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トプカプ宮殿 1

トプカプ宮殿 / Topkapi Sarayi

オスマントルコ帝国の宮殿として、スルタンの住処として、国家機関の中枢として機能したのがトプカプ宮殿です。もともと遊牧民であるオスマントルコの文化に則した大きな庭と機能別に作られた小さめの建物の集合体であることや、イスラムの美術に彩られたその作りはそれまで見てきたヨーロッパの宮殿とはひと味もふた味も違った風情がありました。

スルタン・マホメット2世はこの地(コンスタンティノープル)を占領した後に、今のグランバザールのそばにあった小さな宮殿を住まいとしていましたが、コンスタンティノープル陥落から6年経って、新たな宮殿の建築を命じました。

マホメット2世が新しい宮殿の場所として選んだのは、旧市街の突端の小高い丘の上、金角湾を左手に、正面にボスポラス海峡、右手にマルマラ湾を見渡すことができる、戦略的に絶好の場所であると同時に絶景な見晴らしをもたらしてくれます。

 

下の写真では右手奥にトルコのアジア側、手前にマルマラ湾。正面奥の方に行くとボスポラス海峡で、霞んで見えるのがボスポラス大橋。手前左の方に進むと金角湾があります。三方海に囲まれたこの場所に立つと心地よい海風に吹かれます。

概要

海側の突端に大砲(TOP)の門(KAPI)がおかれていたことから、いつからかトプカプ(TOPKAPI)宮殿と呼ばれるようになりますが、本名はSaray-i Cedide-i Amireといいます。そしてマホメッド2世はここを単なるスルタンの館ではなくオスマン・トルコの国政全ての機能をここに集約させました。この宮殿を完成したのが1468年、その後も歴代スルタンによって拡張され、最終的にその周囲5kmを城壁で囲間れた敷地は面積70万平方メートル、これはバチカンの2倍、モナコ侯国の約半分の広さに相当するそうで、最盛期には5000人もの人々がここで暮らし、同じ数の人々が毎日仕事などのためにここに出入りしていたと言います。

 

1856年にドルマバフチェ宮殿にその機能が移るまでの約400年もの間、トプカプ宮殿はオスマントルコの中枢として機能していたのです。

1923年にトルコが共和国となって、トプカプ宮殿は1924年から博物館として一般公開されるようになりました。

 

トプカプ宮殿はアヤソフィアの隣にあるので、ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿は流れるように見学することができます。

 

皇帝の門

アヤソフィアから道を挟んで隣のトプカプ宮殿に向うとき、最初にくぐるのがこの第1の門(バーブ・フマユン)、またの名を「皇帝の門」。宮殿と外の世界を繋ぐ門です。

マホメッド2世がこの宮殿を建てたと同じ時期の1478年に建てられました。かつてはこの両側に衛兵が控え、「ザハエザヌ(朝の最初の礼拝の呼びかけ)」の時に門が開き、「ヤトゥスエザヌ(夜の最後の礼拝の呼びかけ)」の時に門が閉められていました。かつては限られて人物しかここに入ることはできず、大臣と海外からの公使以外は、ここを過ぎると馬から降りて進まねばなりませんでした。

 

ここを過ぎると、トプカプ宮殿の第一庭園になります。

門をくぐって左手に進むと緑の庭園が広がり、ここには病院や造幣局、建築家の工房やパン工房、そしてイエニチェリ(泣く子も黙るオスマン帝国の特殊部隊)の詰め所などがあったのもこの第一庭園でした。

さらに進んでいくと緑が多くなり、やがて「表敬の門」が現れます。

表敬の門

緑あふれる第一庭園を進むと第二の門(バービュス・セラーム)またの名を「表敬の門」にたどり着きます。

当時はこの手前でこんなチケットを購入して入場していました。

ここを過ぎるとオスマントルコの政治の中枢である第二庭園があります。

ここから先はスルタン以外の人間は、馬を降りて進まねばならない、この門はオスマントルコの聖域との境目でした。

表敬の門をくぐると第二庭園(儀式の庭)に入り、馬屋やハレム、枢密院の議場、第三内庭、宮廷の厨房へそれぞれつながる道が放射状に伸びています。

 

次回トプカプ宮殿の中枢へ行ってみます。

 

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