
オスマントルコのスルタン(皇帝)マホメッド2世は1432年に当時のトルコの首都アドリアーノポリで生まれました。先帝ムラード2世と身分の低い元キリスト教徒の奴隷の母の間に生まれ、アレクサンダー大王やユリウス・カエサルの生涯に異常なほど興味を示して学びながら成長したといいます。スルタンに即位して以降、オスマントルコを最大版図まで拡大し自国では「征服者(ファーティフ)」の称号で呼ばれ、敵であるキリスト教世界からは、その残虐非道の振る舞いによって「血に塗れた君主」と恐れられる存在となりました。その一方で芸術や文化文明に理解を示す賢帝でもあったと言われます。

マホメッド2世はコンスタンティノープルの攻略に心血を注ぎます。先に紹介した要塞ルメリヒサルを建設してコンスタンティノープルへの物資を制限して力を削ぎ、そしてもう一つの戦略により、コンスタンティノープルの攻略実現を手繰り寄せます。
その歴史に残る奇策、それが「艦隊の山越え」です。
コンスタンティノープル側は金角湾の入り口に鎖を渡し、艦船が金角湾に入ることができないようにしました。これによってテオドシウス2世の城壁とともに盤石な防衛線を構築していたのです。マホメッド2世はその裏をつく作戦を実行します。
1453年4月22日コンスタンティノープルに現れたオスマントルコの大小約70隻もの艦船は、陸に上がり丘の上へと進んでいきました。
アヤソフィアから金角湾を挟んだ対岸に見えるガラタ地区の、さらにその向こう側で船は陸に引き上げられ、丘に向かって敷かれた木製の軌道に沿って船は進みます。専用の荷車に乗せられた船は、動物の油がたっぷり塗られた軌道の上を進むために、無数の牛が二手に分かれて引っ張ります。牛たちが船が乗った荷車を引き、人は船が倒れないようにバランスをとる。こうして海抜60mほどのガラタの丘を70隻もの船が登り、丘の向こうの金角湾に次々とオスマントルコの艦隊が進水したのでした。
金角湾の海上封鎖を信じて疑うことのなかった東ローマの人々は、そこにいるはずのないトルコの艦隊が金角湾に現れたことを知ることになります。その時の驚きと絶望感は計り知れないものがあったでしょう。

*艦隊山越えの様子を描いたもの(ドルマバフチェ宮殿)
実際にこの艦隊山越えによる奇襲でオスマントルコはコンスタンティノープル側に準備する時間を与えなかった。オスマントルコ皇帝直轄の精鋭部隊「イエニチェリ」を核とした軍団をコンスタンティノープルの目と鼻の先まで一気に運ぶことに成功したわけです。
コンスタンティノープル(東ローマ)はオスマントルコの来襲に対し、ローマ側に支援要請を出していました。しかしそれに応えたのはコンスタンティノープルで商業的に成功していたヴェネツィアとジェノバとわずかな援軍のみ。おそらくコンスタンティノープルが誕生して約1000年余り20回の包囲戦に耐えてきた難攻不落の街に対して、コンスタンティノープルの人々も、キリスト教世界も大きな危機感はなかったのかも知れません。
しかし一方で、マホメッド2世は用意周到にコンスタンティノープル攻略の駒を一つ一つ積み上げていくのでした。