくわからない現代美術か、サイバー空間のCG見たいな絵になったりする。

人は同じものを見てるのに、それをどう切り取るかによって全然違う世界が出来上がるんだ。

そんなことを考えながら、山から降りると遠くの空にはオレンジ色に輝く雲がいく筋も流れていました。多分この景色は誰がどう見ても綺麗と思える姿なのだと思う。人間の感性に響く普遍的な美しさ、というやつなのかもしれない。

 

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エフェソスの生い立ち

◾️人の痕跡は紀元前7千年ころ

クチュクレメンデス川の河口、気候も温暖なエーゲ海に面したこの地に人が住み始めたのは紀元前7千年ころとも言われています。紀元前2000年頃、青銅器時代に存在したアルツァワ王国の首都「アパサ(Apasa / Apasas)」がこの地にあったと考えられています。また中にはアマゾネス族がここに都市を建設したという伝説もあり、古くからエフェソスの地に住んだ人々は豊穣の女神、地母神を信仰していたと言われている。

☆    ★    ☆

◾️紀元前11世紀頃のイオニアの街 

紀元前11〜紀元前10世紀、伝承によればアテネ王家のアンドロクロスに率いられたイオニア人がこの地に移住し、デルフィの神託に従い海岸沿いに街を築いた。アテネ出身のコドロスの息子アンドロクロスが作った街は典型的なイオニアの街だったとされている。

イオニア人がこの地に来てから、先住民の地母神信仰とイオニア人の女神アルテミス信仰が結びついて、豊穣や生命を守る性格を持つエフェソス独自のアルテミス信仰へ発展していきます。以来一千年間この地はエフェソス独自の「豊穣の女神アルテミス信仰」の中心となるのでした。

その地勢を活かしてエーゲ海とアナトリア内陸を結ぶ要衝として栄え、芸術、科学、哲学は隆盛を極めました。 また優れた地勢ゆえ他民族による侵略や争いも絶えず繰り返されることとなったのでした。

☆    ★    ☆

◾️様々な支配者による紀元前6世紀~

BC6c リディア王クロイソスによる支配、ペルシア王キュロスによる支配

BC6c-5c エフェソス出身の哲学者ヘラクリトスが活動し、古代哲学に大きな影響を与える。

BC5c ペルシア戦争でアテネがペルシアに勝利した後、アテネを中心とするデロス同盟に参加。アテネの支配的影響下に入る。

BC4c  再びペルシアによる支配。

BC356 アルテミス神殿焼け落ちる。同じ年アレクサンダー大王誕生。

BC334 アレクサンダー大王(マケドニア)がペルシア支配からエフェソス解放。

BC300頃 リシマコス(アレクサンダー大王の後継者)が新しい都市を建設。妻アルシノエにちなみ「アルシノエイア」と名付ける。

港が土砂で埋まり、湿地化が進行する中、リシマコスがアルテミス神殿の側から現在の位置に街を移動、住民は強制的に移住させられる。

BC3c〜BC2c リシマコスの死後、セレウコス朝・プトレマイオス朝などの争奪を経て、セレウコス朝シリアによる支配。

BC188   ペルガモン王国による支配。

☆    ★    ☆

☆ローマの下の繁栄

BC133 ペルガモン王国がローマに遺贈される。

BC129 ローマの属州アジアが整備される。

BC88   ポントス王ミトリダテスによる支配。

BC84  スッラによりポントスから解放され、ローマ支配に復帰。  

BC41  アントニウスとクレオパトラがタルソスで会見。

BC32 アントニウスとクレオパトラ、エフェソスに滞在しローマ、エジプトの艦隊を集結させる。

ローマ共和政末期にアジア属州の中心都市として発展。エフェソスの人口は最盛期には20万人を超えたと言われている。

 

伝承によれば聖ヨハネは聖母マリアとともにエフェソスで暮らしたとされる。

AD50年代 聖パウロ、エフェソスに到着。宣教活動を行う。

AD54-68 皇帝ネロの治世に競技場が整備される。

AD81-96 皇帝ドミティアヌスの治世に皇帝崇拝ドミティアヌス神殿が完成。

AD1c〜2c  トライアヌス帝などにより大劇場が拡張、現在見られる規模になった。

AD2c前半  セルシウス図書館完成。

AD117頃    ハドリアヌス神殿が建設される。

 

◾️衰退の始まり

AD3c ゴート族の侵入で街は破壊される

   

◾️キリスト教の街として

AD4c 小アジアの重要な司教座・キリスト教の中心地となる

AD431 第3回公会議(エフェソス公会議)。マリアを「神の母(テオトコス)」とする教義が確認される

◾️トルコ民族の支配

AD14c メンテシェ侯国、アイドゥン侯国、オスマン帝国といったトルコ系民族によって相次いで支配される。

1420年代 オスマン・トルコ帝国による支配が定着

 

この頃、エフェソスの港の土砂堆積、地震、経済状況の変化などによって、この地方の中心都市はエフェソスからイズミルに徐々に移っていきました。

 

改めてエフェソスの足跡を辿ってみると、あるひとつのことが浮き彫りになってくるのでした。

エフェソスはその地勢の良さから様々な民族がこの地を求めてやってきました。

イオニア、ペルシア、アテネ、マケドニア、ペルガモン、エジプト、ポントス、ローマ、トルコ、多様な文化文明を持った人々がエフェソスを支配しました。でも、エフェソスの街はその姿や支配者が変わっても、その根底にある心の向く先、祈りの対象は変わることがなかったように思えます。エフェソスの崇敬の対象は女性である地母神キベレ、ギリシアの豊穣の女神アルテミスであり、そして聖母マリアでした。

*エフェソスで崇敬された地母神キベレ、女神アルテミス、聖母マリア AIとの合作

 

これは古代から元々ここアナトリア地方やエフェソスに住んできた人々が代々受け継いだこの土地の記憶によるものではないかと想像してしまいます。

 

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空と雲と クラゲ漂う

僕は旅先での朝の街歩きが好きなのですが、朝の街と同じくらい朝の空も好きなのです。真っ赤に染まる夕焼け空も好きですが、透き通った空気の中で広がる空というのはとても色が柔らかいのです。

なので、燃えるような夕焼け空の時と同じ高さに太陽がいても、朝は空気が澄んでいるからか、あわいオレンジやピンクに染まる。青空も夜の藍色から黄色が混ざった淡い水色に近い色に変わっていく。

今朝の空は高いところに細切れの秋の雲がただよい、その下の層のまだ光が届いてない高さのところに不思議な感じに雲が広がる。形は多様でその表情はとても豊かです。

あるところではリズムよく波のように並んで浮かび、

こちらはクラゲが漂っているように雲が自由に浮いている。

空は刻一刻と変化して、雲もその形をどんどん変えていきます。だからその瞬間の空と同じ空は、2度と見ることが出来ない。僕が空に惹かれて止まないのは、「綺麗だから」はもちろんのこと、それだけでなく、2度と見ることが出来ない世紀の瞬間にもれなく立ち会いたいがためかもしれません。

 

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エフェソス 聖母マリアの家

パナヤカプルの丘

「聖ヨハネは聖母マリアとともにエフェソスを訪れた。そして聖母マリアはもっとも幸福な時を過ごしたこの地で、天国に召された。」

カトリック教会の中では、聖母マリアの生涯については長い間2つの説が唱えられていました。ひとつはエルサレムで生涯を終えたというもの。もうひとつはここエフェソスで死を迎えたというもの。18世紀のローマ教皇ベネディクト14世(在位1740-1758年)は、イエス・キリストの十二使徒の一人である聖ヨハネが聖母マリアを伴ってエフェソスへ赴いたという伝説を公式に支持したことで知られています。

聖母マリアはキリストの磔刑から4年の後に、聖ヨハネとともにエフェソスを訪れたと言います。そして聖マリアはキリストの死に傷つき、深い悲しみを背負ったままさまよい、やがてオリーブの茂るパナヤカプルの丘にたどり着き、小さな小屋を建て、そこで余生を送った。と、言われている。

 

19世紀になって、ドイツの高名なカトリックの修道女であり神秘家A.K.エメリッヒが神の声を聞きました。神の声に従いエメリッヒは一度も行ったことのないはずのエフェソスの様子を描写し、聖母マリアの家とその墓の位置などの詳細を語りました。

そしてエメリッヒの言葉の通りにフランス人司祭ジュリアン・グイエが1881年に遺構を発見。1891年にはラザリスト会の司祭たちが改めて探索し、現在の場所を確認しています。

その予言をもとに1892年に発掘調査を行った結果、エフェソスから9kmはなれたオリーブの茂る丘に、予言通り1世紀頃に建てられた建物の名残とともに、暖炉の聖なる灰が発見されたのだそうです。

 

20世紀に入ると、この場所は聖母マリアゆかりの聖地として広く知られるようになり、ローマ教皇もここでミサを行なったり祈りを捧げたりするようになった。やがて世界各地からキリスト教徒が訪れる巡礼地となりました。

今ここにある家は1951年に大規模に修復が行われたもの。一部に1世紀の聖母マリアの時代の壁、その後2世紀、7世紀に建てられた聖堂の壁が残されています。

内部はとても質素で小さな4つの部屋に分かれていて、3つ目の部屋に祭壇があり聖母マリアの像が安置されている。最後の部屋、出口脇にとても古い、おそらく7世紀のものと思われる古い壁画が残されていました。

僕はエフェソスと同じく2度ここを訪れました。

1度目はまだ朝もやの消えない早朝のうちに訪れたので、人も少なくとても静かで神秘的でした。

2度目は上の写真のように観光客や巡礼者が大勢、行列をつくり小さな家に入っていく大混雑。

聖母マリアが晩年過ごした場所という、とても神聖な場所は、かつて厳かに密かに存在していたのだけど巡礼地となった今は、聖母マリアの過ごした空間を求めて、すっかり大勢の人が絶えない場所になってしまっている。おそらく最初に感じた神聖な神秘的な空気が本来のこの場所の空気なんだろうと思う。

同じ場所なのにまるで違う場所のよう。そんな風に変わって見えたのは単に人の多さのせいか、僕自身の変化のためか、本当のところはわからないまま。

 

聖母マリアの家に続く道では12の国の言葉でこの地の生い立ちが語られています。

 

 

家の下には「聖母マリアの泉」がある。聖母マリアが晩年にこの水を飲んですごしたといわれる、「万能の水」。

伝承によれば、この万能の水と聖母マリアの家の暖炉の灰はたくさんの奇跡を生んだと言われています。不治の病を宣告された人、生まれつきの障害を持つ人がこの泉の水で回復したと言われている。

 

 

さらに進むと、紙縒りでびっしり埋まった壁が現れる。ここに紙縒りを結ぶと願いがかなうという。僕もしっかり結んできました。

 

あれから四半世紀が過ぎ、この時の願いはいくつか叶いました。

万能の水も飲んだおかげで、今ここまで元気に過ごせている。

これは奇跡かもしれない。

 

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熊本小話 熊本の熊野

阿蘇五山の一つ根子岳の麓にこんな神社がありました。

上色見熊野座神社(かみしきみくまのざじんじゃと読みます)。

諸説ありますが、鎌倉時代末期から室町時代ごろの建立と伝えられる古い神社です。

なぜ阿蘇のこの場所に、熊野と名前につく神社があるのか不思議でつい立ち寄ってしまいました。

元々ここには阿蘇の古い自然への、特に岩石への信仰があったそうです。

神社が建てられるはるか昔から存在したと考えられる岩・山・自然に対する信仰に、中世になって紀伊半島の熊野信仰や修験道が重なったと言われています。熊野からやってきた修験者や山伏たちが、阿蘇と熊野の信仰を結びつけたと言うのです。

しかしながら僕は、そんなこの神社のいわれをよく知らずに、ふらっと立ち寄ってしまいました。

山の斜面に向かってひたすら進む、苔むした石灯籠が無数に並ぶ参道が神秘的な佇まいです。

100基とも言われる石灯籠に挟まれ、無数の杉の木に囲まれた参道をひたすら登っていくのです。高い杉の木々によって光が閉ざされて何だか異世界へ向かう不思議な道のようにも感じます。周囲から発するエネルギーのようなものも、気のせいかもしれないけど、肌で感じる。五感を研ぎ澄ませて進んでいくのです。

 

すると、石の鳥居が僕を迎えてくれて、遠くに明るい日が差している場所があることに気付きます。そこは神社の社でした。

 

今まで杉の林に閉ざされたような、薄暗い参道だったのが一転してスポットライトを浴びたかのように社が現れます。できすぎた演出です。

 

ここは阿蘇五山の一つ根子岳が後ろに控える、上色見熊野座神社。

根子岳には、健磐龍命が阿蘇の外輪山を蹴破って湖水を流そうとしたという阿蘇開拓神話に関連する伝承があります。そして穿戸岩には鬼八法師の伝説。神社のさらに奥には鬼八法師が蹴り破って穴を開けたという、穴のあいた巨大な岩があり、この写真の岩はその時に飛ばされた岩のカケラと言われているらしい。

この周辺では、自然地形そのものが神話となっているんですね。

これは古代の人々が身近で不思議な地形を見つけて、

「どうしてこんな巨大な岩に穴が開いているのだろう?」

と驚き、様々な物語を創造していく。おそらく神話とはそうやって生まれるものなのだろう。

自然の造形と人間の想像力、おそらくこの空間に限った話ではなく、同じような形で世界のたくさんの神話や御伽話が生まれてきたんだろう。さらに時空を超えて、それが伝わってどんどん新しい展開とドラマが生まれ育っていく。

ふと振り返ると、僕が今までやってきたことも、色々なところで素晴らしい自然や景色を見たり、それを描いた絵や、触発されて建てられた建物を見て、するとそれらについて知りたくなって、調べて、その感動を表現して、というふうに創造の連鎖の中にいる。

上色見熊野座神社を訪ねて、自然への畏怖の念と異世界を堪能して、その歴史を知って、誠に勝手ではあるけれど、何だか自分もその一部にいるような気持ちになれた。

この苔むした石灯籠。何とも気になって仕方なかった石灯籠。行きも帰りも僕はこの無数の石灯籠に見守られて、僕に何か得体の知れない力を授けてくれた、ような気がしました。

 

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