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古代ローマ小話 哲人皇帝

サンタンジェロ城ハドリアヌス霊廟)には五賢帝の5人目の皇帝マルクス・アウレリウスも埋葬されています。今回は皇帝マルクス・アウレリウスのお話です。

皇帝になるずっと以前から、マルクス・アウレリウスギリシア哲学に傾倒します。中でも自然の中で質素に生きることを美徳とする「ストア派哲学」を生涯学び実践した、哲学者であり人格者でもあったマルクス・アウレリウスのことを人々は「哲人皇帝」と呼ぶのでした。

*もとハドリアヌス霊廟「サンタンジェロ城」ここにマルクスアウレリウスも葬られた。

◾️皇帝以前

先帝アントニヌス・ピウスの甥にあたるマルクスは、17才の時に先帝アントニヌス・ピウスの養子となる。幼少期にはすでに五賢帝3人目ハドリアヌス帝に見出されたというから幼い頃からその明晰な頭脳の片鱗が垣間見られたのかもしれません。

アントニヌス・ピウスは甥であったマルクス・アウレリウスにこう説いたと言います。

「感情を抑制するのに、賢者の哲学も皇帝の権力も何の役に立たない時がある。そのような時には男であることを思い起こして耐えるしかない」

 

*現在のローマ、カンピドリオ広場の中央にはマルクス・アウレリウスの騎馬像が立ちます。

◾️哲人皇帝の誕生

161年に皇帝となってからのマルクス・アウレリウスは、この先帝の教えをそのまま体現するかのような人生でした。即位初期こそ先帝アントニヌス・ピウスの時代の平和の余韻に包まれ、気品ある振る舞いと深い教養、そして哲学に精通した哲人皇帝として市民に迎えられる穏やかな治世の始まりでしたが、すぐに畳み掛けるように、これでもかと言うほどの災厄と事変がマルクス・アウレリウスの治世を襲います。でも哲人皇帝はひとつひとつ、怯むことなくこれら問題に対処していくのでした。

*S.P.Q.R.の文字とマルクス・アウレリウスの騎馬像

◾️災厄の嵐

皇帝に就任した161年にはオリエントの隣国パルティアがローマ領アルメニアに侵攻し、パルティア戦争が勃発します(パルティアはローマ全史を通じて8回もの戦争を起こしました。この時のパルティア戦争はその6回目)。

その最中の162年に起きたテヴェレ川の氾濫によって引き起こされた大飢饉がローマを襲います。

さらに、大苦戦を強いられたパルティアとの戦いもなんとか勝利して、凱旋式を執り行うのですが、この時オリエントの地から兵士が持ち帰ってしまった疫病(天然痘)がローマ世界に広まり500万人の命が奪われた。

また北方ゲルマニアの諸部族がドナウ川を渡ってローマ領へ侵入するようになり、ローマ軍はその度ゲルマニア人達をドナウ川の向こうに押し返していたが、168年に侵入したゲルマニアの一部族であるマルコマン二族がついにローマ軍を破り、ローマ領に深く侵入し本格的な戦争状態となる(マルコマン二戦争)。時間はかかりながらマルコマンニ族はほぼゲルマニアの森へ押し返したものの、戦乱は完全には収拾つかない状態が続きました。事態収拾のため前線に立ち続けたマルクスはその最中、ついにゲルマニアの森の中で疫病に倒れて亡くなってしまいます。この様子は映画「グラディエーター」の冒頭で描かれています(映画では病気で弱った皇帝を息子のコンモドゥスが殺害する、という設定)。

といった具合にありとあらゆる災厄がマルクス・アウレリウスの治世に襲いかかりました。

マルクス・アウレリウスは平穏な時代であれば、先帝アントニヌス・ピウスよりもっと善政を尽くし、平和な帝国を築いたかもしれません。マルクス・アウレリウスは平和な帝国を盤石にして、より良い国を作るための知識も人格も皇帝としての品格も信頼も持ち合わせていました。しかし、ローマを集中的に襲った天災と人災と侵略が皮肉にもそれを許さなかった。マルクス・アウレリウスはそんな運命に逆らうように、その持ちうる全ての能力と経験を応用し、皇帝としての時間の全てを、次々と起こる災厄の解決に振り向けたのでした。哲人皇帝が戦争や侵略や飢餓や疫病などひとつひとつに全力で対処していくその姿は「壮絶」という言葉が相応しい。

◾️自省録

マルクス・アウレリウスは「自省録」と言う書物を残しました。これは一日を終えたあとに日々書かれた日記のようなもので、その日の出来事をこなした自分に対して、ストア派の哲人らしく、短く客観的に書かれた内容は、自分自身への反省だったり、慰めだったり、励ましのような意味合いもあっただろう。またラテン語ではなくギリシア語で書き残したこれらに、マルクス・アウレリウス自身が付けたタイトルは「彼自身のために」。「彼」は自分自身のことであり、本人は他の誰かに読ませること、ましてや出版など考えてもいなかった。

でも「彼自身のために」の言葉は、後世の誰かによって見出され、その後も時代を経て脈々と書き継がれて現代にまで残りました。マルクス・アウレリウスが自分のために書いた言葉の数々が約500編近く、英語圏では「瞑想」、日本語では「自省録」という名前をつけられて、現在の本屋さんに普通に並んでいる。すごいことだ。

 

自省録の中から、僕が共感するものを少しだけ紹介します。

物事の内側を見よ。何事であっても、それ固有の性質と価値を見逃すことのないように

何事も本質を捉えて判断する。それぞれの隠れた価値を見出すことを怠らない。真っ直ぐ生きてく上でとても大事なことだと思います。そして、この「物事」を「人」と置き換えてるとマネジメントの貴重な金言となります。

 

そしてもう一つ、僕自身が今の年齢になって強く共感するのが、、、

(前略)だから急がなくてはならない。なぜなら私達は一日一日と死に近付いているからだけでなく、この世界を把握する能力が、その前に消え去ってしまうからだ

歳をとれば脳みその能力の劣化は避けられない。だからそうなる前、知力と経験が理想的な形で融合して、何かをなすのに必要な体力もまだ残っている今が、大きな挑戦をするための最高で最後のタイミングであることを教えてくれます。

*コロンナ広場の中央に立つマルクス・アウレリウスの記念注

◾️マルクス・アウレリウスという生き方

マルクス・アウレリウスは人格者であり哲学者であり五賢帝の最後の皇帝。運命に翻弄されることなく、自分のなすべきことを見極めて、未曾有の危機にも怯まず立ち向かった勇敢な賢帝。その生き方にはとても共感します。

 

◾️終わりの始まり

僕の愛読書である「ローマ人の物語」シリーズでマルクス・アウレリウスの時代を扱う11巻は「終わりの始まり」とタイトルが付けられています。この「終わりの始まり」という表現がとても秀逸です。

一人の「皇帝」としての評価とは逆行する形で、「ローマの衰退はマルクス・アウレリウス帝から始まった」とする歴史家がとても多いそうで、その最大の理由はその後継者選びにあると言われています。帝政が始まって以降、帝位の継承は紆余曲折ありながらも「実力のある者」が選ばれてきた。マルクス・アウレリウスは後継者にその息子コンモドゥスを指名したと言われています。誰がどう見ても「愚息」であったコンモドゥスは、その期待を裏切ることなく「愚帝」「悪帝」として歴史にその名を刻まれることになる。この「能力」ではない「血」による帝位継承は後世の歴史家たちがいう通り、この後のローマの衰退を加速させることになるのでした。

しかし聡明な哲人皇帝がそんなことするだろうか?と疑問が湧くと、映画「グラディエーター」でのコンモドゥスによる父の暗殺という場面も容易に想像できるというものです。

しかし事実がどうあろうとも、全てを兼ね備えたと思える哲人皇帝の治世を堺にローマの明らかな衰退が始まった。そして哲人皇帝の死によって終わりが始まりは決定的になったのでした。

 

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