cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル小話 アンチ・キケロ

マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年〜 紀元前43年)。ローマ共和政末期を代表する政治家であり文筆家、哲学者であり弁護士でもありました。

キケロはラテン文学の手本とされるたくさんの著作を生み出し、カエサル以上に現代まで伝わる書物を残しています。同時代人からは知識人として認められ、弁護士としても超一流とされていました。紀元前63年「カティリーナの陰謀」の際は、執政官として元老院最終勧告を発令し、事前に危機を回避して国家を守った立役者として「国家の父」とも呼ばれキケロはその栄誉に浸りました。キケロは自他ともに認める「共和国ローマ」を愛した国家の重要人物であり、当時最高の知識人として知られていました。

また、カエサルにとってのキケロは、同時代人として唯一高度な意見交換ができた貴重な人物でした。カエサルは当時のローマにとっての共和政体を否定したのに対し、キケロはどんな時代、どんな国家であっても共和政を信じて止まないというように、政治的には完全に敵対関係でいたものの、お互い相手の優れたところを理解し、素直に認め合い、多くの手紙を交わした友人でもあったのです。カエサルの名言が現代に伝わっているのはキケロカエサルの手紙を大切に保管していたおかげとも言えます。

キケロの胸像(Thorvaldsens Museum, Copenhagen)

手紙魔だったキケロは、カエサル以外の人物とも大量に手紙を交わしていて、実はこれが後世の人々にとって、共和政末期の帝政へ移行する混沌とした時代の最高の歴史資料になっているといいます。ルネサンス期に発見されたこれらキケロの手紙は「キケロの書簡集」として編纂され世の中に公表され、いまでも本屋さんに並びます。

一級の知識人が残した、最高権力者はじめ様々な人々との交流の、それもそれぞれ自分の考えや心情を綴った記録はとても貴重です。カエサルガリア戦記は公式文書として発行され、その価値は計り知れないものだけど、キケロカエサル、他の人々との手紙のやり取りは、自由で生々しい息遣いまで感じられるようなもの。想像するだけでワクワクします。そしてカエサルを語る上で「反カエサル」「敗者」の立場から語られたこれらは尚更に価値があるのです。

 

しかし、そんなキケロではあるのだけど、実際の人物像となると少し異なるようです。元老院などの公式議事録は事前に推敲して、自分のセリフは書き換えて、より立派な印象を持たせるように修正したり、大体において自分の手は染めずに周囲の人間を煽って動かして、それがうまくいかなくなると自分は関係ないと離れていく。自分の保身のために、どっちにも行けるような曖昧な態度で終始して、結果が出てから優勢な陣営につく、といった行動もみられ、ラテン語文章の素晴らしさやその知識レベルとは裏腹に、実際のキケロは尊敬できるような立派な人物では、どうもない。

カエサル暗殺の際も、反カエサル派のブレーンとして、ブルータス等にいろいろ指図しておきながら、暗殺終わって市民にそっぽ剥かれた後に「そんなことも考えてなかったのか!?」とブルータスらを叱責する。それを見ていたブルータスの母であり、カエサルの生涯の愛人セルウィリアに、そういうキケロも同じではないと嗜められる一幕もあったとか。

「うまくいけば自分の手柄、失敗すれば自分は関係ない」という、現在でも時々会社で見かけるタイプの人物だったように見受けられる。文章や知識は一流、人物は三流。。。現代の会社組織もこういうタイプが出世して、会社をダメにする。

キケロは、元老院派の名物議員「暴走機関車」小カトー(Marcus Porcius Cato Uticensis、 紀元前95年 - 紀元前46年)が亡くなった時に、小カトーを偲んで賛美する「カトー」なる本を出版します。反カエサル色の強いこれが出版されると、カエサルはすかさず「アンチ・カトー」を出版して、それに公に反論します。キケロとしては自分の筆の力で民衆を味方につけたかった。でもキケロを凌駕する論理と文章の力で「アンチ」を提示され、この目論見は脆く崩れました。カエサルキケロを表す象徴的な出来事です。

 

カエサルにとってキケロは、政治思想の面で唯一の好敵手であり、真逆の思想であってもその理論や知識ではとても勉強になる人物ではあった。文筆家としてのこの二人はラテン文学界を二分するような巨頭であり、とても高いレベルで競える、そんな関係でした。ところがしかし、一方で実際の「人間」キケロは、言ってみれば「口だけ」の人物であって、「人のことより自分のこと」「虚栄心に浸りたい」の人だったように思えてならなりません。「カティリーナの陰謀」で国家の父と呼ばれたころを頂点に、政治家としてのキケロは衰退していく。

 

カエサル

キケロに対し、文章力と知識に対しては「敬意」を払い、その人間性に対しては「寛容」をもって接していた。キケロはそれを理解できず「カエサルから尊敬され認められるローマ唯一の人物」と思っていた。

アウグストゥス(オクタヴィアヌス)は

カエサルに習いキケロと接し、とても狡猾にそして、とてもうまくキケロを活用することで帝政への移行を行っていく。キケロオクタヴィアヌスを「プエル(少年)」と呼び「自分の言うことは何でも聞く従順な少年」と思っていた。

アントニウス

キケロによる、歴史上「フィリッピケ」と呼ばれる、演説と文筆による「アントニウス弾劾」に我を忘れて怒り心頭。最後はキケロを殺し、その首だけでは満足できず、自分を散々侮辱した文章を生み出したその右手も切り離し市中に晒したほどでした。キケロは学もセンスもないアントニウスを軽蔑し、徹底的に糾弾していたのでした。

 

キケロは立派な文章をたくさん残したかもしれない。でもその行動は決して尊敬できるような誇れるものではなかった。だから僕はアンチ・キケロ。でもキケロのおかげで、カエサルはいろいろなものを得ただろう。ルネサンス期に見つかったキケロが残した「手紙」の数々は現代に至るまで、共和政が終わり帝政へ移行するローマの裏舞台を伝え、カエサルの生の姿を僕たちに提供してくれた。

僕はアンチ・キケロだけど、キケロには心から感謝してる。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com