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旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェ7 ヴェッキオ宮殿

f:id:fukarinka:20220115175610j:plainヴェッキオ宮殿 / Palazzo Vecchio

現在フィレンツェ市庁舎として使われるヴェッキオ宮殿。外観は堅牢で威圧的。それはまるで要塞のごとく花の都の市庁舎としてはイメージがそぐわない、と思っていたら、最初は修道院長の邸宅兼要塞として1294年に工事が始まったということで納得です。

 

高さ94mの塔(アルノルフォの塔)が1310年に、ヴェッキオ宮殿としては1314年に、20年を経て完成します。フィレンツェ共和国の政庁舎として使用されシニョーリア広場のシンボル的建物であり、サンタ・マリア・デル・フィオーレとならんでフィレンツェを代表する建物です。

同じくアルノルフォ・ディ・カンビオが手がけたサンタ・マリア・デル・フィオーレとは対極な強烈な印象を放ちます。

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ヴェッキオ宮殿の入り口にはミケランジェロの「ダヴィデの像(現在レプリカ)」とバンディネッリ(Baccio Bandenelli)の「ヘラクレスとカクスの像(1534年)」が立ちます。

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ダヴィデ像は1501-1504年に制作されました。フィレンツェの象徴、人類史における傑作と言われるこの像が、ヴェッキオ宮殿のこの場所に置かれるまではいろいろな紆余曲折があったとか(後日小話にて)。そしてダヴィデのあまりの存在感が故に、後から入口のもう一方に加えられたヘラクレスとカクスの像と作者バンディネッリの可哀想な運命。なかなか複雑です。

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1563年コジモ1世は、息子フランチェスコ1世オーストリア大公の娘と結婚の儀を執り行う2年後までに、ヴァザーリにヴェッキオ宮殿とその周辺の改装を命じました。その間に中庭の回廊、五百人広間、ヴァザーリの回廊などが改装・整備され、重厚な外観からは想像できないほど華やかで豪華な、まさに宮殿へと変貌したと言います。

ヴェッキオ宮殿に入るとすぐ、この回廊のある中庭があります。ヴァザーリはこの中庭の回廊をオーストリアの街の風景を描いたフレスコ画で埋め尽くします。

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中央にはイルカを抱える天使の像。これはレオナルド・ダ・ヴィンチの師ヴェロッキオの作品。

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1565年12月に執り行われたフランチェスコ1世の婚礼の時にはヴェッキオ宮殿にとどまらず、フィレンツェの街全体が芸術家や職人総動員で装飾が行われ、内外に向けて十分すぎるほどメディチ家コジモ1世の権威が示されたと言います。

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このときに整備されたヴァザーリの回廊は、メディチ家専用のヴェッキオ宮殿から現在のウフィッツィ美術館を抜けヴェッキオ橋の上を通り、アルノ川の向こう側のピッティ宮殿まで続く回廊です。住居であるピッティ宮殿から外を通らずに執務行うヴェッキオ宮殿まで行き来できる。そんな屋内通路を通してヴァザーリはそこに沢山のルネサンスの名画を飾った。なんと贅沢な。。。

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次はそのヴァザーリの回廊の一部でもあった、ヴェッキオ宮殿すぐ隣、ウフィッツィ美術館について。。

 

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フィレンツェ6 シニョーリア広場

f:id:fukarinka:20220103162536j:plainシニョーリア広場 (Piazza della Signoria)

ここは政庁舎(シニョーリア)のある広場として13-14世紀に作られました。昔も今もフィレンツェの政治の中心です。また、ここはローマの街フロレンティア(Flōrentia)だったころからフォロ(Foro)として政治の中心であると同時に、市民の広場でした。いまではフィレンツェ市民のほかに、大勢の観光客が集まる広場です。

 

広場でもっとも目立つのがヴェッキオ宮殿。現在フィレンツェ市庁舎として使われています。

1299-1314年にかけて、サンタ・マリア・デル・フィオーレを設計したアルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio 1245-1302)よって建てられました。要塞のような重厚さはサンタ・マリア・デル・フィオーレとは対照的です。

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ヴェッキオ宮殿の入り口には、ミケランジェロダヴィデ(レプリカ)がたちます。宮殿のその脇にはネプチューンの噴水、さらにその奥にはメディチ家コジモ1世の騎馬像が立ちます。

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コジモ1世は17歳で当主となり、フィレンツェの軍備を充実させ領土を拡大した人物。そしてその権力をもって教皇を説き伏せてイタリアで初めて「大公」の称号を得ることになります。ヴェッキオ広場の主要な建物は1563年、そのコジモ1世の息子フランチェスコ1世がオーストリア大公の娘と結婚する時に、コジモ1世から命を受けたジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari 1511-1574)によって、ルネサンスの建物が、フィレツェの街が生まれ変わったのでした。

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ヴェッキオ広場のヴェッキオ宮殿はもともと政庁舎として建てられたのだけど、コジモ1世が住居をピッティ宮殿に移すまでの間、ヴェッキオ宮殿を住居としていました。政庁舎であるこの建物が宮殿と呼ばれるようになった理由はそこにあります。

 

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フィレンツェ 風景〜ドゥオモ広場

f:id:fukarinka:20220115150158j:plainフィレンツェの精神の中心ドゥオモ広場の景色を少々。

 

 

夕日を浴びて薄くオレンジ色に染まるサンタ・マリア・デル・フィオーレです。

14世紀に完成したジョット鐘楼と、19世紀に完成したドゥオモのファサード。500年の時を経て調和します。

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朝日に輝くサンタ・マリア・デル・フィオーレ。

ドゥオモ広場は狭いので、ひろばからドゥオモ全体のフォルムを知ることは難しい。

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ドゥオモのクーポラの頂上はこんな感じ。柵を越えて駆け降りたくなりそうです。

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ジョット鐘楼から直下のドゥオモ広場の様子を収めた連作です

夕刻、陽は傾いて人々の長い影が広場に溢れます。

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フィレンツェ5 ジョットの鐘楼

f:id:fukarinka:20220115150158j:plainジョット鐘楼(Campanile di Giotto)

一見するとサンタ・マリア・デル・フィオーレと一体化した鐘楼のようにみえるのですが、独立した建築となっています。高さ84m、大聖堂のファサードと同じく色大理石の装飾で覆われた鐘楼です。この鐘楼建設を最初に指揮した建築家の名前を冠して「ジョット鐘楼」と呼ばれます。

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どちらかというと画家としてのキャリアが長く、ルネサンス美術への影響も大きかったジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone 1267-1337)。晩年に建築家としてサンタ・マリア・デル・フィオーレと鐘楼の建設工事に関わります。

ジョット鐘楼は1334年聖堂建設の総監督となっていたジョットによって着工されました。ジョットは下の2層までの工事を見届けて、1337年に亡くなってしまいます。

その後、ジョットの後任となった弟子のアンドレア・ピサノによってその上の2層が完成、さらにフランチェスコ・タレンティによって、最上階の工事が進められ1387年にこの鐘楼は完成しました。

建設期間はそれほど長くはないものの、担当した責任者によって下から上に向かって少しずつデザインが変わっていきます。

ジョットが関われたのは最下の2層だけですが、もともとジョットの設計であるということで現在の渡って「ジョット鐘楼」という名前で親しまれています。

 

14世紀に完成したジョット鐘楼の装飾と、19世紀に完成した大聖堂のファサード。500年の時を隔てて作られた二つの建物が、まるで同じ建物のように見えるところが感動的です。でもやはりよくよく見ると違いがわかります。

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ジョット鐘楼は屋上に上がることができます。

そしてここからのサンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラの姿、フィレンツエの街の様子は素晴らしい。とてもコンパクトなフィレンツェの街の様子が手に取るようにわかります。

左手にあるのはミケランジェロの墓のあるサンタ・クローチェ教会。奥の丘の中腹がミケランジェロ広場。

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こちらはヴェッキオ宮殿とウフィッツィ美術館方面。

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同じトスカーナの街でも上から見下ろした時の印象は、街によってさまざま。

特に家家の壁や屋根の色でその印象がきまります。フィレンツェは鮮やかなオレンジ、シエナはくすんだオレンジ、ルッカはくすんだオレンジ少しグレー、ピサはどんなだっただろう。。高いところに登らなかったのでわからない。

 

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フィレンツェ4 フィレンツェのドゥオモ

f:id:fukarinka:20220109023029j:plainフィレンツェのドゥオモ(Santa Maria del Fiore 花の聖母聖堂)

ヨーロッパではじめてのオレンジ色のクーポラ(ドーム,円屋根)は、今も昔もフィレンツェのシンボルとして、とてもよく空に映えます。旅から戻ってくるフィレンツェ人には故郷が近くであることを、外からの訪問者には目的地に到着したことを教える役目も担ってきました。

フィレンツェは紀元前59年に当時のローマの執政官ユリウス・カエサルにより入植地としてローマ都市化=近代化が進められた。このときに「花の女神フローラの街」という意味の「フロレンティア(Flōrentia)」と名付けられる。それ以来、現在に至るまでフィレンツェは2000年の間「花の都」であり、「花の都」のドゥオモはSanta Maria del Fiore(花の聖母聖堂)という、その名の通り花のように可憐で凛々しい建物なのです。

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奥行153m幅38m高さ114m、教会として世界4番目の大きさとなるフィレンツェのドゥオモ。

完成した今の美しい姿に至るまでは、さまざまな才能が集いながらも紆余曲折した長い歴史がありました。

 

■花の聖堂の始まり

周辺の都市国家にくらべまだフィレンツェが都市として目立った特徴が無かった頃、1294年にシエナやピサの大聖堂に触発されたフィレンツェの羊毛組合が、当時街の美術復興の先頭に立っていたアルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio 1245-1302)に新しい聖堂の建設を依頼しました。4世紀からこの場所にあったサンタ・レパラータ教会にかわる新たな教会の建設、これがこの「花の聖母堂」の歴史のはじまりです。

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1296年、カンビオが設計したドゥオモは着工されましたが、1302年にカンビオが亡くなると工事は中断。その後ジョット、アンドレア・ピサノなど著名な建築家とともに建設が進められ、1418年工事はクーポラを残すのみとなります。

■大クーポラ

クーポラのデザインを決めるため1418年にコンクールが開かれます。ここでは1403年にサン・ジョバンニ洗礼堂の北扉のコンクールで敗北したのをきっかけに彫刻家を捨て建築家としての道を極めたブルネレスキ(Filippo Brunelleschi 1377-1446)が優勝。フィレンツェのシンボル、ドゥオモのクーポラはブルネレスキのプランで1420年に着工し、1434年に完成クーポラ自体が完成します。直径45.5m、高さ55mの基礎の上に作るドーム(クーポラ)は史上初。ブルネレスキは古代ローマの工法研究から新しい構造を考案します。厚さ2m、傾斜角度のきつい2重ドーム構造をとることによって、高さ55mの場所で足場を作らずにドームを完成させる画期的な工法が実現します。

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1436年、たまたまフィレンツェに居合わせた(?)教皇エウゲニウス4世によって献堂式が行われ、サンタ・マリア・デル・フィオーレは当時、大クーポラをいただく唯一の教会として誕生したのでした。

 

■工事はつづく

着工から140年、教会として正式に機能ははじめたものの、建築としてのサンタ・マリア・デル・フィオーレはまだまだ未完成でした。

天蓋と黄金の十字架

クーポラの頂上部の高さ21mの白大理石の天蓋部はブルネレスキの設計に基づいて1461年完成。1471年にその上に金の球と十字架が置かれます。これは当時ヴェロッキオ工房が担当し、当時まだ10代、ヴェロッキオ工房に入門して間もないレオナルドがこの制作と工事に参加したようです。

最後の審判

1572〜1579年にかけて、ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari 1511-1574)とフェデリコ・ズッカーリ(Federico Zuccari 1542-1609)によって、クーポラ内部の天井に「最後の審判」が描かれます。これはサン・ジョバンニ洗礼堂のモザイク画からインスピレーションを得たと言われています。

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混迷のファサード

今見られる白、赤、緑の大理石による色鮮やかなファサードは19世紀に完成したものです。

もともとカンビオの設計によるファサードの工事が進んでいたのですが、カンビオ死去と構造上の問題から中断。長い間未完成のままの状態でした。16世紀にメディチ家のフランチェスコ 1世により新しいファサードの建設が指示され、一旦カンビオのファサードは撤去されます。しかし新しいファサードは市民の理解えられず難航します。17世紀には石の表面に騙し絵を描くなどサンタ・マリア・デル・フィオーレのファサードは混迷を極めました。

19世紀になってようやく、

1871-1884年にエミリオ・ファブリス(Emilio De Fabris)によって、14世紀フィレンツェの装飾様式を再現する形で、新しいファサードが設計、建設されました。

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*夕日に染まるファサード

ファサードの扉

ファサードにはまる青銅の扉がルッカ出身の彫刻家アウグスト・パッサリア(Augusto Passaglia)によって1903年に完成。

 

■サンタ・マリア・デル・フィオーレ完成

20世紀初頭、この扉の完成によってようやくサンタ・マリア・デル・フィオーレは完成しました。13世紀末から始まった工事は実に600年の歳月をかけて完了したのでした。

 

この聖堂建設の長い歴史の中で、何度も建設主任がかわったり、そもそも時代も大きく変わってきた中で、現在のサンタ・マリア・デル・フィオーレの姿はつぎはぎ感がほとんどないのです。これは初代建築家のカンビオやジョットの構想思想を、後世の建築家たちがしっかり受け継ぎ建設を進めていった結果によるもの。ブルネレスキのクーポラにしても、可憐なファサードにしても、600年の時を経ながら作られたというのが嘘のよう。

このことは各時代の建築家たちが建物の調和を最優先にした結果であり、サンタ・マリア・デル・フィオーレが600年を通して、そして今に至るまでフィレンツェの心の象徴であり続けていることの証なのだと思います。

 

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フィレンツェ小話 天国の門と地獄の門

f:id:fukarinka:20220108175906j:plainフィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂の東の扉にあるのは1492年完成のロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti 1378-1455)による初期ルネサンスの傑作。以降のミケランジェロ初め以降の芸術家にたくさんのインスピレーションを与えてきました。

この扉はミケランジェロによって「天国の門」と名付けられたのは前回お話しした通り。

この天国の門に影響を受けた作品が日本にあります。その名も「地獄の門

天国の門 ロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti 

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地獄の門 フランソワ-オーギュスト-ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin 1840- 1917)

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このロダンの「地獄の門」は上野の国立西洋美術館にあります。

1880年ロダンはパリの装飾美術館の入り口の扉の制作を依頼されました。そのときダンテを熱烈に愛読していたロダンフィレンツェのギベルティによる「天国の門」に倣い、ダンテの「神曲」の「地獄篇」を表現しようと即決したそうです。最初は「天国の門」のようにいくつかのパネルに分かれたデザインだったものが、どんどん混沌とした地獄の様相を表すように変わっていったと言います。全体的なフォルムはフィレンツェの「天国の門」とその周辺部と同じですが、ディテイルは完全にロダンのダンテ「神曲」に着想したどろどろした「地獄の門」。

現在このブロンズの「地獄の門」は世界で7つあるそうで、その一つがここ東京上野にあるというのはとても幸運なことです。

 

ちなみに国立西洋美術館の表庭には「地獄の門」のほかにも「考える人」「カレーの市民」といったロダンの作品があります。

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フィレンツェ3 サンジョバンニ洗礼堂

f:id:fukarinka:20220103162536j:plainサン・ジョバンニ洗礼堂(Battistero S.Giovanni)

紀元前1世紀、共和政ローマの時代にこの場所には軍神マルスの神殿が置かれていて、遠く2000年前からここはフィレンツェの中心でした。その後4世紀頃にはここに洗礼堂が置かれ、フィレンツェ人は生まれると必ずこの場所で洗礼を受けてきたと言います。

現在見られる八角形の白と黒の大理石が印象的な外観のサン・ジョバンニ洗礼堂は11世紀に完成しました。詩人ダンテは「麗しのサンジョバンニ」とこの洗礼堂を表現しています。

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印象的な外観もさることながら、もっともこの洗礼堂を有名にしているのがこの東門の扉。この扉を間近で見たい人たちが絶えません。

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サンジョバンニ洗礼堂には3つの扉があります。南扉はアンドレア・ピサーノ(Andrea Pisano 1290-1348)により完成、北と東扉はロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti 1378-1455)によるものです。

 

1401年、東扉の作者を決定するために美術史上初のコンクールが行われました。

このコンクールではともに彫刻を得意とする金銀細工職人ギベルティとブルネレスキがはげしく争った結果、ギベルティが優勝します。

フィレンツェ政府の意向でギベルティとブルネレスキ共同で門の製作をすることになったのですが、ブルネレスキがそれを拒んだために結局東扉はギベルティの作品となりました。

1424年に完成したギベルティの扉の質の高さから、もう一つの北扉もギベルティが制作することになります。

北におかれるはずの扉は1429年に制作が始まり1452年に完成しました。ミケランジェロから「天国の門」と賞賛され名付けられたこの扉は、完成当時からたくさんの人々を驚かせ、設置される場所も北側から東側に変更されたのでした(先に完成していたギベルティの東扉は北側にうつされた)。ちなみにミケランジェロは、後に制作するシスティーナ礼拝堂の天井画「天地創造」を描くときに、この「天国の門」のギベルティの表現を参考にしたと言います。

 

ミケランジェロに代表される同時代人にも、現代の人も多く惹きつける「天国の門」。

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天国の門は金箔で覆われた10枚のブロンズパネルで構成され、それぞれには旧約聖書の創世記のエピソードが描かれています。「アダムとイブ」「アブラハムの物語」「ノアの方舟」「モーゼの十戒」「ゴリアテを倒すダビデ」。。

そして、この天国の門のこれらレリーフの中にはとても控えめにロレンツォ・ギベルティ本人と息子、同時代の芸術家の像が彫り込まれています。

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1990年代には環境汚染による影響で、酸性雨による天国の門への被害が深刻化。本物は修復作業が行われ、現在はドゥオモ付属博物館に収蔵されています。現在の「天国の門」はレプリカです。

 

さて、洗礼堂の扉のコンクールで敗れたブルネレスキは直後にローマへ。その後彫刻をあきらめ建築家として身を極めました。そして20年後サンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラの設計コンクールでギベルティを抑え勝利し、実際にクーポラを建設して天国の門の雪辱を果たします。

次回はそのフィレンツェのクーポラを戴くドゥオモのお話を。

 

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