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旅行の記憶と何気ない日常を

ミラノ小話 遠くて遠い最後の晩餐

f:id:fukarinka:20210418182604j:plainレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」を見るまでに、僕はミラノに3度、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会には4度足を運びました。でも実際にこの絵としっかり対面できたのはたったの1度だけ。そのせいもあってか、僕はこの絵に対して、その世間一般にいわれる以上の愛着を感じてしまうのです。その4回の顛末を。。。なぜ4回も行かねばならなかったのか。。

 

第1回ミラノ遠征

僕が「最後の晩餐」に最初に挑んだのは1991年、初めてのヨーロッパ旅行の時。
その当時イギリスにすんでいた従兄弟の家族と一緒に2週間のヨーロッパ縦断ドライブ旅行に便乗してイギリスのウェールズからイタリアローマを車で2週間かけての往復旅行の途中。そのころは「ヨーロッパのなんたるか」なんて知ることもなく、ただ従兄弟の家族にくっついていろいろな街を訪れた。今思えば、その中で従兄弟が「これは見ておかなければ」というリストの上位にあったのが、このミラノの「最後の晩餐」でした。

僕たちはドーバー海峡をわたり、ベルギーからドイツを抜け、スイスを見た後イタリア国境の街で一晩過ごしてイタリア・ミラノに入りました。まず最初に「最後の晩餐」を見ようとサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会へと向かう。しかし到着したのは午後2時前。なんと閉館時間直前(正確には閉館10分前)。なぜ午後2時に閉館なのか!?さびれたチケット売り場兼、記念品売り場の女性は無情にも閉店時間前に店じまいを始めたところでした。この後すぐローマに向かう予定だった僕たちは、せめて「ひと目だけでも」とお願いしても、その商売っ気のないイタリア人は首を縦に振らない。結局そのときは中に入ることはできず、第一回最後の晩餐遠征は空振りに終わったのでした。

 

第2回ミラノ遠征

2週間のドライブ旅行の折り返し、その後ローマからピサ、ジェノバを経てそのままフランスのシャモにへ行く予定だったのだけど、その前にもう一度ミラノに寄って「最後の晩餐」をこんどこそ見よう、ということになったのでした。そして2度目のミラノ、午前中にサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会についた。今度は文句無しに修道院の食堂に入れる時間です。

第2次世界大戦の爆撃にも奇跡的に崩れず残った、そんな神がかった絵とはどんなモノか・・と期待にわくわくしながらチケットを買い、古びた小さな食堂の入り口をくぐった。ついに最後の晩餐とご対面。すると、薄暗い食堂内の壁に櫓が建てられ、なにやら作業をしている。そして中央部が完全におおわれ、全く見えない。「まてよ、そこにはキリストがおわしたはず・・」。当時、「最後の晩餐」は1970年代に始まった大修復の真っ最中。脇に控える弟子たちのうちほん何人かが見える程度。要はほとんど隠れて見ることはできなかったのです。

ただこのときは第1回目に門前払いを食らったこともあり、「最後の晩餐をこの目で見た」だけで、相当満足していた。

 

第3回ミラノ遠征

1996年僕は再びミラノを訪れた。このときはスイス・アルプスを見た後、ミラノに立ち寄ったのですが、その目的は「最後の晩餐」を見る、その一点。
このときもミラノ到着後まずはサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会を目指す。愚かにも午後2時ごろに。入り口まで来て「はっ」と5年前の出来事がよぎる。「そうだった・・・」と閉ざされた入り口を背にすごすご引き返し、自分の愚かさを噛み締めながら、スフォルツェスコ城のほうへあるきだした。明日朝こよう。。

 

第4回 最後の晩餐到達か

 次の日朝一番にサンタ・マリア・デッレグラツィエに向かう。まだ開館まえだというのに20m以上の行列ができている。前回の時とは入り口も違うように思える。前は中に入るとすぐに修道院の食堂に入れたのに、今回はちょっと違う。通路を進みガラスの自動ドアを抜けて「古びた修道院の食堂」改め、「最後の晩餐保管の間」にはいる。

壁や天井の漆喰は塗り直され、出入り口は自動ドア、空調完備と、ものすごい変わり様だ。絵はほとんど修復が終わっているように見え、絵を覆うような櫓はくまれていない。

このとき初めて、「最後の晩餐」の全容を見ることができました。
それほど広くない食堂の壁に描かれた絵は修復も無事に綺麗に進み、離れてみるとそれほど痛みは感じられない。キリストの仕草、弟子たちのそれぞれの動き、レオナルドが書き上げた当時の空気がそのまま感じられそうな気がします。

絵を近くで観察しようと、少しずつ近寄って行きます。絵に近づくにつれて、だんだんと激しい劣化が見えるようになってくる。修復されているとはいえ月の表面のクレータのように絵の具がはげ落ちている様は痛々しい。過去ヴァザーリはじめ「最後の晩餐」を見た人が書き残したように、近くによると何が描かれているのかわからなくなる。現在にいたるまでに、とくに19世紀まで間に行われた修復は「修復」と言う名の「加筆」でありディテールはすでにレオナルドのものでは無くなっていると言ってもよく、レオナルド研究者は嘆いているという。

いろいろな場所、角度からこの絵をながめて、やはりこの絵でレオナルドを感じるためにはちょっと遠目からみるのがいいんだと感じました。遠目にみる最後の晩餐は、近くではぼろぼろで見えなかったものが不思議なくらい浮き立って見える。加筆され、ボロボロになってもなお強く輝きを放つ万能の人の作品。

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5年ぶりのミラノ、実質初めての「この絵」を堪能するために、ぼくは部屋の半分から後ろの壁際あたりをひたすらうろうろ過ごした。その間、たくさんのツアー客が入れ替わり、立ち替わり、この部屋を訪れては去っていった。ちょっと立ち止まりツアコンが解説する団体はまだいいとして、入るや、いきなりパシャパシャそれぞれ記念撮影してあっという間にでていくような団体がほとんど。最後の晩餐鑑賞に要した各ツアーの平均時間はせいぜい2分といったところではないだろうか?きっと時間に追われているのだろうけど、それではあまりにもにもったいない。4度目にしてはじめて見ることのできた僕には心底そう感じられた。

そんな出入りの激しい食堂でも、その合間にほんのひととき僕以外の人間が誰もいなくなる時間ができる。このわずかだけどとても贅沢な時間をすごすとき、人類の宝といえるこの絵を独り占めしたような幸福感に浸れたのでした(単純なもんです)。

 

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ミラノ小話  憩いのドゥオモ広場

f:id:fukarinka:20210417211244j:plainドゥオモ広場の写真を見てネオンギラギラの一角のあるこの広場がどうにも好きになれなかった。なんかヘンテコな形をしたゴシックの王道とは違う大聖堂もどうなのか?まだミラノを訪れる前、これが僕のドゥオモと広場に対する印象でした。

でも、実際にミラノに来てドゥオモ広場に入ると印象が一転します。

確かにイタリアの他の街の華やかさと比べると、ごちゃごちゃして見栄えは悪い。でも広場の中に足を踏み入れてみると、これが「不思議な居心地の良さ」に驚くことになります。

これは僕が日本人で、統制の取れない看板だらけのごちゃごちゃした街で生きてきたからなのか、と思っていたのだけど、どうもミラノの人も同じように感じているらしい。

現地で買ったミラノの現地ガイド(イタリア人が書いた、イタリア語をそのまま日本語にしたかなり無理のある和訳)に、こう綴られています(原文)。

「はっきり言ってドゥオモ広場は素晴らしいとは言えない、様式の一貫性という点からも、形式の威信や美しさという点からも。イタリアによくあるような<絵画的>効果があるとも言えない。しかし堂々としている他に、<恐ろしく>親しみやすい広場であり、神様だけがそのわけをご存知だ!」

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最後の括りはイタリア人らしく大雑把にまとめているけど、僕の感じた心地良さは現地の人も同じなのだというのがとても不思議だった。

僕は、その不完全さのおかげで「重厚ながら肩肘はる必要のない」空気がそこにあって心地良さとして感じるのかな、と分析している。まあ神様だけがご存知のようですので、勝手なことは言えません。

 

ちょっとごちゃごちゃしているこの広場も、夜には別の魅力が現れます。

夜の帷が降りてきてV.エマヌエレ2世の像とその後ろの噴水、広場を囲む「歴史的な」建物はライトアップされ、ごちゃごちゃしたものは闇に隠される。でも電飾はギラギラのまま。

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街灯の下に腰掛け、ドゥオモをスケッチ。

ドゥオモを眺めながらスケッチしていると、しばらくして上から何かが降ってきた。

頭に軽い衝撃と石畳になにがが落ちる音。

広場にはたくさんの鳩がいます。その鳩たちの一羽の糞が頭を直撃したのでした。大半は頭でバウンドして広場に落ちたようで被害はきわめて小さくすみました。僕はそのときこんなことを考えた。

「直撃でこんなに被害が少ないとは、なかなか良くできている」、

「見事な正確さ」と鳩に関心したり、

「運(ウン)が付いた」とこの先の旅が楽しみになったり。

そんなハプニングを経て、メモ帳に描いたのがこのスケッチ(できはともかく)。

 

夜のドゥオモの美しいことといったらない。

絵を描いた後、広場をぐるぐる歩き回り、ライトアップされたドゥオモをいろいろな角度から眺めました。ファサードの美しさもさることながら、中央塔の黄金の聖母マリア像が夜空に浮き立つように神々しく演出されています。

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そしてピザ屋でピザを仕入れ(これがまたシンプルで美味しかった)、広場のさっきのとは違う、また鳩に爆撃されるかもしれない街灯の下に腰掛け夕食をとりました。

淡く光るドゥオモを眺めながら、一日を思い返しながら時間を過ごしつつ。この空間にいると、場違いに思えた電飾看板の一角もそれだけで見れば「まあいいじゃないか」と思えてしまう。

それくらい夜のドゥオモ広場は心が和んだ。この理由は「神様だけがご存知だ」。

夜9時すぎ、ドゥオモ広場は人がひく気配はなくにぎわっている。この日はこのあと後ろ髪引かれる思いで広場を離れ、ミラノ中央駅から夜行列車で次の街へ出発したのでした。

 

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ミラノ ドゥオモ瞬景

f:id:fukarinka:20210417211244j:plain時々刻々変化していくミラノのドゥオモの景色を

 

 

朝のドゥオモ

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大聖堂が朝日をバックにするシルエットはとても神々しい。

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ヴィットリオ・エマヌエレ2世の像、その先にミラノを守ってきた聖母マリアの黄金の像

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ドゥオモの尖塔の上にはたくさんの聖人が立ち、ミラノの街を見守っています。

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 ドゥオモ広場は人も鳩も自由に過ごします。

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やがて日は傾き

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 ドゥオモも夕日に染まる

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 ドゥオモのファサードもいろいろに輝くのです

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そして日が暮れるとドゥオモはライトに照らされ、また違った光をまとうのです。

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イタリアゴシックの最高傑作のある広場は、破壊と再生を繰り返したミラノらしい混沌につつまれています。イタリアらしくないその混沌の空間は、権威ある大聖堂を前にしてもとてもリラックスできて居心地のよい広場空間を作り上げている。洗練とか統一とかばかりが優れた広場空間ではないということを、この広場は示してくれているのかもしれません。

 

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ミラノとレオナルド

f:id:fukarinka:20210307143135j:plainミラノとレオナルド・ダ・ビンチ

Milano e Leonardo Da Vinc

レオナルドとミラノの関わりは1471年、レオナルドが19歳のときから始まります。その年、ルドヴィコ・イル・モーロがフィレンツェ共和国を訪れ、フィレンツェでは歓迎の宴が催されました。それを取り仕切ったのが、レオナルドが弟子入りしていたヴェロッキオ工房。このとき将来のパトロンであるルドヴィコと初対面を果たしますが、当時のレオナルドは未来のことなど全く意識はしていなかったことでしょう。

レオナルドは1482年30歳からの17年間と1504年54歳からの13年間をミラノで過ごします。

レオナルドはミラノで傑作さらに奇跡と呼ばれる作品を沢山生み出し、その名声を高めますます。ミラノにはレオナルドという才能を開花させる土壌があった。そしてレオナルドはそれに応えた。これはミラノにとっても、レオナルドにとっても、そして後世を生きる僕たちにとってもとても幸運なことだったに違いない。

 

*第1期ミラノ(1482-1499  30歳〜47歳)

1482年、30歳のレオナルドはミラノに到着します。この時は実質ミラノ公国の実権を握ったルドヴィコに対して、フィレンツェ共和国の「豪華王」ロレンツォ・メディチが祝いのための文化施設団を派遣するのですが、レオナルドは音楽好きのルドヴィコに贈った楽団の一員としてミラノ入りします。レオナルドはリラの演奏家として、自作の銀製のリラをルドヴィコにプレゼントするため、また自分自身を売り込むためにミラノに来たのでした。

この時期のミラノはルドヴィコが実権を掌握し、絹織物と武器製造で富を成したいわば都市国家としての最盛期。芸術に造詣が深かったルドヴィコはミラノを花の都フィレンツェ以上の華やかな街にすべく、たくさんの芸術家や建築家をミラノに呼び寄せていました。

レオナルドはこの最盛期のミラノにやってきて、1499年にミラノ公国がフランスによって侵略されるまで、とても充実した17年間を過ごしました。

スカラ座広場にあるレオナルドの像

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30歳(1482年) ミラノに来たりて

■自薦状

レオナルドはルドヴィコへ自薦状をしたためます。その内容は全10項目。当時はまだ近隣諸国との争いが絶えない時期だったことで、1〜9項目は戦争時に役立つ、他国より優れた兵器や設備の数々を考案できると売り込みます。そして最後の10項目で平和な時代には建築や土木技術を街づくりに役立てることができるとしながら、そして最後のほうにほんの少し「絵も描けます」と添えている。

万能の人は現代の僕たちにとって「画家の顔」が一番有名だと思うのだけど、この当時「画家」としてのアピールが一番最後のおまけみたいになっていたところが面白く、また秀逸です。

この年にレオナルドはミラノのドゥオモの中央塔の設計案を送るが不採用となる。これが採用されていたら、今とはまた違ったドゥオモが見られたかもしれない。

 

31歳(1483年) レオナルドならではのトラブル

■「岩窟の聖母」制作

ミラノの教会から祭壇画として依頼され、1483-1486年にかけて製作したが、いくつか宗教的なルールから外れる(光輪や十字架がない)ところがあったためにか、依頼主には引き渡されずに、レオナルドから教会とは関係のない別人に売り渡されたと言われている。ルーブル所蔵となっているこの作品は、フランス王家のコレクション記録として1625年からはっきり記録されているのだけど、詳しい入手経路や年代はわかっていない。1500年ころにルイ12世によって買い取られたというのが有力な説らしい。

*岩窟の聖母(部分)

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この時レオナルドは依頼主を訴えていて裁判になります。そしてこの決着は20年後に果たされる。その20年後の話は後ほど。

 32歳(1484年) 影の功労者

■チェチリア・ガルレラーニの肖像(白貂を抱く婦人)制作

このチェチリアは才色兼備のとても聡明な女性でありルドヴィコの愛妾でした。ルドヴィコは政治から宮廷運営、都市計画に至るまでチェチリアの意見を取り入れたと言います。レオナルドに自薦状を出すよう進めたのも、レオナルドをルドヴィコに採用させたのもこの人の才覚によると言われており、ミラノでのレオナルドの活躍を生み出したのは実はこの人のおかげかもしれない。

ポーランドのツァルトリスキ美術館所蔵

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■フランチェスコスフォルツァの騎馬像

レオナルドはルドヴィコからスフォルツァ家初代君主の巨大な騎馬像の制作依頼を受け制作に着手。ルドヴィコは大量の青銅を購入して鋳造を待っていた。

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36歳(1488年)

■都市計画や建築に関する手稿をまとめる

■このころから貴族の結婚式の演出(?こんなことまで。。。)を手がける

 

40歳(1492年)

■「ヴィトルヴィウス的人間」の手稿まとめ

紀元前1世紀のローマの建築家ポッリオ・ヴィトルヴィウス著作の「建築論」を読んで、感動して描いた「メモ」。建築論に記された「人体の規則性」を鏡の前で実践したもの。つまりここに描かれているのは髭のないレオナルド自身。このメモの上下にもレオナルドの鏡文字がびっしり書かれている。

ヴェネツィア アカデミア美術館所蔵

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41歳(1493年)

スフォルツァ公騎馬像の原型を展示 

10年をかけて粘土性の騎馬像原型が完成、スフォルツェスコ城のヴェッキア中庭に置かれた。巨大な騎馬像の原型に人々は驚き、レオナルドを賞賛したといいます。

ルドヴィコはこの高さ8mという巨大な騎馬像のために百トンの膨大な青銅を購入済みで、この年に鋳造が始まる予定だった。ところが、この年フィレンツェのロレンツォ・メディチが亡くなったことで、イタリア都市国家間の政治的パワーバランスが崩れ、社会不安が一気に高まります。またフランスがイタリアに侵攻する噂が広がり、世の中が一気に戦争準備モードとなってしまう。それに巻き込まれ騎馬像用に準備した青銅は大砲へと使われてしまい、以降も騎馬像が完成することはなかったのです。

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42歳(1494年)

■運河工事の設計監督

43歳(1495年)

■「最後の晩餐」制作開始(1497年完成)

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47歳(1499年)

フランス軍のミラノ侵攻をきっかけに弟子たちとともにミラノを去る

 

 

 *第2期ミラノ(1506-1513  54歳〜61歳)

1506~13年にレオナルドは征服者であるルイ12世の招きに応じて再びミラノで過ごします。

 

54歳(1506年)

■「岩窟の聖母」裁判決着と2枚目制作

買われることのなかった「岩窟の聖母」についてのミラノ総督に対する20年越しの賠償裁判が決着。追加報酬を支払う代わりに新たにもう一枚祭壇画を書くことで決着。この時制作されたのが、下の「岩窟の聖母」(ロンドン ナショナルギャラリー所蔵)。聖母はじめ光輪があったり、洗礼者ヨハネが十字架をもっているほか細かい点でいろいろ異なる。重要な部分はレオナルドが描いたものの、大部分が弟子たちの手によると言われている。

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57歳(1509年)  万能

■以前手がけていた運河工事の設計監督再開

■解剖学の研究再開

■「聖アンナと聖母子」制作開始(1512年完成)

遡って1494年、フランス軍に蹂躙され陰鬱な空気にあったフィレンツェで、レオナルドの下絵画稿が2日間限定で公開され、人々が熱狂したと言われる。それを油彩で制作したのがこの作品。スフマートの完成形とも言われる傑作です。

ルーブル所蔵

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58歳(1510年)

■解剖学の研究を手稿にまとめる

 

61歳(1513年)

■ジュリアーノ・メディチの招待に応じてローマへ出発、再びミラノを去る

 

冒頭にも描いたのだけど、ミラノはレオナルドの才能を引き出し、活躍と飛躍のばとなりました。レオナルドにとっては恵まれた環境であったのと同時に、ミラノにとってもかけがえのない財産を得たことになりました。現在スカラ座広場にレオナルドとその弟子たちの像が立ち、レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館が建ち、どこにも奪われることのない「最後の晩餐」があり、ここミラノにはレオナルドの足跡が多く残っています。

破壊と繁栄を繰り返し、第2次世界大戦では壊滅的な被害を受けたミラノの街の再起、復活の中心にはレオナルドの存在があり、ミラノの人々を勇気づけ大切にしてきたものは常にレオナルドが残したものだった。

 

レオナルドはミラノで飛躍し、ミラノはレオナルドによって何度も危機を救われた。

 

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ミラノ 最後の晩餐(サンタ・マリア・デッレグラツィエ教会)

f:id:fukarinka:20210418182604j:plain最後の晩餐(L'Ultima Cena)はキリスト教の中でもとても重要な出来事として、古くからたくさんの「絵」がイコンや芸術作品として残されています。レオナルド以外にも、たくさんの著名な画家たちがこの「キリスト処刑前夜に弟子たちと供した夕食」の場面を描いているのです。その中でこのレオナルドの描いた「最後の晩餐」は別格に扱われます。それは万能の人レオナルド・ダ・ヴィンチによるこの作品の質そのものもさることながら、その生い立ちもまたこの絵が特別であることを示しています。今ここにこの絵が存在すること自体が奇跡であると。

 

*「汝らのひとり、我を売らん」

レオナルドの最後の晩餐にはイエス・キリストが「お前たちの一人が、私を裏切るだろう」と弟子たちに告げたその「瞬間」が描かれています。

僅かに開くイエス・キリストの口元。弟子たちの表情や体の動きからイエスの言葉の広がりと弟子たちの心の動揺が、まるで今そこで繰り広げられているが如く表現されていると言います。怒り、驚き、悲しみ、嘆き、惑い、疑い。。。十二使徒それぞれの性格とその後の運命を暗示するように構成され描かれた様子は、「この瞬間」であると同時に十二使徒たちがこのあとたどる運命も同時に表現されていると言われ、この絵をより一層深いものにしている。これはレオナルドだから到達できた領域であり時代を超えて多くの人々を虜にする理由でもあります。

*ミラノで買った板絵

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*最後の晩餐の誕生

1494年、レオナルドはミラノ公国君主ルドヴィコ・イル・モーロにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の修道院の食堂の壁に「最後の晩餐」を描くことを依頼された。

1495年43歳のレオナルドは一人でこの絵を描きはじめ、約3年かけて1497年に完成、この「最後の晩餐」は完成直後から人々の賞賛を集めます。1499年にはフランス軍がミラノ侵攻した際にルイ12世はサンタ・マリア・デッレグラツィエを訪れ「最後の晩餐」を前にしてこう呟きます。

「この絵を持ち帰りたい」

流石にこの絵を壁から剥がしてフランスに持ち帰ることはできませんでしたが、それほど圧倒的な魅力がこの絵からは放たれていたのです。

 

*科学者レオナルド

レオナルドは修道院の食堂の壁画を修道僧がキリストと十二使徒と共に最後の晩餐を過ごしていると感じられるように描きます。まるで食堂の中に最後の晩餐のテーブルが存在するかのように遠近法(一点透視図法)を駆使して描かれました。食堂のある位置からは実際の壁や天井のラインと壁画のラインが一致して同じ空間と錯覚するように描かれています。

人物はほかのレオナルドの作品と同じく解剖学に基づいて正確に人の体を表現、使徒たちの顔にはシワまで描き込まれていたことがわかっています。

また、壁画としては漆喰に顔料で描く耐久性に優れるフレスコ画が主流でしたが、フレスコ技法では重ね塗りができないためスフマートのような表現ができません。レオナルドは壁画として最適なフレスコ画ではなく自ら考案した油彩絵の具を使用して描きます。しかし、画家であり科学者であるレオナルドのこの選択が後に仇となってしまうのです。

*ミラノで買った絵葉書↓

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*悲劇の始まり

精緻な表現のためにレオナルドが考案した油絵の具(いわゆるテンペラ)は湿気に絶えられず、完成直後からひび割れがはじまります。ルイ12世が「持ち帰りたい」と呟いた時点ですでに、絵の具は剥がれ始めていたといい、20年後にはカビでおおわれ、60年後の1556年にヴァザーリの記録によると「広がったシミのほか何も見えない」状態、150年後の記録によれば「じっと目を凝らさないと何を描いたかわからない」状態にまでなってしまったとあります。

さらにもうひとつの悲劇として、「修復」という名の破壊が行われてしまった。

間違った手法での修復はこの絵の傷をさらに深くしてしまいました。記録に残っている最初の修復は1726年。4度の修復の記録がある。ここで行われた修復は修復ではなく加筆に近いものでした。レオナルド研究者は嘆きました「レオナルドではなく、後世の修復家の絵になってしまった」と。

 

*戦火の中の悲劇と奇跡

第2次世界大戦下1943年8月16日に連合軍の爆撃によりこのサンタ・マリア・デッレグラツィエ教会は壊滅状態となります。修道院の被害も激しく食堂の大半が崩れてしまいました。しかし、レオナルドが描いた「最後の晩餐」の壁だけは奇跡的に崩れずに残った。

神父たちが爆撃の数日前に、この絵を後世に残すためにと最後の晩餐の壁の前後に天井まで土嚢を積み上げた。これによって最後の晩餐は爆撃から守られたのでした。

 

*最後の晩餐のルネサンス(再生)

最後の晩餐が完成してから480年後、1979年に現代科学を動員しての最後の晩餐の修復がはじまりました。この取り組みは修復というより、修復の度に書き加えられた余分な絵の具を取り去り、レオナルドの肉筆を取り戻すいわば「洗浄」作業。レオナルドの肉筆自体がもともと剥がれやすい油絵具であるため、その作業は困難を極め、20年もの歳月を経て1999年作業完了、「修復家の作品」となっていた最後の晩餐は「レオナルドの作品」に戻ることができた。

*下の写真ファサード左の黄色い建物が修道院への入り口となっている

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*レオナルドとの対面

僕が「最後の晩餐」を初めて見たのは1991年。

ここはまだ古い修道院の食堂のままでした。中では足場が組まれとても静かに、とてもゆっくりと修復作業が進められていた。当時ちょうどイエス・キリストの顔の部分が覆われており全体の半分以上が何かしら隠れて見ることはできなかった。

1996年に再び訪れてみると、絵の修復はほとんど終わって最後の晩餐はその全貌を眺めることができるようになっていました。そして食堂の壁、天井はきれいに漆喰が塗り直されいて、さらにこの部屋は密閉されて空調も完備、出入り口には自動ドアとすごい変わり様で、かつての「古い修道院の食堂」は「近代的な最後の晩餐保管の間」にすっかり姿を変えていました。

中に入り長いこと最後の晩餐の間で過ごし、いろんな角度距離からじっくりこの絵を鑑賞しました。近寄ったり、離れたり、壁にへばりついたり・・・

近寄って見ると修復後とはいえ、やはりもともとの破損がひどく痛々しい姿はそのままで、その様子は1556年にヴァザーリが書き記した状態と変わりないと思われる。しかし離れて見るとその全体像が鮮明に現れ、レオナルドが描いた最後の晩餐が、ルイ12世がこの壁から剥がして持ち帰りたいと思ったその姿が、この修復によって蘇ることができたのだと実感。 

 

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僕がレオナルドの傑作と向き合っている間、いろいろな団体観光客が入れ替わり立ち替わり通りすぎていく。でも、ときどき僕以外だれもいなくなる時間がちょこちょこあり、そんなときは短い間だけど、多くの人々の尽力と奇跡によって守られてきた人類の至宝レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を独り占めできたようでとても幸せでした。

 

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ミラノ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

f:id:fukarinka:20210424193042j:plainSanta Maria delle Grazie

ミラノ公に就任したガレアッツォ・スフォルツァスフォルツァ家の菩提所としてドメニコ派の修道院と教会の建設を命じます。当時ミラノで活躍していた建築家ソラーリに設計を託し、ゴシック様式の教会として1466年に建設が始まり、修道院は1469年に完成、1490年に教会が完成しました。以前この場所には「慈悲(グラツィエ)の聖母」の壁画のある礼拝堂があったことから、この教会は「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ」と呼ばれるようになるのです。

ルドヴィコ・イル・モーロがミラノ公になって、完成したばかりの教会は改築されます。ルドヴィコは君主になる前にフィレンツェ共和国を訪れ、ルネサンスの華やかさと質の高さに直接触れ、強い影響を受けます。「ミラノをフィレンツェ以上の街に」というルドヴィコの想いから、スフォルツァ家の菩提所はゴシックではなくルネサンス風でなければならなかったのでしょう。そこで、のちにヴァチカンのサン・ピエトロ寺院を手がける建築家ブラマンテを招聘し、改築工事は1492年(というから完成してわずか2年後)に始まりました。

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ブラマンテは、もともとのソラーリによる洗練されたゴシック様式を残しつつ、コンスタンティノープルアヤソフィア寺院に代表されるビザンチン様式を取り入れます。ブラマンテによってこの様式の融合はとても高い次元で行われた結果、この教会の価値は遥か高みに到達したのでした。

1497年、ルドヴィコの愛妻ベアトリーチェ・デステは亡くなります。ルドヴィコは無事自分の意思がこもった菩提所に妻の遺骸を葬ることができたのです。

 

ちなみに、この「改築を主導した建築家」については諸説あって、実はブラマンテではない、とも言われています。建築家はだれか、という疑問は残ってもこの教会の価値が変わることはありません。

 

もう一つ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの価値を決定づけたものがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチによる「最後の晩餐」です。

 

時を経て、第2次世界大戦下の1943年8月16日に連合軍の爆撃によりこの教会は壊滅状態となります。しかし、レオナルドが描いた「最後の晩餐」の壁だけは崩れずに残った。

修道士たちがこの絵を後世に残すために壁の前後に土嚢を積み上げ、爆撃から守ったのでした。

修道士たちが命懸けで守った人類最高峰の壁画。次は「最後の晩餐」を。

 

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ミラノ スフォルツェスコ城

f:id:fukarinka:20210424193042j:plainミラノの長い変化の歴史で何度も破壊と撤去の危機に遭いながら、奇跡的にその姿を現在に伝えることができた建物で、非宗教建築の中でもっとも貴重なものがこのスフォルツェスコ城です。「混沌のミラノ」その地勢ゆえに歴史に翻弄されたミラノにあって、激動の運命をなんとか耐えてその姿を残した軌跡をたどります。

*「スフォルツェスコ」と呼ばれる前に

もともとこの場所にはローマの要塞がありました。それは当時の名前(Castrum Portae Jovis)からローマ皇帝の近衛兵(Pretoria)の兵舎として使用されていたことがわかります。ミラノがローマ帝国の首都だった時の名残です。暗黒の中世を経て1358年、当時はまだ地元の有力貴族だったヴィスコンティ家が、その場所にかつてと同じように兵営を建てました。その後ジャン・ガレアッツォ〜フィリッポ・マリアに至るヴィスコンティ家の君主たちによって、巨大な壁と塔を持つ城塞となり、ヴィスコンティ家の住居となります。ところが1447年フィリッポマリアの死後、ヴィスコンティ家に内紛が起こり、結局ヴィスコンティ家はミラノから追放されてしまいます。この時ヴィスコンティ家の居城も破壊されてしまいました。

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スフォルツァ家の登場で。。。

1450年フランチェスコスフォルツァ(フィリッポ・マリア・ガレアッツォの娘婿)がミラノの君主となって、居城の再建を手がけます。1452年にフィレンツェの彫刻家で建築家のフィラレーテ(Filarete)に設計を託し、現在のような姿になりました。

スフォルツェスコ城のシンボル的なこの塔の名前「フィラレーテ塔(Torre del Filarete)」はこの建築家の名前をとっています。

 

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ルネサンスの花開く

1494年ルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)が君主になりミラノは絶頂期を迎えます。ルドヴィコは君主になる以前にルネサンスの花開いたフィレンツェを訪れ、その華やかさに心を奪われます。「ミラノをフィレンツェ以上の街にする」ことを強く心に刻んだルドヴィコは君主になってから、多くの芸術家をミラノに招き街を変えて行きました。当時のミラノ公国は絹織物と武器製造で経済が潤い、急速に人口が増加、それに伴い街がどんどん拡大していきました。建築家、芸術家にとってのミラノは多くのパトロンのもとその才能を発揮できる大きな可能性を秘めた場所でした。スフォルツェスコ城もこのとき一気にルネサンス風に仕上げられて行くのです。

ちなみにこの時期にミラノに来た著名な芸術家は、ウルヴィーノからブラマンテ、レオナルド・ダ・ヴィンチ(詳細は後ほど)。

フランス軍がミラノに侵攻するという噂が広まって以降、ミラノの暗黒時代がはじまります。スフォルツァ家はフランス軍に追いやられ、その後もスペイン軍、オーストリア軍に侵攻されいろいろな国の支配が続きます。王の居城は要塞と化して、華やかだったそフォルツェスコ城はどんどん荒んでいくのです。

スフォルツェスコ城のヴェッキア中庭(下の写真)にはレオナルドの巨大な騎馬像「フランチェスコスフォルツァ像」が置かれるはずでした。それも諸外国による侵攻という不安定な情勢により実現されず。

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*19世紀の破壊の脅威

1776年ナポレオン軍がやってきて、1800年には城の取り壊し命令が出されます。この時は建築家アントリーニによって救われました。このときはナポレオンの名前を冠する都市計画にうまくスフォルツェスコ城を組み入れた事で破壊を回避できました。

そしてまた1884年都市計画による取り壊しの危機がありましたが、このときは建築家ベルトラーミが反対し、城をスフォルツァ家が仕上げた状態への修復と文化機関を置くこと提案・実行して存在意義を示したおかげで取り壊されず生き残りました。

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*何度危機が訪れようと

20世紀に入って、スフォルツェスコ城は近代美術館と芸術学校として機能していました。

最後の危機が第2次世界大戦。ミラノは大規模な攻撃に遭い、スフォルツァ城は大きく損傷します。そしてこの時も戦後修復され、復活をはたしています。

今はたくさんの文化機関として機能しています。

スフォルツァ美術館、考古学博物館、楽器博物館、家具と木製彫刻美術館、ミラノ公文書館、図書館。。。

20世紀になって、ミラノはミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」を購入。

スフォルツェスコ城に「ピエタロンダニーニ美術館」を作り展示しています。

 

かつて栄華を極めた不死身の城は、今ミラノのシンボルとして市民と観光客の憩いの場、人間文化の記憶の場として生き続けています。この先もスフォルツェスコ城はしぶとく過去の栄華を保ちながら生きながらえていくのでしょう。

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