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カエサル21 内戦の開戦

紀元前49年1月12日、賽が投げられた後のカエサルの行動は早かった。「決断した後は断交あるのみ」という現代の辞書にある通りローマ本国へ迷いなく進軍します。

カエサルガリア戦記と同じく、内乱記という形でその一部始終を書物に書き残しますが、同胞であるローマ人を相手にしたこの戦いの記録の言葉は重たい。こうして始まった内戦は、「カエサル元老院派に担がれたポンペイウス」の構図となります。

カエサルはローマ領内の進軍にあたり、兵士たちには当時「勝者の権利」だった略奪を禁止し、降伏した相手には指一本触れないよう厳命したのでした。

◾️元老院、ローマを捨てる

一方で喧嘩を仕掛けたはずの元老院ポンペイウスは、慌てた。

ひたすら慌て、その時初めて自分たちが何も準備してなかったことに気づいたのでした。元老院カエサル元老院最終勧告を出すにあたり、ポンペイウスを味方につけたから大丈夫、と思ったが首都ローマにいたポンペイウスは軍の準備ができていなかった。その結果どうなったか?

1月17日、元老院議員もポンペイウスも首都ローマを捨てた。私財を積んだ元老院議員の荷車でローマの街は溢れたというから、一切合切の財産を積んでローマを出ていったことになる。首都ローマは統治機能が空っぽになってしまった。

軍団を再編成すると言って出発したポンペイウスは、カエサルとの対決を避け、逃げるように南下して、東地中海への港町であるブリンディシからギリシアを目指す。自分の地盤であり、かつ豊かなギリシア・オリエントにいったん引いて軍備整え反撃、という考えがポンペイウスにはあった。しかし多くの元老院議員とともに私財を満載した荷車率いて首都ローマを捨てたポンペイウスの姿を、ローマ市民や軍団兵たちはどんな思いで見つめていただろうか。

◾️カエサルの進軍

ルビコンを越えて南下したカエサルは、進軍する街々をほぼ無傷で攻略し、効率よくローマを目指す。しかし間も無くポンペイウスがローマを捨てたことを知ると、進軍は首都ローマに向けてではなく、ポンペイウスを求めて南下を始めします。この時まだカエサルポンペイウスとの交渉による内戦終結も諦めてはいませんでした。カエサルポンペイウスに使者を送り会談を申し入れます。しかし1対1の会談でカエサルに丸め込まれることを恐れていたポンペイウスはそれには応じません。カエサル側は進軍しながら、ともにルビコンを渡った第13軍団に第8、12軍団が合流、そしてカエサルに忠誠を誓ったガリア人部隊、通称「ひばり軍団」が合流、さらにはポンペイウス軍からの投降兵が大勢加わり、気づけば六十個大隊(約4万)もの兵力となっていました。

一方、ポンペイウスは南下をしながら自軍を集めるもカエサル側に寝返る兵も多く、結局五十個大隊ほどの勢力で2月25日ブリンディシに到着。そして3月17日、大勢の元老院議員とともにギリシアへと出航することになります。ポンペイウス元老院議員も、このわずかな間に首都ローマだけでなく、本国ローマのイタリア半島すら捨ててギリシアへ去ってしまいました。カエサルはブリンディシでポンペイウスの船団が遠ざかっていくのをただ見つめるしかありませんでした。

◾️プランB

もともと内戦そのものを望んでいなかったカエサルは、内戦を短期で終結させることを第一に考えていました。そのためにはポンペイウスがブリンディシを出航する前にことを決する必要があったのです。ポンペイウスの地盤であるギリシアやオリエントでポンペイウスが軍備を整えると一気に形成逆転、海軍力も軍団規模もローマ全域で見ればポンペイウスは当時でもカエサルを軽く凌駕する。カエサルはそれをよく知っていたがために、なんとかポンペイウスがブリンディシを出航する前に追いつき、交渉にしろ戦闘にしろことを決したいと考えていた。

なので、ブリンディシでポンペイウスの船団が遠ざかっていくのを見たカエサルは、内戦の長期化を覚悟して、すぐさまプランBを発動します。

ポンペイウス元老院が去ったイタリアはすでにカエサル支配下となったことで、本国イタリアとガリアはカエサルの勢力圏。ギリシアへ逃れたポンペイウスに対して、カエサルも支配地域の拡大を進め、規模でポンペイウスに劣らぬ状況を作るため、地中海西側の攻略に着手するのでした。

 

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