2023-01-01から1年間の記事一覧
2023年に心揺さぶってくれた空の姿をまとめてみました。 いろいろ大変なこと辛いことが多い2023年でしたが、こんな空を眺めているとそんな出来事が、どうでもいい小さなことであるかのように体と心の芯から邪気が抜けていくような感覚になります。そしてもっ…
カエサルを書き出して、気がついたら1年半ほどが過ぎていました。さらっと書こうと思って、ここまでずいぶんはしょってきたつもりでしたが、カエサル関連の記事は50、カエサルだけで8万字くらいの文字を費やしたみたいです。 正直とても驚いているのです。な…
忘れられない、忘れてはいけないカエサルの言葉たちを。 「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間うちででしか通用しない表現は、船が暗礁を避けるのと同じで、避けねばならない」 塩野七生著「ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ル…
カエサルと現代のつながりをいくつか。 ◾️暦カエサルと現代のもっとも身近な接点といえば、暦。誰もが耳にした事のある「ユリウス暦」は、カエサルが、それまで使っていた太陰暦を見直し、エジプトの天文学者とギリシアの数学者に新しい暦(太陽暦)を考案させ…
カエサルのいないローマでは、「第2次三頭政治」が始まります。オクタヴィアヌスとアントニウス、それにレピドゥスによる三頭政治なるもの。その目的は反対勢力の壊滅というから、カエサルの時の三頭政治とは趣がずいぶん異なります。 アントニウスとオクタ…
マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年〜 紀元前43年)。ローマ共和政末期を代表する政治家であり文筆家、哲学者であり弁護士でもありました。 キケロはラテン文学の手本とされるたくさんの著作を生み出し、カエサル以上に現代…
カエサルが亡くなって遺言状が公開されたとき、第一相続人のオクタヴィアヌスはローマにはいなかった。カエサルのパルティア遠征に同行するためにカエサルがつけてくれた忠実で有能なアグリッパと共にギリシアのアポロニアにいました。オクタヴィアヌスは忠…
カエサルが暗殺されたあと、 3月16日にカエサルの家で身近な者たちだけが集まり、カエサルが書いた遺言状の存在が明かされ、その場で開封することとなりました。 その場に集められたのは、カエサルの近親者に加え、カエサルの側近、そして執政官アントニウス…
ブルータスよ、おまえもか。。 カエサルの最後の言葉とされるのが、この言葉「ブルータス、お前もか(Et tu, Brute?)」。1599年、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー(The tragedy of Julius Caesar)」でこのセリフが使われ有名になったと言われ、シ…
Idus Martiae(3月15日)、カエサルは暗殺されました。 シェイクスピアは「ジュリアス・シーザー」で元老院議会の会場に到着したカエサルと、「3月15日の不吉」を唱え続けた占い師にこんなやりとりをさせている。 シーザー:「3月15日は来たぞ」 占い師 :「…
ローマ最高の力を持って終身独裁官に就任したカエサルに対して、ローマの人々は、カエサルが「王」になるのではないかと疑いを持ち始めます。歴史的に「王」や「独裁」に強烈なアレルギーをもつローマ市民は、「終身独裁官」となったカエサルに対して心のア…
ガリア戦記と内乱記。 今では「ガリア戦記」「内乱記」として本屋に並ぶ名著ですが、もともとはカエサルが本国ローマへ報告書として書き、刊行されたものです。カエサルのこれら報告書は、その洗練された文章からラテン文学の最高傑作として、刊行当時から絶…
カエサルがさまざまな改革を行った事柄の一つに「元老院最終勧告の廃止」があります。今回はこの元老院最終勧告についてのお話です。 500年つづいた共和制=元老院体制は優れた政治体制ではあったのだけど、広大になったローマを統治するのは限界でした。 ロ…
カエサルが帝政国家への改造に着手した直後、ユリウス暦が適用されてまもなくの紀元前45年3月「ムンダの会戦」という戦闘が起きます。このムンダの会戦は元老院派の残党との戦いで、元老院派を率いて散ったのはカエサルの元側近、側近中の側近、「カエサルの…
カエサルと現代、実はたくさんの接点があります。そのもっとも身近な接点といえば、暦といえるでしょう。 内戦が終わり、まずカエサルが導入したのが暦の改訂でした。 当時ローマ世界が使用していた暦は月の満ち欠けを基準にした「太 陰暦」で1年は12ヶ月で3…
カエサルは新しい国づくりに向けて、一気に事を進めていきます。 内戦が終わってから、一つ一つを対処していったのではなく、内戦を進めながら同時にあらゆる改革の準備を進めていたかのように、言葉通り「一気に」さまざまな事柄がほぼ同時に進んでいくので…
カエサルがタプソスで勝利して、ウティカ(現チュニジア)に入城したことで実質的に内戦が終了します。まだ未踏だったコルシカ島とサルディーニャ島を経由して首都ローマに帰還してから僅か10日後、カエサルのこれまでの戦功に対するド派手な「凱旋式」を執り…
ナイルの船旅を終えて、カエサルは内戦の仕上げにかかります。 というとまず元老院派の残党から、と思いがちですが、まず小アジアへ向かい、カエサルの腹心が制圧に手こずっていた、ポントス王ファルナケス2世を抑えに行きます。ポントスはローマ世界の西、…
カエサルがアレクサンドリアに到着したころ、ちょうどクレオパトラ7世は弟王とその取り巻きによってアレクサンドリアから追放されていました。 逆境に立たされたクレオパトラはローマ内戦の勝利者カエサルに賭けました。退路た絶たれた21歳が、会ったことも…
アレクサンドリアでポンペイウスの死を知った後、カエサルはアレクサンドリアでプトレマイオス朝の内紛(お家騒動)に巻き込まれます。 ローマと良い関係を保ってきた先王のプトレマイオス12世が紀元前51年に65歳で亡くなった。先王の遺言では、 ・姉クレオパ…
「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」 "Alexandriae de Pompei morte cognoscit" カエサルがアレクサンドリアに到着すると、カエサルのもとには香油漬けになったポンペイウスの生首が届けられたのでした。そのときカエサルは涙を流した、と後世…
カエサルはブリンディシからギリシアへ渡り、歴史に刻まれる2つの戦いを展開します。現代に生きる僕たちは、この出来事について当たり前のように、カエサルが勝ち、ポンペイウスが負けた歴史として知っているわけだけど、紀元前48年の当事者にとっては、カエ…
ローマ世界西側の制覇行でヒスパニアを平定した後、カエサルは海路マッシリア(マルセイユ)に再訪して、揉めに揉めていたこのギリシア人の街を服従させます。これによってカエサルは当時のローマ世界の西側を手中にしました。護民官クリオを派遣した北アフリ…
ポンペイウスがイタリア半島を去った時点で、カエサルは次の地域を手中にしました。 ローマ本国(イタリア半島)、前執政官としての担当地域のイリリア(ユーゴスラヴィアやクロアチア周辺)、ガリア全体、ブリタニア。 ローマ本国を手中にして広大な地域を…
カエサルは内戦を通じて、これを「人間世界の悲惨」にしてはならないと考えていました。なので自軍の兵に対して、降伏した相手には危害を加えず、勝敗決した後も街や人々に対しての略奪行為は一切禁止して、元々同胞であるローマ人の命はもちろん街や財産も…
紀元前49年1月12日、賽が投げられた後のカエサルの行動は早かった。「決断した後は断交あるのみ」という現代の辞書にある通りローマ本国へ迷いなく進軍します。 カエサルはガリア戦記と同じく、内乱記という形でその一部始終を書物に書き残しますが、同胞で…
カエサルが意を決して渡ったルビコン川は、トスカーナを流れアドリア海へ注ぐとても小さな川。と、いわれている。アドリア海に面した街、リミニのすぐ北のあたりに、現在ルビコーネと呼ばれる川が流れていて、これが当時のルビコン川である可能性がとても高…
朝から風の強いこの日は、空に普段あまりお目にかかれない面白い雲がたくさんありました。 南の向こうの空に、たくさんの鯨のような、宇宙船の船団のような雲の群れが見えます。これらはLenticuras(レンズ雲)と呼ばれる雲でこの日のように風が強い時に発生す…
元老院最終勧告 ガリア戦役が終わると「反」元老院が明らかになったカエサルに対し、元老院派は攻勢を強める。三頭の一角ポンペイウスを取り込んだ元老院派はクラッススも失ったカエサルに対して、様々な妨害を仕掛け、露骨にカエサルを失脚に追い込もうとし…
今日も面白い空を見ることができました。 Mamma(乳房雲)とよばれる。もこもこの雲。現れてもすぐに消えてしまう繊細な雲で、なかなかお目にかかれない。積乱雲の下にできるといい、この雲が消えると雨が降ると言われています。 その柔らかな名前とは裏腹に…