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パンテオン2 宮大工の心意気

パンテオンの正面にはラテン語の碑文があります。

M·AGRIPPA·L·F·COS·TERTIVM·FECIT

意味は「ルキウスの息子マルクス・アグリッパが3度目の執政官のときに建てた」であり、パンテオンにはアグリッパがパンテオンを建てたことが大きく刻まれているのです。しかし、ややこしい話ですが、今そこにあるパンテオンはアグリッパが建てたものではありません。

簡単にパンテオン建設の歴史をたどります。

◾️アグリッパについて

碑文に登場する「アグリッパ(Marcus Vipsanius Agrippa 紀元前63-紀元前12)」という人物ですが、初代皇帝アウグストゥスの右腕として生涯かけて活躍した人物です。アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が18歳の時にカエサルに見出され、カエサルの後継者に指名されたその時に、同じくカエサルによってアウグストゥスの右腕となるように指名されました。カエサル暗殺後の内乱期には軍事面でアウグストゥスを助け、平和な時期には公共建築などでアウグストゥスを支え、生涯アウグストゥスの右腕として大活躍しました。パンテオンに刻まれるアグリッパという人物はそういう人です。18歳の二人の若者をその資質を見抜いて指名する、カエサルの人を見る目、その先見性には凄みすら感じます。

◾️パンテオンの建設と消失(焼失)

そのアグリッパが、紀元前29年〜19年にかけて浴場、バシリカを備える複合施設を整備します。そこに建てたのがこの全ての神に捧げる神殿「パンテオン」でした。

しかしアグリッパの建てたパンテオンは建設後約100年たった紀元80年に火災で焼失してしまいます。その後、コロッセオを建てた皇帝ヴェスパシアヌスの次男ドミティアヌス帝がパンテオンを再建したのですがこちらも紀元110年に焼失。

現代に残るパンテオンは、紀元125年ころ、五賢帝三番目の皇帝ハドリアヌスによって、当時のローマ建築技術の全てを注ぎ込み建設されました。

そんなわけで現在に残るパンテオンは「アグリッパが建てた」と刻まれながらアグリッパが建てたものではなく、さらに3代目の建物になるのです。

◾️ハドリアヌスによる。。

実際には建てていないアグリッパの名前がパンテオンファサードに刻まれているのは、これを建てた皇帝ハドリアヌスの先人への尊敬の念によります。皇帝ハドリアヌスは20年にわたる在位期間の約半分の時間を使って、帝国内を隅々まで自分の足で巡り過ごしました。帝国の辺境と呼ばれる場所まで赴き、そのあちこちでインフラの再整備や公共建築のメンテナンスを行っています。そしてそれらの修復したインフラや、建替えた建物のほとんどに自分の名前を刻むことはありませんでした。先人を尊重し、その建物や公共施設は完成当時の名前を残し元々これらを建てた人物を讃え刻むのでした。自分は目立つことなく自分かかわった事実が残ればよい。日本の宮大工さんのような心意気です。なので、すっかり姿形を変えた3代目パンテオンも、そのファサードには「アグリッパが建てた」と記されおりハドリアヌスの名前はありません。このことは長いこと歴史家を騙すことにもなったようです。。。

◾️二千年の神殿へ

西ローマ帝国が滅びた後の609年にパンテオンは大きな転機を迎えます。キリスト教会として使用されることが決まるのです。現在につづくカトリック総本山ローマにあって、キリスト教会となったことにより、パンテオンは放棄されることも大規模な破壊をされることも免れることになったのでした(同じことがイスタンブルにのアヤソフィア寺院でも起こります。このお話はまた別の機会に)。

 

時折、コリント式の円柱が持ち去られたり、ファサードにあったブロンズの彫像や、ブロンズの天井が取り外されたりすることはあったものの、パンテオンハドリアヌスが建設した当時のまま、キリスト教と共に二千年もの時を超えることができたのでした。

 

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