
トロイの遺跡への中継地チャナッカレに向かう途中に通り過ぎたガリーポリ。そこにはトルコ共和国建国の父「アタテュルク」にまつわる壮絶な物語がありました。チャナッカレに到着する前に、僕が知ったアタテュルクの物語を記します。
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トルコに行ってやたら目に付く名前、それは「アタテュルク」。
飛行機が到着するのは「アタテュルク空港」。ボスポラス大橋は別名「アタテュルク大橋 」。 当時トルコの通貨であるトルコリラには全ての硬貨と紙幣にアタテュルクの肖像が刻まれていた。アタテュルク、アタテュルク、どこに行ってもアタテュルク。

*ユーロになる前の25万トルコリラ紙幣
トルコの旅ではアヤソフィアはじめとした遺跡と、歴史はコンスタンティノープルの陥落前後のローマ色の濃い時期に焦点を置き、さらにパムッカレやカッパドキアなどの自然と複合された観光の目玉ばかりをマークしていた僕は、 ついうっかりアタテュルクなるものの意味を知らずにトルコまできてしまった。
でも空港でアタテュルクを見つけて以来、旅をすすめるにつれて次第にアタテュルクが明らかになっていくのでした。
◾️アタテュルクとは?
言葉としてのアタテュルクは「建国の父」を意味します。
沈みゆくオスマン帝国をトルコ共和国として生まれ変わらせ、トルコ民族を救った建国の父、初代大統領ムスタファ・ケマル。この人物がアタテュルクの正体でした。
◾️アタテュルクが成したこと
オスマン帝国末期に勃発した第1次世界大戦。トルコはドイツ側について敗戦、国家解体を迫られました。そのトルコの独立を死守し国家を救ったのがこのムスタファ・ケマル・アタテュルクだったのです。 彼によりトルコは独立を勝ち取り、彼により多くの改革が行われ、彼によってイスラムの帝国だったトルコは民主主義国家に生まれ変わったのでした。
その改革の中でも、もっとも重要だったのは「政教分離」。カリフ制の廃止、神学校の廃止、公の宗教活動の禁止、宗教的衣服も禁止(女性がスカーフで顔を隠さなくてもよくなった)、イエニチェリ軍団の解体などなどの改革行い、首都機能をイスタンブルからアンカラに移すなど宗教(イスラム教)との政治接点を徹底的に排した。旧態依然の抵抗勢力との戦いに相当苦労したことが容易に想像されますが、それに屈することなくこれら改革をやり遂げたお陰でトルコ民族の国が救われたのでした。
トルコはいまでもアタテュルクの敷いた レールの上を走り続ける。 イスラム教国でありながら酒を飲み、 老若男女街に繰り出し楽しくすごしたりできるのはひとえにアタテュルクのおかげということなのです。
僕にとってのアタテュルクによる一番の恩恵はアヤソフィア、トプカプ宮殿、ドルマバフチェ宮殿などの歴史遺産の博物館としての一般公開。その中でも特に古代ローマの技術を全て注ぎ込んで建てられたアヤソフィア、キリスト教とイスラム教が染み込んだ貴重な遺産として現代に残るアヤソフィアに入り、見て触ることができる。これはアタテュルクによって博物館として生まれ変わったおかげです。
◾️アタテュルクはなぜ英雄となったのか
第1次世界大戦中の1915〜1916年、ダーダネルス海峡ガリーポリで凄惨な戦闘が行われました。 首都イスタンブルを攻略するためにオスマン帝国領土に上陸してくる連合国軍とそれを迎え撃つトルコ軍との間でまさに死闘が繰り広げられました。
その戦いでトルコ軍を指揮したのが、当時はまだアタテュルクと呼ばれる前の若きムスタファ・ケマルでした。階級は中佐でしかなかったムスタファ・ケマルでしたが、戦いの潮目を読み、自分自身がいるその時と場所が重要な局面にあることを見誤らなかった。上官からの指示を待ってはトルコという国がなくなることを悟った若きムスタファ・ケマルは独断で自軍を率いて連合軍と戦う決意をします。
その時圧倒的な兵力の連合国軍を前にして、自軍に向かって放った言葉は「私は諸君に戦うことを命じない。死ぬことを命じる」だったと伝えられています。
アタテュルクと呼ばれる前、若き中佐であったムスタファ・ケマルは戦いに勝利します。連合国軍とトルコ軍双方合わせて50万人が戦い、10万人以上が戦死したといわれる壮絶な戦いは現在に渡って語り継がれ、 この戦いの後ムスタファ・ケマルは表舞台に姿を現し、トルコ共和国建国を実現する。そしていつの頃からか彼は「アタテュルク(建国の父)」と呼ばれるようになるのでした。
壮絶な戦いが繰り広げられたガリーポリの戦場跡地には敵味方双方の戦死者が葬られている。そこにはアタテュルクが残した慰霊碑があり、次のような言葉が刻まれています。
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Those heroes that shed their blood and lost their lives;
You are now lying in the soil of a friendry counrty. Therefore rest in peace.
There is no difference between the Johnnies and Mehmets to us where they lie side by side here in this country of ours...
You, the mothers;
Who sent their sons from far way countries, wipe away your tears, your sons are now lying in our bosom and are in peace. After having lost their lives on this land and they have become our sons as well.
ATATURK, 1934
その血を流し、命を失った英雄たちへ:
諸君は今、友好国の土の中で眠っている。それゆえ安らかに眠りなさい。この国において、ここで並んで眠るジョニー(イギリス人)とメフメット(トルコ人)は、私たちにとって何の違いもないのだから。
母親たちへ:
はるかかなたの国から息子たちを送り出した母たちよ、涙を拭いてください。あなた方の息子たちは今、私たちの胸の中で安らかに眠っている。この地で命を落としたその時から、彼らは私たちの息子と同じなのだから。
アタテュルク 1934
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敵味方関係なく和解と敬意が示されたアタテュルクの言葉。
アタテュルクが「英雄」と現在まで語り継がれるのは、勇敢に戦い勝利を収め、トルコ独立を実現した彼の「行い」だけではなく、アタテュルクの「心」によるところが大きいのだと思う。ガリーポリの戦いで死んでいった敵味方双方の兵士と、その母をいたわる上の碑文は、今でもトルコの人々に「アタテュルク」という名が響くことを納得させてくれるのです。