ナイルの船旅を終えて、カエサルは内戦の仕上げにかかります。
というとまず元老院派の残党から、と思いがちですが、まず小アジアへ向かい、カエサルの腹心が制圧に手こずっていた、ポントス王ファルナケス2世を抑えに行きます。ポントスはローマ世界の西、現代のトルコの黒海に面した西半分のあたり。ここは昔からローマとはほぼ敵対関係にあって、共和政の時代から、ローマとの戦争が絶えない因縁の王国と言って良い。ただこの頃ポントスの勢いは衰えて、有能な将軍もいない状態で、カエサルにとってみては、当時のポンペイウス軍同様、将軍のいない軍を攻めるに等しかったようです。
現在のトルコはカッパドキア地方にあたるゼラで兵数で言えば圧倒的不利なポントス王ファルナケスとの開戦の様子をカエサルは次のように報告しました。
「来た、見た、勝った」
(VENI VIDI VICI)
相手軍の布陣を見た瞬間、勝ちを確信したその様子をラテン語の韻を踏んで、短く書き送った戦勝報告はこれまたローマ市民を熱狂させたと言います。
カエサルはその後ギリシアを掌握しながら、9月末にブリンディシに渡り、首都ローマに帰ります。
カエサル不在のローマでは、アントニウスがカエサルの代理として統治を任されていた。しかしアントニウスはいくつものミスを犯して、ローマは混乱、アントニウスは政治家としての能力のなさを露呈してしまいます。カエサルはローマに帰還後、任期10年の独裁官に就任、統治機能からアントニウスを外します。わずか1ヶ月ほどの間に多くの問題を片付けて、カエサルはいよいよ内戦の最終処理を行うために、その年の12月、元老院(ポンペイウス)派の残党との決着のため北アフリカに渡るのでした。
現在のチュニジアのタプソスで、元老院派のスキピオ軍を撃破して、スキピオ軍に加勢していたヌミディア王国軍も圧倒。この戦いの中でスキピオが戦死、反カエサルの急先鋒うだった小カトーは自死を選びます。実にあっさりとポンペイウスの残党、元老院派との戦いは決着します。カエサルのいう、「将のいない軍勢」と戦うことは雑作もない。カエサルは内乱記を記しますが、それはポンペイウスの死までで終わっています。その後のアレクサンドリア戦役、北アフリカ戦役についてはカエサルの部下たちが記すことになるのですが、カエサルにしてみれば記録するまでも無いことだったと言える。
タプソスの戦いのあと、元老院派の拠点で北アフリカの首都ウティカに入場し、内戦は完全に終結、カエサルは全ローマ世界を掌握することになります。
カエサルは地中海を渡り、コルシカ、サルディーニャを経由して紀元前46年7月にローマに凱旋します。そして、いよいよ新しい国の形が明らかになっていくのでした。