古代ローマ
現在サンタンジェロ城(イタリア語:Castel Sant'Angelo)と呼ばれるこの建物はもともとローマ帝国の五賢帝の一人ハドリアヌス帝の霊廟 (ラテン語:Mausoleum Hadriani)でした。 皇帝ハドリアヌスが自分自身とその後に続く皇帝たちのための霊廟として、135年…
映画「ローマの休日」のクライマックスとなるのが、現在ではサンタンジェロ城と呼ばれるここ、ハドリアヌス霊廟です。この場所がアン王女の「希望」の最後の場所となるのでした。記者のジョー、カメラマンのアーヴィンと共にサンタンジェロ城の前の桟橋で、…
コンドッティ通りを進むとその突き当たりに、競り上がる丘の斜面に面したちょっとした空間が広がります。宮殿のような階段と椰子の木(?)の姿は南国の雰囲気を醸します。ここ、スペイン広場(Piazza di Spagna)に入ると、まずベルニーニの船の噴水が迎えてく…
ポポロ広場からコルソ通りをフォロ・ロマーノに向かって南下すると、コンドッティ通り(Via dei Condotti)にぶつかります。そこを左に曲がってまっすぐ行くとスペイン広場に行き当たります。 このコンドッティ通りは元々古代ローマの時代に「庭園の丘」と呼ば…
ポポロ広場(Piazza del Popolo)はローマの中心部の北に位置する楕円形の美しい広場です。 「ポポロ広場」のポポロ(Popolo)はイタリア語で「市民」を意味するので、「市民の広場」と言うことになるのだけど、実際の名前の由来はこの広場の北東にあるサンタ・…
フォロ・ロマーノのど真ん中に現在まで残っている神殿、その名前となっている「アントニヌス・ピウスとファウスティナ」。今回はこの夫婦のお話です。 古代ローマ史上最も平和な時代だった五賢帝の世紀。その中でも優れた皇帝として特筆されるのが、トライア…
トレヴィの泉から歩いて5分くらい、上り坂を登ったその先の小高い丘の上に閑散とした広場と宮殿建築が現れます。エジプトのオベリスクの立つこの場所は「クィリナーレ広場(Piazza del Quirinale)」と言い、左の建物は「クィリナーレ宮殿(Palazzo del Quirina…
カエサルはアウグストゥスにとっては母の従兄弟=大叔父に当たります。寛容を旨として、誰とでも気さくに接し、ユーモアを絶やさない、ハゲの女ったらしで、エピキュリアン(快楽主義者)を貫いたカエサルに対して、アウグストゥスはといえば、真面目一徹。 風…
トレヴィの泉につながるヴィルゴ水道をローマに引いたのは、アグリッパという人物。 アグリッパがヴィルゴ水道を引かなければトレヴィの泉は存在しなかったかもしれません。それ以前にアグリッパがいなかったら、ローマ帝国の歴史はなかったかもしれません、…
昼間は絶え間なくたくさんの観光客が押し寄せるトレヴィの泉。その盛況ぶりは夜も変わりません。 イタリアを初めヨーロッパの街の夜のライトアップというのは、どこもとても綺麗です。その建物やモニュメントの特徴を活かしたライティングは景色が綺麗の見え…
トレヴィの泉といえば、泉を背にしてコインを投げ入れることで願いが叶う、という有名な言い伝えがあります。一体いつからどうやって「コインを投げると願いが叶う」ことになったのかは、はっきりした記録がないようです。 313年に皇帝コンスタンティヌスに…
ローマの渋いレンガ色の建物に挟まれた路地を歩いて行くと、その隙間から目を覚ますような真っ白な壁が顔を出します。もう少し進んでいくと、それほど広くはない四角い空間が開けるんです。そしてその空間を囲うある一つの建物の壁には目の覚めるような白亜…
皇帝ハドリアヌス(在位117〜138年 CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAIANVS HADRIANVS AVGVSTVS) 2000年ほど前の今日(138年7月10日)に皇帝ハドリアヌスが息を引き取りました。 五賢帝三人目の皇帝で、若い頃からギリシア文明に精通した文化人であり、政治、軍事か…
ローマ史上「全盛期」と言われる期間、その最初を担ったのが皇帝トライアヌス(CAESAR MARCVS VLPIVS NERVA TRAIANVS AVGVSTVS)。 トライアヌスはヒスパニア(現スペイン)属州に生まれた史上初めての属州生まれの皇帝となりました。生まれなんぞどこだって、…
皇帝ティトゥス(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS)はフラヴィウス朝2代目の皇帝として、紀元79年に即位します。ところが、その即位とほぼ同時にヴェスヴィオ火山の噴火、ローマの大火、疫病という未曾有の災害に見舞われ、逃げることなく対策に挑…
古代ローマは王政から共和政、共和政から帝政へ長い歴史の中で国の政体を変えてきました。紀元前753年の建国から約250年は王政、そのあと約500年は共和政です。 ◾️王政から共和政へ 王政から共和政への変化は、王政の後半にいわゆる「暴君」があらわあれ、そ…
パンテオンから300mほど離れた場所に「コロンナ広場(Piazza Colonna)」があります。コロンナ(Colonna)とは「記念柱」のことで、ここには五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス(CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS)の戦勝を記念して作られた美しい…
コロッセオの落成式が行われたのが紀元後80年。そこに至るまでには様々な紆余曲折がローマにはありました。 カエサルが帝政ローマをグランドデザインして、その後を継いだアウグストゥスがローマ帝国とパクスロマーナを完成させ、アウグストゥスはカエサルの…
ナヴォナ広場のこの不思議な細長い形、その理由はかつてここが戦車競技場(スタジウム / Studium)だったことによるものです。ここはかつて「ドミティアヌス競技場(Stadium Domitiani)」と呼ばれていました。 この競技場はもともとはカエサルが計画し、アウグ…
数あるローマの広場の中で、もっとも美しいと思われるのがここ「ナヴォナ広場(Piazza Navona)」。 パンテオンから300mほどの距離にある美しい広場です。 細長い広場はバロックの建物で囲まれ、3つの見事な噴水がバランスよく配置されています。写真の細長い…
パンテオンは二千年もの間、ローマのこの場所に立ち続けています。長い長い時間を経てもなお、この場所に変わらずにあり続けることは、奇跡のような話であり、それはローマ人のエンジニアたちの叡智によって完成されたこと、ローマがキリスト教国家となって…
パンテオンのドームは古代ローマの建築家、エンジニアの手により多くの困難を克服して実現されました。そしてその後二千年もの間この場所に、姿を変えず存在しつづけている。すごいことだ。 僕は前回、ドーム天井実現の最大の問題だった「重量」を克服する手…
ローマ帝政初期に誕生し、やがてキリスト教と共にあったことで2千年の時を生き抜いたパンテオンは、古代ローマの技術の高さを今でも世界に伝え続けています。今回はパンテオンの構造について綴ります。 パンテオンの内部空間は 直径43.3m、高さ43.3mの広…
パンテオンの正面にはラテン語の碑文があります。 M·AGRIPPA·L·F·COS·TERTIVM·FECIT 意味は「ルキウスの息子マルクス・アグリッパが3度目の執政官のときに建てた」であり、パンテオンにはアグリッパがパンテオンを建てたことが大きく刻まれているのです。し…
パンテオンはローマ帝政初期に誕生し、その形をほぼそのまま維持している貴重な建物です。古代ローマの遺跡はほぼどれも半壊または全壊のような状態であることを考えると奇跡ともいえなくもない。コロッセオでも触れたように、本来ローマンコンクリートを使…
ローマの石畳の道を行くと、その先に神殿のファサードが現れました。太陽の光を反射する石畳のその向こう、何やらギリシアの神殿のような建物が目に飛び込んできます。二千年形を変えることなくこの場所にあり続ける建物「パンテオン (Pantheon)」です。いま…
ヴィトルヴィウスがローマンコンクリートの秘密を記したことを、僕はコロッセオ4で書きました。このヴィトルヴィウス(Marcus Vitrvius Pollio B.C.80頃-B.C.15頃)に関する記録はほとんどなく、何年に生まれ何年に亡くなったのか、どのような人生を過ごした…
72年にヴェスパシアヌス帝によって始められたコロッセオの建設工事は、その長男ティトゥス帝に継承され、80年にほぼ完成し落成式が行われました。その後、次男ドミティアヌス帝が行った工事は最上層の座席の整備と、天幕システムなので、実質的にコロッセオ…
「パンとサーカス」という言葉、この耳に残るフレーズは一度聴いたら忘れません。そして「パンとサーカスによってローマ帝国は滅んだ」と、この言葉は堕落の象徴のように世の中に広まっていると思われる。実際僕も以前はそう思っていたし、おそらく今でもこ…
2000年前のローマ市民になったつもりでコロッセオの中に入ります。 とはいえ、2000年の時の流れは想像力では隠しきれず、かつてはピカピカだったであろう壁面はすっかり風化して、通路にはどこに使われていたのかもわからない石材が無造作に転がる、なかなか…