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カエサル23 静かな逆転

ローマ世界西側の制覇行でヒスパニアを平定した後、カエサルは海路マッシリア(マルセイユ)に再訪して、揉めに揉めていたこのギリシア人の街を服従させます。これによってカエサルは当時のローマ世界の西側を手中にしました。護民官クリオを派遣した北アフリカカルタゴのウティカ攻略は失敗に終わったものの、ポンペイウス追撃に最低限必要な体制が整いつつあったといえます。

◾️独裁官カエサル

カエサルは紀元前49年12月に一旦ローマに戻り、独裁官(Dictator)に選出されます。ローマには古くから緊急事態収拾のために一時的に権力を集中させる「独裁官」という政治システムがありました。権力集中とか王とか独裁とかに過敏に反応するローマ人でしたが、これもまたローマ人らしく冷静に、危機管理対策の有効な方法として、統治システムの中に残し続けていたのがこの「独裁官」という仕組みでした。通常、執政官であっても、民衆の代表である護民官の拒否権が認められていますが、独裁官独裁官以外の拒否権は意味を為さず独裁官は全てを決めて動かすことができました。

この時カエサル独裁官に選出され、ローマ混乱の収拾と次のステップのために素早く動きます。

  • 執政官二人がギリシアへ逃亡してしまい、次年度の執政官選挙ができないことから、独裁官として執政官選挙を取り仕切り、自ら執政官に当選。カエサルは紀元前48年の執政官になります。
  • 社会の混乱は市民の経済的不安が大きな要素となることから、いくつかの経済対策を政策化。
  • これもまた政治空白となっていたローマ西側各属州の総督の任命。
  • かつてスッラが独裁官時代に国法化した、スッラ反対派への粛清法案の撤廃。子孫に至るまで「公職永久追放」を解除し、国外追放者の帰国を許可するなど、スッラ反対派=民衆派が憂き目を見続けていたこれら法律を排除します。

ここまでを速やかに実行して、カエサルはあっさりと独裁官を辞任します。

さらにローマ市民の不安を払拭するべく、カエサルは次年度執政官としてローマの重要な祭儀を開催するのでした。これはカエサルが法的にも市民感情的にも正当な立場を手にいれるための仕上げ的な要素でした。

 

◾️逆転

カエサルがローマ世界の西側を手中にして首都ローマに戻ったのが12月3日、わずか10日ほどのローマ滞在で上のようなことをこなした後、ポンペイウスを抑えるためにローマを発ち、自軍が待つブリンディシへ向かうのでした。紀元前49年12月13日のことです。

紀元前49年1月7日に元老院最終勧告によって「ローマの国賊」の汚名を着せられ、1月12日「賽は投げられた」とルビコンを渡ってから僅か11ヶ月ほどで、法的に正当な立場を手に入れ、今度はローマの正当な執政官として、正規の軍を率いた「総司令官(インペラトール / Imperator)」としてポンペイウス軍を討伐する立場となった、完全に立場が逆転したわけです。

 

カエサルは内戦終結に向けて、ブリンディシからギリシアへ渡るのでした。

 

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