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カエサル33 カエサルのいないローマ

カエサルのいないローマでは、「第2次三頭政治」が始まります。オクタヴィアヌスアントニウス、それにレピドゥスによる三頭政治なるもの。その目的は反対勢力の壊滅というから、カエサルの時の三頭政治とは趣がずいぶん異なります。

アントニウスオクタヴィアヌスはかつてのスッラのように「処罰者名簿」を作成します。カエサル暗殺に関わった人、またそれを見て見ぬふりした人々、さらにその親族まで名簿に加えました。そして名簿に載ってしまった人々を捕らえ、裁判もかけずに命を奪い、財産を没収していくのでした。オクタヴィアヌスアントニウスも、「寛容」を貫いて暗殺されたカエサルを間近にみていたので、カエサルが許したにもかかわらずカエサルを裏切った人々に対して容赦無く罰を下していきました。その様子は、ルビコンを渡る時にカエサルが語り、内戦中も常にそれを避けつづけた「人間世界の悲惨」そのものであり、スッラの処罰者名簿と粛清そのものでした。

処罰者名簿にはカエサル暗殺の首謀者であるブルータスとカシウスを筆頭に、元老院議員三百人、騎士階級2千人もの人が名を連ね、見つかったら即死刑、または財産没収の対象とされたのでした。

オクタヴィアヌスは、この先の国作りのために、カエサルのあとを受け継ぐ自分にとって害悪となりうる人材を一旦消えてもらうことにした。オクタヴィアヌスはこの粛正を政治的に「必要な処置」と冷静に考えて処罰者選びに迷いはなかった。父であるカエサルが、一度は「寛容」によって許したにもかかわらず裏切った人々に対して、容赦もなかった。

一方でアントニウスは気に入らない者を片っ端から名簿に載せて殺していきました。

 

この大々的な粛清の中、象徴的な二人の人物がいます。キケロとセルウィリアです。

キケロ

ローマきっての知識人であり、カエサルとは友人として多くの手紙を交わす仲でした。文筆家としても当時からカエサルと並んでラテン文学の双璧をなした人物でしたが、政治的には「共和政の限界」を唱えたカエサルとは真逆の「共和政こそローマ」という志をもって対立していました。カエサル暗殺では自分の手を汚すことなく裏で暗殺者たちを先導し、カエサル暗殺後はオクタヴィアヌスに近づき、アントニウスへの弾劾演説「フィリッピケ」を展開し、徹底的にアントニウスを批判していました。まだ18歳のオクタヴィアヌスに「父」と呼びかけられ、慕われ、いろいろなアドバイスをしてオクタヴィアヌスを操っているつもりでいたキケロでしたが、処罰者名簿にその名前が載ります。キケロを名簿に載せたのはキケロに侮辱されたアントニウスだったのですが、結局オクタヴィアヌスもそれを否定することはなかった。

オクタヴィアヌスアントニウスによる粛清が始まって間もなく、またカエサルが亡くなってから2年足らずの紀元前43年12月7日にアントニウスが放った刺客によってキケロは殺されました。アントニウスキケロのその首だけでは満足できず、自分を弾劾する数々の文章を書いたその右手も切り離し、市中にさらしたと言います。

キケロが殺害された次の年、カエサルは「神格化」されローマの神となります。カエサルとともにローマきっての知識人と称されたキケロ。あまりにも残念な最期であったと言えます。

◆セルウィリア

処罰者名簿には暗殺に関わった者や反カエサル元老院議員などの本人だけでなく、その家族や親戚も加えられ処罰されました。しかし、暗殺の首謀者とされたマルクス・ブルータスの母であるセルウィリアだけは殺されることも財産を没収されることもありませんでした。

セルウィリアはカエサルが終生愛した、公然の愛人。そのセルウィリアだけはオクタヴィアヌスアントニウスも粛清の対象にはしなかった。セルウィリアはカエサルの暗殺後、息子ブルータスをかばうことも、かくまうこともせず、カエサルから贈られたナポリの別荘で終生静かにすごしたと言われています。

2千人以上もの粛清の嵐のあとのカエサルのいないローマでは、歴史記録の上では、マケドニアでの「フィリッピの会戦」でブルータス始め反カエサルの残党がついに一掃され、その後はカエサルの正当な後継者オクタヴィアヌスと、エジプトの女王クレオパトラと結ばれたローマの将軍アントニウスとの華やかな権力争い。。。となっていく。見出しだけを見ると、カエサルの生きていた頃と負けず劣らずのドラマに思えるのだけど、実のところ「第2次三頭政治」同様に中身はそれほど濃くない。

もともと器のないところに権力を持ってしまったアントニウスの暴走。聡明だったクレオパトラは、エジプト独立の野心を捨て切れず仕方なくアントニウスを篭絡する。「エジプト女王とローマ将軍の結婚」という見出しは華やかだけど、アントニウスクレオパトラの虜となり、クレオパトラに溺れ、ローマの敵となる。その結果、周辺の人心も離れていった。そんな中で行われたのが紀元前31年、ギリシアの海域で行われた「アクティウムの海戦」。当然のようにオクタヴィアヌスが勝利します。

聡明だったはずのクレオパトラは大きな賭けに出て、結局アントニウスとともにエジプト王朝を滅ぼしてしまうことになる。

シェイクスピアによって取り上げられ、近代でも映画などでドラマチックに演出されているこれら出来事の実態は、また違うようです。

オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦に勝利したあと、アントニウス自死し、クレオパトラも毒蛇による自死(諸説あり)を選んだ時、ローマ世界の長い内戦は終止符を打ちます。

 

カエサルのいないこの期間のローマでは、カエサルが行っていたような大胆な発想や創造や緻密な戦略からはかけ離れていました。それは器のない者たちと経験のない者たちで構成された時代だったからといえます。カエサルが亡くなってから13年、18歳だったオクタヴィアヌスはアグリッパとともに着実に経験と実績を積み重ねていきました。そのプロセスはとてもスマートな、とは言えない様だったけれど、31歳になったオクタヴィアヌスはこれまでの期間にその準備を着々と進めてきたのでした。

初代皇帝アウグストゥスとなる準備を、カエサルがグランドデザインを示した「帝政ローマ」を完成させる準備を。

 

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