cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル19 首都の変化

ガリア戦役開始当初は密かに、秘密裏に行われた三頭政治も戦役3年目あたりからは周知の事実となりました。元老院派の議員たちはいつの間にやら自分たちの知らないところで国政が動いていたことに怒りと焦りを覚えたでしょう。そしてガリア戦役が終わるまでローマに戻ることのないカエサルの足を引っ張ろうにも、派手な戦果と民衆の絶大なる人気によって、足を引っ張るどころか毎年ガリアでの成果に大々的な祝祭を首都ローマで開催することになる。三頭に対抗したい元老院派は毎年悔しい思いをしなければならなかったわけです。

しかし、ガリア戦役中に亡くなった二人の人物、その死によって徐々に潮目が変わっていく。一人はポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリア。そしてもう一人は三頭のひとりでありカエサルパトロンクラッスス

カエサルの娘ユリアは、三頭政治を盤石とするための政略結婚だったのだけど、ポンペイウスとユリアの結婚生活はとても幸せなものだったといいます。ポンペイウスのユリアへの溺愛は「ポンペイウスは公務を放棄した」と言われるほどでした。B.C.54年にユリアは亡くなりました。ポンペイウスの落胆ぶりはものすごく、元老院派はその機を逃さずポンペイウスを引き込むよう画策します。当初はカエサルへの義理を通したポンペイウスも結局、虚栄心に勝てずカエサルを裏切ることになるのです。

カエサルの最大のパトロンクラッススは三頭のなかでも人望も実績もない。クラッスス自身もカエサルポンペイウスに比べて大きく見劣りする自分がわかっていた。この二人に負けないのは財力だけ。クラッススは軍功を求めてB.C.55、自費で整えた軍団を率いてパルティア(現シリア〜イラン、イラク)へ向かったのでした。この時期、ローマに攻勢かけてきたわけでもないパルティアを攻める不合理と、最高司令官としての資質も経験も不足なクラッススが率いた軍団は、パルティアに負ける。3万以上いた軍団のうち2万は戦死、1万は捕虜としてパルティアの辺境で終身労働して果てる。ローマに帰ることができたのは、わずか五百人ほどだったとか。B.C.53クラッススはパルティア軍の手に落ちて生涯を終えます。この3万のローマ兵も、もしカエサルに率いられていたら勝利を重ねてローマに凱旋できただろうに、クラッススが率いてしまったがために3万人の人生が大きく狂ってしまった(これは現代の会社組織でも似たようなことがあちこちで起こる)。

こうして、三頭政治は崩れていきました。

ポンペイウスは鎹となっていた妻でカエサルの娘ユリアの死をきっかけに元老院派に取り入られ、クラッススに至っては功を焦ったあげく無茶な作戦を展開してローマ兵を犠牲にしながら命を落とした。

ガリア戦役が終わる頃には、三頭を崩して勢いづく元老院派が攻勢に出る。

しかし、カエサルはそれを見越していたかのように体勢はすでに整っていた。ガリアの戦功で市民を熱狂的に味方につけ、ガリアに政治的経済的な後ろ盾を持ち、そして8年間の戦役をともに戦い抜いた最強の軍団をもった。そうポンペイウスクラッススに補ってもらっていた機能を自身に備えていたのです。

ガリアを平定したのち、今度は元老院派とカエサルの攻防が始まります。しかしこの攻防もこの時点、準備段階ですでに勝敗は決していたと言ってもいいでしょう。

 

ローマは再び内戦の様相を呈していくのです。

 

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小話 上田墓参

うちの家系は代々ここ上田に居を構えてきた(らしい)。父の墓参りにきたのだけど、そこには父だけではない親戚一同、そして先祖代々のお墓が並ぶのです。

下の写真はお墓群を背中から写したもので、中央の黒い高い墓石が現在の一族のお墓。その後ろに並ぶたくさんの墓石は先祖代々の墓石。今まであまり気にしてなかったのだけど、結構な数のお墓が並んでる。子供の頃から何度も墓参りに来ているのだけど、今回初めて、今更ながらご先祖様のお墓をまじまじと眺めて見ました。するとやはりというかこれら全てご先祖様のお墓群で、後ろに行くほど古いようだ。

いつ建てられた、誰のお墓かが墓石に刻まれている。慶応三年(1867年)、文久三年(1863年)、享保三年(1718年)、寛永六年(1629年)。。。なんとか判別がつく一番古いのは寛永六年(江戸初期)に建てられたようだ。もっと古くて文字が読めないものもあるから、戦国時代からご先祖様はここで生活していたんだな。

下の写真は享保三年のなかなか立派なお墓。

四百年もの時を経て、そのお墓の記録がしっかり残されてるってすごい、と我がご先祖の墓ながら感動。こんな身近に数百年の歴史があったとは。。。。

寛永六年(1627年)は日本では江戸初期だったけど、その頃アントワープではルーベンスがバリバリ現役で活躍していた。またこの百年前にはイタリアでレオナル・ド・ダヴィンチやミケランジェロが活躍していた、そんな時間軸だ。

文久三年(1863年)はバイエルンでルートヴィヒ二世がノイシュバンシュタイン城の建設を始めた頃だ。。。。

なんてことを考えると、今まであまり目に止めることがなかったご先祖様のお墓が愛おしくなってくる。

数百年の歴史をもつ墓石たちは、風化で表面が劣化しながらコケ(だろうか?)を纏ってとても表情豊かな模様を作っている。

この時3月初旬、お墓の周りには小さな花々が咲き始めていました。これも数百年繰り返されてきたのかな。

 

僕もそのうちここに入れてもらうことになるのだろう。ご先祖の皆々様と数百年分の話題で盛り上がれるように、いまからしっかりネタを揃えておこう。

 

小話 上田映劇

僕の両親は長野県上田市出身。父の命日にちなんでお墓参りに行ってきました。コロナで自粛をしていたのでかれこれ3年ぶりだろうか?次の日朝から仕事があるので無理はせず、母と二人で新幹線で行ってきました。電車で行くのはさらに久しぶりで10年ぶり?さらに母と二人で新幹線に乗っていくのは、初めて?のことでした。昔小学校1年生のときに、はじめて一人で田舎に行った時はたしか特急あさま号で2時間半?それが今では新幹線あさま号で50分。新幹線が通り、都心からすっかり近くなった上田はすっかり観光地となっていた。古い駅舎はピカピカになり、駅前も大きく変わった。変わってしまった。

今年84歳だが健脚の母と上田の駅の周りをぐるりと歩く。母の口からまあ、出てくる出てくる、ここはあだった、こうだった、この店はずいぶん大きくなった、あの店は無くなった。。。街の花屋さんでお墓に備える花を買うと花屋のおばさんと話し込む。。。あの年代の人はこうなんだかな。僕は久しぶりに聞く信州弁(上田弁)が心地よくて、長く他愛のない話だった割に、話の中身はともかく気持ちよく過ごしていた。

花屋を出て裏路地を回って駅に戻る途中「上田映劇」の文字を見つけた。

近づいていくとそれはとても懐かしい映画館でした。

子供の頃に田舎に遊びにいくと、時々ここに映画を観に来ていたのでした。小学校のころの夏休み、当時東京では1本ずつ別々に上映されるような超話題の映画が2本立てで、ここでは上映される。1本分のチケット代で2本の話題作を見ることができたわけです。

当時、外観がどうだったかという記憶はほとんどなかったのと、そもそもどこにあったのかすら忘れていました。ので、今回偶然上田映劇を見つけた時は胸躍りました。

近づいて建物を見てみる。小学生の当時、話題作2本立てに心が躍って、映画館そのものの印象はあまりなく「古い田舎の映画館」くらい。今回約40年の時を経て、改めてその建物を見てみると「こんなレトロな外観だったんだ」と感心しきり。上の「UEDA MOVIE THEATER」のロゴもおしゃれだし、タイル調の梁、ファサードの「上田映劇」の文字。木製のドアや窓は最近リフォームされたかな。

何年か前に、テレビ番組で上田映劇が再生されたという特集を見た記憶があって、いまはミニシアターとして営業しているらしい。

www.uedaeigeki.com

いつか現在の上田映劇で映画をみたいな。話題作2本立はもう無理だろうけど、古い映画をゆっくりみるにはいいかもしれない。

 

この後母と僕は上田駅からローカル線「別所線」に乗って父の実家近くにある先祖代々の墓に向かったのでした。

 

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カエサル小話 今年の3月15日

今年も3月15日がやってきた。今日は8年前他界した父の葬儀を行った日であり、西洋世界の英雄で、僕にとっても、とても身近な存在であるユリウス・カエサルが暗殺された日です。ヨーロッパ人ならほとんどの人が3月15日と聞いたらカエサルが暗殺された日と認識しているとか。

Ides Martiae

これは3月15日を現すラテン語で、Martiaeの中に微かに英語のMarchの起源が見られます。

毎年この日が来るたびにいろいろな思いが交錯して、カエサルの人生を見返しながら今までの人生とこれからの人生をぐつぐつと考えるわけです。

僕は20代でカエサルに会い、30代、40代それぞれにカエサルの人生を辿り今50代。かれこれもう30年の付き合いになるんだなあと思うと、勝手ながら古い友達のようにも思えてくる。

この30年、カエサルを知れば知るほど、2000年も前に活躍したカエサルという人物の才能の凄さと人としてのしなやかさと、そのバランス感覚に脱帽し、だから現代に至るまでとても身近に扱われるのだと、改めてその存在の稀有さを思い知るのです。

やはり20代の僕に40代50代のカエサルは遠い存在で理解しきれなかった。カエサルほどではないにせよいろいろな出来事、ピンチをくぐってきた今、なぜカエサルが40代でガリアを平定できたのか、なぜ50代で一気に国の形を変えられたのかがよくわかる。

もちろん僕が与えられる影響範囲は狭いけど、その理由がよくわかるんです。

僕がもしカエサルなら、来年の今日、暗殺されて命を落とすわけです。カエサルはローマ帝政への道半ばで暗殺されてしまいます。大事業の完成を前に、命を絶たれて、この世に悔いを残して死んだという人がいるかもしれない。でも僕は全くそんなことはなかったと断言します。後世含めてカエサルがこの時点で暗殺されたことを憂う人は大勢いるとしても、その時代を超えた大勢の意に反してカエサル自身は、何の憂いもなく晴々とこの世を卒業したのです。

その理由はこの後明らかにしていきます。

 

毎年3月15日は何かモヤモヤっとしていることが多いのですが、今年の3月15日は久しぶりに晴々とした気持ちでいる。

賽は投げられた!そんな気分なのです。

 

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カエサル 18 「ガリア戦記」

その見事な文章から、現代においても「文学作品」として普通に本屋に並ぶ、カエサルガリア戦記(Commentarii de Bello Gallico)」

紀元前58年から8年間に及ぶカエサルガリア遠征、その最中に本国ローマに対して、戦役の報告書として書き送られたのがこの「ガリア戦記」です。毎年1巻、全8巻刊行されたうち、カエサルによるものは7巻まで。アレシアの戦いまでカエサルが記し、後処理に終始したガリア戦役8年目の報告である第8巻はカエサルの側近ヒルティウスによるものです。ガリア戦記は戦争の報告書であり、記録であるのだけど、カエサルによる見事で美しい文章は、ラテン文学の最高峰として扱われ、一級の戦史記録である以上に文学作品として今でも本屋に並ぶのです。そのカエサルの文章をローマ人の物語の塩野七海さんはこう表現します。

「簡潔、明晰、洗練されたエレガンス」

カエサルは「ガリア戦記」を単なる戦いの記録だけを著したわけではありません。ガリアやゲルマニアブリタニアという土地の特徴、地形、気候風土、ガリアやゲルマンの各部族の特徴、構成、風俗文化、宗教、各部族の相関関係、動植物についても記述されます。これらはカエサルが戦闘に勝つための事前情報であると同時に、ガリア平定後にローマ属州化を見据えた重要な情報であり、そのためそれらに対する考察が詳細に綴られています。中にはカエサル自身の興味によるものもあり、ゲルマニアでは現在では見られないような動物の紹介もしている(ちなみにその動物一例は「鹿の姿をした牛の一角獣」)。

戦いについての記述は、その準備段階から語られます。様々な攻城兵器群や防衛網、包囲網の詳細や作成の過程、ライン河にかけられた橋の構造やその建設方法、ドーヴァー海峡を渡った船の造船、陣営地作りまでを細部まで活き活きと語り、工兵としても優秀な自軍の兵士たちを称賛します。

戦闘はローマ軍、敵軍の構成の詳細を語り、地勢を踏まえた布陣を詳説し、開戦後は戦局を克明に記し、そのときカエサルが何を考え、ローマの軍団がどう行動したかといったことが語られています。

カエサルは一人称ではなく三人称でこれらを記述します。常に「カエサルは」と文章を進めることで記述の客観性を高める狙いもあったと思われます。

ローマ本国はこうして送られてくるガリア戦役の報告書を熱狂をもって受け入れ、2000年後の僕たちもカエサルとローマ軍団の冒険をまるで一緒に過ごしているかのようにたどることができるのです。

 

さて、ガリア戦役7年目、アレシアの戦いの終結ガリアは平定され、その後8年目はほぼ戦後処理に当てられました。カエサルによる本国への報告は7年目(第7巻)まで。8年目の報告は側近ヒルティウスによるものです。ヒルティウスは洗練された完璧なカエサルの文章と、自分のそれが後世にわたり比較されることを憂います。ガリア戦記第8巻のヒルティウスによる序文はその嘆きと、言い訳に終始するのです。

その序文の中で、ヒルティウスはカエサルの真のすごさを伝えるこんな文章を残しています。

「~我々カエサルの身近にいた者の感嘆は、他の人よりはずっと深い。なぜなら、読んだだけでも透徹し洗練されたカエサルの文章への感嘆は抱かないではいられないが、そば近くにいた我々は、あの見事な文章が、どれほど容易にどれほど早く口述筆記されたかを知っているからである。」

僕が持っている「ガリア戦記」には第8巻の記述は無い。現代に至ってはヒルティウスの心配は無用でした。

 

カエサルは文章についてこんな言葉を残しています。

「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間内でしか通用しない表現は、船が暗礁を避けるのと同じで避けなければならない。」

 

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カエサル17 ガリア戦役 ヴェルチンジェトリクス

ガリア戦役7年目のドラマは、後の時代に生きる人にとってはローマの勝利という結末のわかっている話であり、ワクワクして歴史を辿りながらも知っている結末に向かってその叙述もできるわけだけど、当時その現場にいた当事者でるローマの軍団兵は薄氷をふむ思いで生きるか死ぬかの境を彷徨ったでしょうし、ガリアの人たちは「自由」というその一点に向かって幻のような希望の光を見ていたでしょう。でもカエサルだけは、困難と混乱の最中であっても冷静に、結末への細く蛇行する一本の道が見えていて、それを着実に辿っていた、そんな風に思えます。

 

B.C.52年、いままでローマに恭順を示して反乱など起こすことのなかった中部ガリアが一気に反旗を翻します。

理由の一つは、皮肉にもローマ軍によっておとなしくなったゲルマン人ガリアにとってのゲルマンの脅威がなくなると、ローマの下で生きなくても良いのではないか?という錯覚がもたげてくる。もともと自由にガリアの地で生きた人々にとって安全が確保されると「自由」が欲しくなるのは当然かもしれない。

理由のもう一つは、そこに人々の想いを統率する人材が現れたことでした。民族統一など眼中になかったバラバラなガリア民族をまとめる能力を持った若者、その名はヴェルチンジェトリクス(Vercingétorix B.C.72-B.C.46)

彼は南仏属州に隣接する土地に住むオーヴェルニュ出身で、反ローマ派として育ち、やがてオーヴェルニュの族長となります。今までのガリア人には備わっていない強力なリーダーシップと戦略的思考を持ち合わせていた彼はほとんどのガリア部族を束ねて反ローマに勃つことになります。

ヴェルチンジェトリクスの肖像模るコイン

前年の冬、連戦連勝のローマ軍に打撃を与えたガリア北東部の反乱。それを火種にガリア人の自由への渇望とヴェルチンジェトリクスの登場が全ガリアが蜂起するという事態につながるのでした。

 

ヴェルチンジェトリクスとカエサルはチェスのコマを進めるがごとく、一手、また一手と進み、戦況はあるひとつの場所アレシア(Alesia)へと向かっていきます。

ヴェルチンジェトリクスは、ガリアで冬営中のローマ軍と北イタリアで過ごしているカエサルとの分断を図ります。

カエサルは北イタリアにいながらヴェルチンジェトリクスという人物の登場とガリアの動きを正確に把握していました。カエサルはヴェルチンジェトリクスの意図を巧みにかわしてガリアで冬営中の軍団と合流します。

冬が終わると、いままで平穏だった中部ガリアが一斉にローマへ反旗を翻す。そこへカエサル率いるローマ軍団が抑えにかかる。ローマ軍の行手を阻む街があれば容赦なく蹂躙し、カエサルは中部ガリアの外縁から螺旋を描くように進軍します。モンタルジー、チェナブム(現オルレアン)、サンセルといった地での戦いに勝利して、難攻不落と思われたアヴァリクス(ブールジュ)もローマの攻城兵器群が完成を見た時点でガリア人は戦意喪失、ローマ軍の完全勝利となる。カエサルは軍団侵攻の軌跡が渦の中心へ向かうように、次のターゲットをヴェルチンジェトリクスの故国オーヴェルニュの首都ジェルゴヴィア(Gergovia)に定めました。

ヴェルチンジェトリクスが立てこもったジェルゴヴィアは、三方を平原に、背後を山に囲まれた天然の要塞でここを攻略することはローマ軍としても困難を極めます。

カエサルのローマ軍はこのジェルゴヴィア攻略を断念して撤退をする。戦史上「敗戦」と記録されるこの戦いもカエサルとしては織り込み済みのことではなかったかと思う。ジェルゴヴィアは小高い丘の上で背後には山と天然の要塞で、この地勢を見た時に最初から陥せるとは思わなかったのではなかろうかと。カエサルは無茶な戦闘による犠牲避け、撤退を選択する。敗走と見せかけてヴェルチンジェトリクスをジェルゴヴィアから引っ張り出す意図があっただろう。なので「敗走」と記録されるにしても、鉄壁の布陣で撤退し、ヴェルチンジェトリクスの追撃による被害はほぼなかった。

カエサルはこの撤退によってヴェルチンジェトリクスをジェルゴヴィアからおびき出し、この後ヴェルチンジェトリクスへローマ軍の得意な会戦を仕掛ける。

ヴェルチンジェトリクスはこれにはのらず、小高い丘の街「アレシア(Alesia)」に逃げ込みます。ローマに勝利したジェルゴヴィアと似た、丘の上の街であることから、アレシアでの籠城戦によってローマに勝てるとヴェルチンジェトリクスは考えた。

カエサルは逆に、ヴェルチンジェトリクスがアレシアに入城したこの時点で勝利を確信したのではないだろうか。丘の上の街としては同じでも、背後に山をいただくジェルゴヴィアと違い、アレシアは360度平原に囲まれる小高い丘の上の街。街を完全に包囲することができるアレシアは地勢的にジェルゴヴィアとは比較にならない。

ルネサンスの建築家によるアレシア攻防戦図

ヴェルチンジェトリクスガリア軍8万がアレシアに立てこもり、

カエサルのローマ軍は5万足らずで包囲戦を仕掛ける。

更にヴェルチンジェトリクスガリアの各部族にアレシアでともに戦うことを呼びかけた。それに呼応したガリア部族が送った戦力は総勢25万。

カエサルは5万足らずの兵でアレシアを包囲しながら、外からの25万ものガリア軍と戦わなければならなくなった。一時は籠城攻略戦の様相を示したアレシアの戦いでしたが、同時に背後からの大軍勢とも戦わなければならなくなった。

カエサルは両面からの敵に備えるため、アレシアに向けた内側の包囲網と、外側の防衛網を準備します。工兵に変身したローマ軍団兵はこの包囲防衛網を素早く建設します。カエサルはこの包囲防衛網について「ガリア戦記」の中でとても詳細な記述を残しています。ヴェルチンジェトリクスがアレシアに入って約1ヶ月、ローマ軍団兵は全長18km、内と外に向けた複雑な包囲防衛網をローマ軍はほぼ完璧と言っていい状態で完成させました。

5万 vs 34万のアレシアの激闘はわずか3日で決したといいます。カエサルはアレシア周辺の地形を全て理解した上で5万弱の兵力で戦えるための包囲網と防衛網を設計し実際に作り上げた。勝敗は決戦が始まる前に決まっていたと言ってもいいかもしれません。しかし7倍近くの、前後両面からの敵との戦闘は激烈を極めます。

カエサルは戦闘中に味方がどこからでもカエサルがどこにいるかがわかるように真紅の大マントを羽織り陣頭指揮をとる。敵から認識されやすいリスクもあるが、それ以上に味方の指揮命令系統が機能するために、何よりも部下の兵士たちの士気を鼓舞するためにそうしたのでした。カエサルはアレシアをぐるっと一周する包囲防衛網の中を馬に乗って駆け巡り、戦況を見極め次々と的確な指示を出していく。ローマ軍は数的には圧倒的不利な戦いに勝利を収めます。

ヴェルチンジェトリクスはアレシアの丘の上から、ガリア軍が総崩れになるところを眺めるしかできなかったのだろうか。

歴史上ここまで圧倒的劣性な兵力で勝利したことはアレクサンダー大王と並び、更に外と内、両面からの攻撃を跳ね返しての勝利は、戦史上、後にも先にも例がない。アレシアの戦いの勝利は、事前の敵情と地勢の正確な把握、張り巡らせた包囲防衛網の発想力とそれを短時間で実現した技術力、そして戦況を見極めながら臨機応変に的確な指示を出したカエサルと、さらに正確に司令官の意図通り作戦を遂行したローマ軍の力によるものでした。

勝敗が決したあと、ヴェルチンジェトリクスはカエサルの元に現れ、自らを差し出すことで、他のガリア人を許すよう申し出た。カエサルはそれに応じました。

下の絵は後世、1899年フランス人画家がその時の様子を想像したもの。

 

アレシアの戦いは終わり、このアレシアでの34万人のガリア人蜂起に対してのローマ軍とカエサルの勝利は、実質ガリア全土の平定とガリア戦役の終了を意味しました。

実質7年で達成したガリア平定によって、

ローマにとっては本国の安全保証が盤石になり、領土がガリア全域に加えブリタニアまで広がることになった。これにはローマ市民も元老院も熱狂という形で祝った。

カエサルにとって、揺るがない実績と強力な支持基盤を持つことを意味し母国ローマの国家改革に向けて理想的な状態にすることができたと言える。

元老院の反カエサル派にとってカエサルが敵であることが浮き彫りとなり、さらに「元老院最終勧告」の対象、抹殺すべき存在であることが明確になった。

ただ、カエサルが手に入れた大きな力は、元老院派が伝家の宝刀「元老院最終勧告」抜いたとしても真っ向勝負ができる状態となっていたのでした。これは次のお話。

 

ヴェルチンジェトリクス

カエサルはヴェルチンジェトリクスの能力を高く買っていました。もし彼がローマ人であったなら、最高の副官になったかもしれません。しかしヴェルチンジェトリクスはガリア人でした。この能力の高さが再びローマの脅威となる可能性があることから、ローマの安全保障上オーヴェルニュの若者を生かしておくという選択はありませんでした。ヴェルチンジェトリクスとはそれほどまでにカエサルに認められた人材でした。

アレシアの戦いの6年後、カエサルが行ったガリア平定を記念する凱旋式でローマ人からの衆目を晒したあとにヴェルチンジェトリクスは静かに処刑されたのでした。

 

後世にはヴェルチンジェトリクスはフランス最初の英雄として讃えられます。

1860年頃にナポレオン3世は当時の発掘調査によって、アレシア(Alesia)が現アリーズ・サント・レーヌ(Alise-Sainte-reine)であると結論づけ、この地にヴェルチンジェトリクスの銅像を建てました。しかし、その後もアレシアの場所の正否を巡っては長いこと論争がありましたが、現在では航空写真にカエサルが作った包囲網のあとが確認できたとされ、2004年、いったんこの論争は決着したことになっている(実はまだ異論はある模様)。

 

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空と雲と 月と惑星

2月22日は月と木星と金星が同時に見ることができる日でした。

夕暮れ時、西の空に徐々に細くて素敵な三日月が現れました。そして空が暗くなるにつれて、まず遠くに金星が、やがて月と金星の間に木星が現れる。

夕焼け残る空に月と木星と金星が一直線に並ぶ姿はなかなか荘厳です。そしてちょうどその下に民家の灯りが並び、遠くの月とものすごく遠くにある二つの惑星、そして人間の生活が綺麗に並んだ様がなんとも神秘的に思えてしまった次第です。

金星までの距離が1億キロ、木星は8億キロ、月は38万キロ、民家は約100m。この距離感、それらが同時に見える。。。なんなんでしょう。。。

ここにいると肉眼では星はわずかしか認識することができないのですが、実は空には空間を埋め尽くすほどの星があってその中で、こんなふうに並んで月と木星と金星が並んで見えるのは、銀河系と太陽系、月と地球の自転、公転の軸の関係、ひいては宇宙を司る物理学の世界が支配する空間によるもの。いや違う。宇宙の出来事を物理学という表現で人間が説明をつけただけだ。

日常起こっているいろいろなことも、夜空や宇宙の広がりを思うとなんとちっぽけなことか。僕の悩みなど、宇宙の広がりに比べれば、ちっぽけなこと、と思うとすーっと気持ちが楽になる。

この日の三日月はとても美しい姿でした。

今日の空を見ながら、宇宙だ物理だ頭を巡って、何十年、何百年に一度の天体ショーかもしれないけど、でも最後に僕が行き着くのはいつも「難しいことはどうでもいいじゃん」。

花鳥風月という言葉があるように、日本で月は昔から風流なものとして、愛でられている。

この日の月もとても綺麗だった。それが全てな気がしてならない。

 

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